ドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」(THE ACT OF KILLIG)を見た。こういう映画の紹介は難しいけど、社会的なテーマを扱った記録映画として、非常に画期的な手法だし、また相当評判になっているので、やはり紹介しておきたい。

紹介が難しいと書いたけれど、テーマ的にハードな問題を扱っているから、どう紹介しても見ない人は見ないのではないか。また、テーマ的な関心がある人には、もう情報は大体届いているのではないか。一番大きな問題は、事前に「手法」を知ってみると、「面白み」が多少薄れる感じもするのである。そういった意味で、本当は「知らずに見てしまう」のが一番かもしれない。と言いつつも、「是非とも見るべき重大な問題」を提出しているので紹介しないわけにもいかない。
この映画が扱うのは、インドネシアで1965年、66年頃に100万~200万人にのぼる「共産主義者」が虐殺された事件である。監督のジョシュア・オッペンハイマー(1974~)は、インドネシアで記録映画を撮っていて事件を知り、被害者側の証言を撮影するようになった。ところが軍の妨害が激しく、映画の完成を諦めなければならなくなる。その時、加害者の証言を撮って欲しいと被害者側から提案された。そこで加害者側に接触してみたら、語る語る、自慢げに虐殺の様子を得々と語り始めたわけである。特に身振り手振りで再現する人もいて、では「映画にしてみては」ということになった。つまり、加害者に当時の虐殺の再現ドラマを撮りましょうという企画である。無論、監督のもくろみは恐るべき虐殺事件を告発することなんだけど、この虐殺が否定されず、英雄的行為とみなされている社会では、普通は隠されるべき事件が堂々と表現できるのである。しかし、世界のほとんどの国では、これは「グロテスクな真実」を証明する映画にしか見えない。もちろん、監督もそれをねらっている。そこで見えてくるものは何か。
この虐殺事件の解説は後回しにして、映画の中身を追っていくと、初めは何の後悔もなく殺し方の説明をしていたような人でも、やはり自分のやったことはやり過ぎだったのではないか、被害者に恨まれているのではないかなどと気にしていることが判ってくる。虐殺者として何人かの人物が出てきて、それぞれ少しづつ違うのだが、どの人も社会の大物ではなかった。軍や警察が直接関与するのではなく、下請けの「ヤクザ」にやらせたのである。彼らは「プレマン」と言われていたというが、これは「フリーマン」(英語の「自由人」)から来ているという。中心となるアンワル・コンゴという人物は、北スマトラのメダンで映画館のダフ屋をしていたが、共産党がアメリカ映画の公開に反対していたこともあって反共意識があった。ナチスなどでもそうだけど、社会の中で疎外されている層を組織して「汚い仕事」を任せるようになる。そういう層は外来思想を忌避して「伝統」にすがることが多い。今でも「パンチャシラ青年団」という反共組織が大きな勢力を持っているらしい。(「パンチャシラ」は、インドネシアの「建国五原則」のことで、第一項に「唯一神への信仰」がある。)
この映画が興味深いのは、このように初めは虐殺を自慢していたような人々も、実は自分たちの方が残虐だったのではないかなどとだんだん思うようになっていくプロセスである。そこが一種の「ロール・プレイング療法」ともいうべき効果を上げ始めるのである。「演劇セラピー」と言ってもいい。これは少年犯罪やDV、ストーカー事件などで、自分に対する「振り返り」を行う時に非常に有効性を発揮するのではないか。この映画でも、虐殺を誇るはずの人々がだんだん変わって行ってしまうのである。そこにハンナ・アーレントが言うところの「悪の凡庸さ」を見て取ることもできる。命令され得意げに暴力をふるっていた過去を持つ、「ただの平凡な男の人生」が透かしだされてくる。
インドネシアの現代史に簡単に触れておきたい。インドネシアは第二次世界大戦以前はオランダの植民地「オランダ領東インド」だが、日本占領が終わる間際に独立を宣言した。その後オランダが戻ってきて独立戦争が続くが、結局1949年に独立を達成する。(この独立戦争には一部の日本軍人も参加していた。)独立運動の中心人物だった有名なスカルノが初代大統領になった。日本人のデヴィ夫人が第三夫人になったことでも知られる。スカルノは1955年にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主宰し、インド、中国などと第三世界のリーダーとしてふるまった。63年にイギリス領のマレー半島やボルネオ北部(サバ、サラワク)、シンガポール(65年まで)がまとまって「マレーシア」を結成した時には、「帝国主義」として激しく非難。1965年1月には、国際連合を脱退してしまう。そんなスカルノを支えていたのが、中国とインドネシア共産党だった。インドネシア共産党は、共産圏以外で最大の党員数を誇り、反共意識の強い陸軍との対立が深まって行った。
1965年9月30日に、「9月30日事件」が起きる。この事件の真相はまだまだ不明の点が多いが、表面的には急進左派系の軍人がクーデターを起こそうとして、それを予期していたスハルトらの軍上層部がカウンター・クーデターによって実権を握ったというものである。中国共産党やアメリカ情報部の役割などがあったのかもしれないが、よく判らない。この後、インドネシア各地で「共産主義者」と目された人々への虐殺が始まった。基本的には「イスラーム社会」としての無神論(共産主義)への民衆的反感、東南アジア一帯に広がる「経済を握る華僑への反感」をベースにした反中国人意識などがあった。虐殺だけでなく、100万人規模の政治犯が流刑などに処せられた。スハルトは1968年に大統領となり、「開発独裁」の典型のような強権政治を行ったが、1998年のジャカルタ暴動で長い独裁が崩壊した。
その後、一定の民主化が進み、大統領も選挙で選ばれるようになった。スカルノの娘であるメガワティも大統領になった(2001~2004)こともある。だから、過去の虐殺事件もオープンになったのかと思っていたが、この映画を見ると、そうではないことが理解できる。「9・30事件」とその後の共産党壊滅が、現在のインドネシア社会の前提とされていて、虐殺事件見直しはタブーなのである。だから、虐殺者がテレビに出て、こうやって殺したなどと語れる。「社会の防衛者」として今も英雄なのである。
僕もこの映画を知るまで、この虐殺事件のことを誤解していた。虐殺そのものは、かなり知られている事実なのだが、普通世界で起こる同種の事件の場合、一応「裁判」とか「収容所」がある。つまり、「殺人は悪」だから、「裁判を通した合法化を装う」とか「民衆に見えないように、逮捕、収容などを行ってから虐殺する」というのが普通である。スターリンの粛清、ナチスドイツのユダヤ人虐殺、南米各国の軍事政権下の虐殺など、大体そうである。そうでない場合、民衆による虐殺事件などでは、日本の関東大震災時の様々な虐殺事件のように、ほとんどは「証拠がないとして闇に葬られる」けれど、「時には行き過ぎもあった」として「一部は裁判になる」。だから、「証拠さえあれば、当局も一応起訴せざるを得ない」ことが前提になる。そういう社会でも、政府側は隠ぺいを図るが、虐殺事件そのものを「良かった」とは言えないのである。ところが、この映画を見ると、「虐殺は良いことをした」と今もなお称賛されている。「政府当局者の法執行の行き過ぎ」などではなく、普通の民衆が刃物や針金による絞殺などで残虐に殺したのである。そんな事件が今もなお「肯定的に語られる社会」がごく身近にあったということが信じられない。今もなお、社会のタブーであり、インドネシア側で製作に協力したスタッフのほとんどは、「匿名」でクレジットされている。映画のラストに「anonymous」ばかり出てくるのは衝撃的である。
東京では、シアター・イメージフォーラムで4月半ばから上映中。もうしばらくはやっているらしい。各地での上映は、5月末から6月にかけて行われる地方が多いようである。けっこうしんどい映画だと思うけど、こういう映画も見ないといけない。


紹介が難しいと書いたけれど、テーマ的にハードな問題を扱っているから、どう紹介しても見ない人は見ないのではないか。また、テーマ的な関心がある人には、もう情報は大体届いているのではないか。一番大きな問題は、事前に「手法」を知ってみると、「面白み」が多少薄れる感じもするのである。そういった意味で、本当は「知らずに見てしまう」のが一番かもしれない。と言いつつも、「是非とも見るべき重大な問題」を提出しているので紹介しないわけにもいかない。
この映画が扱うのは、インドネシアで1965年、66年頃に100万~200万人にのぼる「共産主義者」が虐殺された事件である。監督のジョシュア・オッペンハイマー(1974~)は、インドネシアで記録映画を撮っていて事件を知り、被害者側の証言を撮影するようになった。ところが軍の妨害が激しく、映画の完成を諦めなければならなくなる。その時、加害者の証言を撮って欲しいと被害者側から提案された。そこで加害者側に接触してみたら、語る語る、自慢げに虐殺の様子を得々と語り始めたわけである。特に身振り手振りで再現する人もいて、では「映画にしてみては」ということになった。つまり、加害者に当時の虐殺の再現ドラマを撮りましょうという企画である。無論、監督のもくろみは恐るべき虐殺事件を告発することなんだけど、この虐殺が否定されず、英雄的行為とみなされている社会では、普通は隠されるべき事件が堂々と表現できるのである。しかし、世界のほとんどの国では、これは「グロテスクな真実」を証明する映画にしか見えない。もちろん、監督もそれをねらっている。そこで見えてくるものは何か。
この虐殺事件の解説は後回しにして、映画の中身を追っていくと、初めは何の後悔もなく殺し方の説明をしていたような人でも、やはり自分のやったことはやり過ぎだったのではないか、被害者に恨まれているのではないかなどと気にしていることが判ってくる。虐殺者として何人かの人物が出てきて、それぞれ少しづつ違うのだが、どの人も社会の大物ではなかった。軍や警察が直接関与するのではなく、下請けの「ヤクザ」にやらせたのである。彼らは「プレマン」と言われていたというが、これは「フリーマン」(英語の「自由人」)から来ているという。中心となるアンワル・コンゴという人物は、北スマトラのメダンで映画館のダフ屋をしていたが、共産党がアメリカ映画の公開に反対していたこともあって反共意識があった。ナチスなどでもそうだけど、社会の中で疎外されている層を組織して「汚い仕事」を任せるようになる。そういう層は外来思想を忌避して「伝統」にすがることが多い。今でも「パンチャシラ青年団」という反共組織が大きな勢力を持っているらしい。(「パンチャシラ」は、インドネシアの「建国五原則」のことで、第一項に「唯一神への信仰」がある。)
この映画が興味深いのは、このように初めは虐殺を自慢していたような人々も、実は自分たちの方が残虐だったのではないかなどとだんだん思うようになっていくプロセスである。そこが一種の「ロール・プレイング療法」ともいうべき効果を上げ始めるのである。「演劇セラピー」と言ってもいい。これは少年犯罪やDV、ストーカー事件などで、自分に対する「振り返り」を行う時に非常に有効性を発揮するのではないか。この映画でも、虐殺を誇るはずの人々がだんだん変わって行ってしまうのである。そこにハンナ・アーレントが言うところの「悪の凡庸さ」を見て取ることもできる。命令され得意げに暴力をふるっていた過去を持つ、「ただの平凡な男の人生」が透かしだされてくる。
インドネシアの現代史に簡単に触れておきたい。インドネシアは第二次世界大戦以前はオランダの植民地「オランダ領東インド」だが、日本占領が終わる間際に独立を宣言した。その後オランダが戻ってきて独立戦争が続くが、結局1949年に独立を達成する。(この独立戦争には一部の日本軍人も参加していた。)独立運動の中心人物だった有名なスカルノが初代大統領になった。日本人のデヴィ夫人が第三夫人になったことでも知られる。スカルノは1955年にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主宰し、インド、中国などと第三世界のリーダーとしてふるまった。63年にイギリス領のマレー半島やボルネオ北部(サバ、サラワク)、シンガポール(65年まで)がまとまって「マレーシア」を結成した時には、「帝国主義」として激しく非難。1965年1月には、国際連合を脱退してしまう。そんなスカルノを支えていたのが、中国とインドネシア共産党だった。インドネシア共産党は、共産圏以外で最大の党員数を誇り、反共意識の強い陸軍との対立が深まって行った。
1965年9月30日に、「9月30日事件」が起きる。この事件の真相はまだまだ不明の点が多いが、表面的には急進左派系の軍人がクーデターを起こそうとして、それを予期していたスハルトらの軍上層部がカウンター・クーデターによって実権を握ったというものである。中国共産党やアメリカ情報部の役割などがあったのかもしれないが、よく判らない。この後、インドネシア各地で「共産主義者」と目された人々への虐殺が始まった。基本的には「イスラーム社会」としての無神論(共産主義)への民衆的反感、東南アジア一帯に広がる「経済を握る華僑への反感」をベースにした反中国人意識などがあった。虐殺だけでなく、100万人規模の政治犯が流刑などに処せられた。スハルトは1968年に大統領となり、「開発独裁」の典型のような強権政治を行ったが、1998年のジャカルタ暴動で長い独裁が崩壊した。
その後、一定の民主化が進み、大統領も選挙で選ばれるようになった。スカルノの娘であるメガワティも大統領になった(2001~2004)こともある。だから、過去の虐殺事件もオープンになったのかと思っていたが、この映画を見ると、そうではないことが理解できる。「9・30事件」とその後の共産党壊滅が、現在のインドネシア社会の前提とされていて、虐殺事件見直しはタブーなのである。だから、虐殺者がテレビに出て、こうやって殺したなどと語れる。「社会の防衛者」として今も英雄なのである。
僕もこの映画を知るまで、この虐殺事件のことを誤解していた。虐殺そのものは、かなり知られている事実なのだが、普通世界で起こる同種の事件の場合、一応「裁判」とか「収容所」がある。つまり、「殺人は悪」だから、「裁判を通した合法化を装う」とか「民衆に見えないように、逮捕、収容などを行ってから虐殺する」というのが普通である。スターリンの粛清、ナチスドイツのユダヤ人虐殺、南米各国の軍事政権下の虐殺など、大体そうである。そうでない場合、民衆による虐殺事件などでは、日本の関東大震災時の様々な虐殺事件のように、ほとんどは「証拠がないとして闇に葬られる」けれど、「時には行き過ぎもあった」として「一部は裁判になる」。だから、「証拠さえあれば、当局も一応起訴せざるを得ない」ことが前提になる。そういう社会でも、政府側は隠ぺいを図るが、虐殺事件そのものを「良かった」とは言えないのである。ところが、この映画を見ると、「虐殺は良いことをした」と今もなお称賛されている。「政府当局者の法執行の行き過ぎ」などではなく、普通の民衆が刃物や針金による絞殺などで残虐に殺したのである。そんな事件が今もなお「肯定的に語られる社会」がごく身近にあったということが信じられない。今もなお、社会のタブーであり、インドネシア側で製作に協力したスタッフのほとんどは、「匿名」でクレジットされている。映画のラストに「anonymous」ばかり出てくるのは衝撃的である。
東京では、シアター・イメージフォーラムで4月半ばから上映中。もうしばらくはやっているらしい。各地での上映は、5月末から6月にかけて行われる地方が多いようである。けっこうしんどい映画だと思うけど、こういう映画も見ないといけない。