12月は個別に追悼記事は書かなかったけれど、僕もずいぶん接してきた多くの方々が亡くなった。
日本近現代史、特に大正時代研究で著名な松尾尊兌(まつお・たかよし、12.14没、85歳)氏の訃報には驚いた。京都大学勤務ということあって直接話を聞いたことはないけれど、非常に影響を受けた歴史家だった。特に「大正デモクラシー」(1974)で描き出された「大正デモクラシーの未発の可能性」には大きな影響を受けた。在任2カ月の短命宰相としか思ってなかった石橋湛山の「植民地放棄論」を高く評価したことも印象に残る。その時代には影響を与えられなかったが、それでも「勇気ある言論」が後世に見出されることがあるのだ。岩波文庫にある「石橋湛山評論集」も松尾氏の編集。様々な著作があるが、研究書としては「普通選挙制度成立史の研究」が大部の著作。最近まで著作を刊行していたので、正直驚いたし、残念。
(松尾尊兌)
年末の高石ともやコンサートで触れたばかりの笠木透(かさぎ・とおる)が亡くなった(12.22没、77歳)。病床にあることは知っていたが、もう少し日本の行く末を見守って欲しかった。コンサートで聞いたのは一度だけだと思うけど、非常に思い出深い歌を作った人。もともと岐阜県中津川の労音で事務局長をしていて、新しく登場したフォークソングを呼ぶようになった。かの伝説の「中津川フォークジャンボリー」(正式な名前は、全日本フォークジャンボリー)を企画、実行した人である。その後自分でフォークソングのグループをいくつも作り、歌も作った。晩年は護憲コンサートを続けていた。いくつも好きな歌があるが、「私の子どもたちへ」は美しい歌詞とメロディ、メッセージの深い思いに打たれる。「生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を」と始まる歌は、3番になると「生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは」となる。僕はここまで来て、福島第一原発の事故を想わずにいられない。だからこそ、最後の歌では「海を汚すなよ」「水に流すなよ」「私は恥ずかしい」と深い思いを歌わざるを得ない。それが僕らの時代だった。
(笠木透)
群馬県太田市で、「渡良瀬川鉱毒根絶太田期生同盟会」を結成し足尾鉱毒問題と闘い続けた板橋明治氏が亡くなった。12.24没、93歳。足尾鉱毒問題と言えば、明治の田中正造を思い浮かべ、谷中村を犠牲にした遊水地建設で終わったと思わせられてきた。今でもそう思っている人がいるかと思うが、鉱毒そのものは延々と流れ出続けて、戦後何十年も経ってからも被害を出し続けていたのである。僕は田中正造や鉱毒問題にはずっと関心を持ってきたが、鉱毒問題をたどるバス旅行に参加したことがあって、その時に板橋氏の話を聞いている。もう40年ほども昔のことだけど、取水口近くと遠くでは同じ田でも収穫量に大きな差があることを、実際の稲穂をもとにまざまざと実感した。
(銅像)
小笠原豊樹(12.2没、82歳)は本名で翻訳、研究を行うほか、岩田宏名義で詩作を続け戦後を代表する詩人のひとりと言われる。僕は岩田宏の詩を読んでないのだが、小笠原豊樹の翻訳はものすごく読んでる。今年になってからも、去年の暮れに出たばかりのアンリ・トロワイヤ「仮面の商人」(小学館文庫)という驚くような小説を読んだばかり。マヤコフスキーに関する著作があるように、ロシア文学の翻訳が多いのだが、それだけでなく、英米のミステリーやフランス文学の翻訳も多い。ソルジェニーツィンの「ガン病棟」「マトリョーナの家」などもあるけど、レイ・ブラッドベリ「火星年代記」「刺青の男」「太陽の黄金の林檎」「死ぬときはひとりぼっち」、ロス・マクドナルド「ウィチャリー家の女」「さむけ」「縞模様の霊柩車」などもこの人の訳だった。そうすると、あまり意識しなかったけど、僕の感性はずいぶん小笠原豊樹という人に作られてきた面があるのかもしれない。
(小笠原豊樹=岩田宏)
杉原美津子(12.7没、70歳)は、1980年の新宿バス放火事件の被害者として九死に一生を得た人だった。その体験を「生きてみたいもう一度」というノンフィクションを発表し、恩地日出夫監督により映画化された。その後も様々なテーマで書いていたようだが、2014年になって「炎を超えて」を出した。この最後の本はまだ読んでないのだが、「被害者」から出発して「加害者」をも含む世界のありようを考え続けた人だった。
佐渡でトキ研究、保護活動を続けた佐藤春雄氏(12.9没、95歳)は、小林照幸「朱鷺の遺言」という大宅賞受賞ノンフィクションの中心人物である。この人がいなかったら、朱鷺保護活動はなかったのではないか。商業高校の教諭を続けながら、管理職を断りトキを見守り続けた人で、その凄さは先の本にくわしい。一度読んでみて欲しい本である。
(佐藤春雄)
斉藤隆雄(12.6没、85歳)は映画撮影監督で、黒澤映画で「椿三十郎」以後の作品(ソ連で撮った「デルス・ウザーラ」を除き)の撮影を担当した。「ニッポン無責任時代」など他の作品も担当している。その割に名前は知られてなくて、僕も特に印象にないんだけど、監督の黒澤明が偉大すぎて影が薄れてしまったということだろうか。文学座の稲野和子(12.18没、79歳)、映画評論家の品田雄吉(12.13没、84歳)も亡くなった。ロック歌手のジョー・コッカ―(12.22没、70歳)は、「ウッドストック」でビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」を歌っていた人。
音楽評論家で文化功労者に選ばれている遠山一行(12.10没、92歳)は、名前はよく聞いたけれど、クラシック音楽の評論の世界はよく知らない。江藤淳、高階秀爾とともに「季刊芸術」を創刊した人。年末に長崎原爆の「語り部」、片岡ツヨ(12.30没、93歳)、沖縄ひめゆり部隊の「語り部」、宮城喜久子(12.31没、86歳)の訃報が伝えられた。戦後70年の年を前に、まさに戦争体験者がいなくなりつつあるという時間を意識させる訃報だった。
日本近現代史、特に大正時代研究で著名な松尾尊兌(まつお・たかよし、12.14没、85歳)氏の訃報には驚いた。京都大学勤務ということあって直接話を聞いたことはないけれど、非常に影響を受けた歴史家だった。特に「大正デモクラシー」(1974)で描き出された「大正デモクラシーの未発の可能性」には大きな影響を受けた。在任2カ月の短命宰相としか思ってなかった石橋湛山の「植民地放棄論」を高く評価したことも印象に残る。その時代には影響を与えられなかったが、それでも「勇気ある言論」が後世に見出されることがあるのだ。岩波文庫にある「石橋湛山評論集」も松尾氏の編集。様々な著作があるが、研究書としては「普通選挙制度成立史の研究」が大部の著作。最近まで著作を刊行していたので、正直驚いたし、残念。
(松尾尊兌)
年末の高石ともやコンサートで触れたばかりの笠木透(かさぎ・とおる)が亡くなった(12.22没、77歳)。病床にあることは知っていたが、もう少し日本の行く末を見守って欲しかった。コンサートで聞いたのは一度だけだと思うけど、非常に思い出深い歌を作った人。もともと岐阜県中津川の労音で事務局長をしていて、新しく登場したフォークソングを呼ぶようになった。かの伝説の「中津川フォークジャンボリー」(正式な名前は、全日本フォークジャンボリー)を企画、実行した人である。その後自分でフォークソングのグループをいくつも作り、歌も作った。晩年は護憲コンサートを続けていた。いくつも好きな歌があるが、「私の子どもたちへ」は美しい歌詞とメロディ、メッセージの深い思いに打たれる。「生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を」と始まる歌は、3番になると「生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは」となる。僕はここまで来て、福島第一原発の事故を想わずにいられない。だからこそ、最後の歌では「海を汚すなよ」「水に流すなよ」「私は恥ずかしい」と深い思いを歌わざるを得ない。それが僕らの時代だった。
(笠木透)
群馬県太田市で、「渡良瀬川鉱毒根絶太田期生同盟会」を結成し足尾鉱毒問題と闘い続けた板橋明治氏が亡くなった。12.24没、93歳。足尾鉱毒問題と言えば、明治の田中正造を思い浮かべ、谷中村を犠牲にした遊水地建設で終わったと思わせられてきた。今でもそう思っている人がいるかと思うが、鉱毒そのものは延々と流れ出続けて、戦後何十年も経ってからも被害を出し続けていたのである。僕は田中正造や鉱毒問題にはずっと関心を持ってきたが、鉱毒問題をたどるバス旅行に参加したことがあって、その時に板橋氏の話を聞いている。もう40年ほども昔のことだけど、取水口近くと遠くでは同じ田でも収穫量に大きな差があることを、実際の稲穂をもとにまざまざと実感した。
(銅像)
小笠原豊樹(12.2没、82歳)は本名で翻訳、研究を行うほか、岩田宏名義で詩作を続け戦後を代表する詩人のひとりと言われる。僕は岩田宏の詩を読んでないのだが、小笠原豊樹の翻訳はものすごく読んでる。今年になってからも、去年の暮れに出たばかりのアンリ・トロワイヤ「仮面の商人」(小学館文庫)という驚くような小説を読んだばかり。マヤコフスキーに関する著作があるように、ロシア文学の翻訳が多いのだが、それだけでなく、英米のミステリーやフランス文学の翻訳も多い。ソルジェニーツィンの「ガン病棟」「マトリョーナの家」などもあるけど、レイ・ブラッドベリ「火星年代記」「刺青の男」「太陽の黄金の林檎」「死ぬときはひとりぼっち」、ロス・マクドナルド「ウィチャリー家の女」「さむけ」「縞模様の霊柩車」などもこの人の訳だった。そうすると、あまり意識しなかったけど、僕の感性はずいぶん小笠原豊樹という人に作られてきた面があるのかもしれない。
(小笠原豊樹=岩田宏)
杉原美津子(12.7没、70歳)は、1980年の新宿バス放火事件の被害者として九死に一生を得た人だった。その体験を「生きてみたいもう一度」というノンフィクションを発表し、恩地日出夫監督により映画化された。その後も様々なテーマで書いていたようだが、2014年になって「炎を超えて」を出した。この最後の本はまだ読んでないのだが、「被害者」から出発して「加害者」をも含む世界のありようを考え続けた人だった。
佐渡でトキ研究、保護活動を続けた佐藤春雄氏(12.9没、95歳)は、小林照幸「朱鷺の遺言」という大宅賞受賞ノンフィクションの中心人物である。この人がいなかったら、朱鷺保護活動はなかったのではないか。商業高校の教諭を続けながら、管理職を断りトキを見守り続けた人で、その凄さは先の本にくわしい。一度読んでみて欲しい本である。
(佐藤春雄)
斉藤隆雄(12.6没、85歳)は映画撮影監督で、黒澤映画で「椿三十郎」以後の作品(ソ連で撮った「デルス・ウザーラ」を除き)の撮影を担当した。「ニッポン無責任時代」など他の作品も担当している。その割に名前は知られてなくて、僕も特に印象にないんだけど、監督の黒澤明が偉大すぎて影が薄れてしまったということだろうか。文学座の稲野和子(12.18没、79歳)、映画評論家の品田雄吉(12.13没、84歳)も亡くなった。ロック歌手のジョー・コッカ―(12.22没、70歳)は、「ウッドストック」でビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」を歌っていた人。
音楽評論家で文化功労者に選ばれている遠山一行(12.10没、92歳)は、名前はよく聞いたけれど、クラシック音楽の評論の世界はよく知らない。江藤淳、高階秀爾とともに「季刊芸術」を創刊した人。年末に長崎原爆の「語り部」、片岡ツヨ(12.30没、93歳)、沖縄ひめゆり部隊の「語り部」、宮城喜久子(12.31没、86歳)の訃報が伝えられた。戦後70年の年を前に、まさに戦争体験者がいなくなりつつあるという時間を意識させる訃報だった。