尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「言論の自由」をめぐって-仏テロ事件②

2015年01月26日 23時41分27秒 |  〃  (国際問題)
 「言論の自由」をめぐっては、中国人が作ったという秀逸なジョークがある。
 あるアメリカ人と中国人が「言論の自由」をめぐって話になった。アメリカ人は「『言論の自由』はとても大切なもので、わがアメリカでは完全に認められています。例えば、ニューヨークのタイムズスクエアで『オバマは辞めろ』と叫んでも、警官に捕まることはありません」と言った。それを聞いた中国人は「わが中国でも『言論の自由』は認められています。北京の天安門広場で『オバマは辞めろ』と叫んでも、警官に捕まることはありません」と言った。

 このジョークを作った中国人は、なかなか「言論の自由」の本質をつかんでいるではないか。「言論の自由」が何よりも重要だと考えるなら、韓国で産経新聞の特派員が書いた記事をめぐって大統領に対する名誉棄損で訴追されている事件をどう考えるべきだろうか。「私は産経」と書いたプラカードを持って韓国大使館にデモをするべきなのだろうか?しかし、僕はそういう気にはならないのだが。僕は今回の韓国検察当局の起訴という判断を支持するものではない。また、「被害者」である大統領の対応にも疑問を持っている。しかし、それ以上にそもそも訴追をもたらしたネット上の記事なるものが、頑張って「言論の自由」を守らなければと言うほどのものかと思ってしまうわけである。

  「言論の自由」と言ったって、何を言ってもいいわけじゃないのは当たり前である。いじめがあるクラスで、「あいつ、キモイよな」という「言論の自由」は認められない。そのクラスの中で「そんなことを言うもんじゃないよ」注意できるかどうか。そんなイジメ的言動はおかしいと思いつつ、クラスの雰囲気が反イジメ発言を許さないようなものだったら、そのクラスには「言論の自由」がないと言わないといけない。「ブラック企業」の中で、「そのような言動は労働基準法に違反します」と言えるだろうか。そう考えていくと、多くの人は「日本には言論の自由がある」と無条件に信じ込んでいるが、実は会社や学校の中で、あるいは地域社会の中で、実質的には「言論の自由」が保障されていないところは多いはずである。

 つまり、多数者が「言論の自由」を行使できるのは当たり前で、問題は社会のマイノリティが声を挙げられるかが「言論の自由」の本質だということである。だから、自国にある問題を自国で発言できるかどうかが、「言論の自由」の持つ意味だということである。こういう文脈で考えると、「シャルリ―・エブド」特別号の「ムハンマド(と思われる人物)」を描いたということは、かなりの疑問を持たざるを得ない。それはフランス社会においては禁止されていることではない。(フランスの中のムスリムが反発することは予想されるが。)だから、襲撃を受けたことに対する「風刺」としては、どうしても描かなければいけないというほどの切実さはないように思うのだが。「売り言葉に買い言葉」的に描いたとしたら、あまり質の高い風刺とはいえないだろう。フランス国内では、この事件を機に「反イスラム」「反ユダヤ」的な言動が起こったことは間違いない。風刺の対象とするなら、そのことではないのだろうか。

 だけど、それでは多くのイスラム諸国で起こった「反フランスデモ」はどう考えるべきなんだろうか。よく中国の反日デモが、実は反日に名を借りた反政府デモの要素があると指摘する人がいる。それがどの程度当たっているかはともかく、チェチェンやニジェールでは「イスラム教擁護」を掲げないとデモができないという要素もあるのではないかと思う。だけど、「シャルリ―・エブド」は自由な言論を行う権利を行使しただけで、フランスそのものを排斥するのはおかしい。その「おかしさ」をイスラム社会の中で主張できるのかどうか。イスラム社会の中には、はっきり言って西欧社会以上に大きな問題が山積しているはずである。そのことを内部で発言できるかどうか。「言論の自由」は西欧社会以上に、多くのアジア、アフリカ社会でこそ重大な意味を持っている。

 フランス社会では、大革命以来の様々な激動を経て、いわば血によって確立された多くの原則がある。その中でもカトリック教会との闘争の果てに確立された「政教分離」(ライシテ)の原則が重要である。近年、フランスの中のムスリムに対する「排斥」とも見られかねない法律が制定されて問題化してきた。2004年には学校内で宗教的な「しるし」を禁止する法律ができた。これは実質的にはムスリム女性が学校内でスカーフをかぶることを禁止するものである。また、2010年には公共空間でブルカ(スカーフ)をかぶることを禁止する法律も制定されている。この法律は欧州人権裁判所にフランス政府を訴える裁判が起こされたが、2014年に同法を支持する判決が出ているという。日本では、左派やリベラル派に「少数派文化への寛容」を求める傾向があるが、フランスでは「共和国の原則」を守るという意味で「左派」は「ライシテ」の擁護派だろう。ブルカはイスラム社会における女性抑圧の象徴だとして、フェミニストにも反ブルカ法支持が多いのではないかと思う。

 そういう社会では、イスラム教をも風刺の対象とするのは当然と考える左派系雑誌を支持するのは当然と考えられる。しかし、日本ではムスリム社会が非常に少数であって、インドネシアやマレーシアからのムスリム観光客を増やすために、「ハラール」(許されたものの意味。食品の調理、加工で認められた作法を守っているかどうかを主にさす)に対する関心が高まっている。日本では「そういうことがあるんだ」の段階で、「世界を知る」という必要性があるレベルだろう。社会ごとに「言論の自由」が求められる意味合いは変わってくる。他国のことはさておき、日本の中にも「タブー」的なものもある。また「言論の自由」があっても「言論市場」で売れないことには発信する意味が少なく、ほとんど売れない本を書いても社会には問題が知られない。「沖縄」も「原発」も大量の情報があるようでいて、大新聞やテレビでの報道は少なく、「知ってるようで知らない」とも言える。少しでも「実質的な言論の自由」の幅を広げていくことが大切なんだと思っている。 
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「私はシャルリー」考-仏テロ事件①

2015年01月26日 00時23分54秒 |  〃  (国際問題)
 一年の初めから、イスラム「過激派」に絡む問題が起こり続けて、気持ちが重い。ここでも書き残しておきたいと思っていたけど、ただ今事態進行中の「イスラム国」による日本人「人質」問題はすぐには語れない。進行中は安易に語ることはできないし、特に情報を持っているわけではないのだから。安倍政権の対応を問題視する意見もあるようだけど、それも情報が少ないし、今は見守ることしか僕にはできない。(ただし、これは「イスラム国」とは無関係な問題だが、阪神淡路大震災20年の追悼行事に出るべきだったのではないか、という気持ちは持っている。)

 題名に「仏テロ事件」と書いたけど、これは長くなるからカッコをつけなかっただけで、本来は「フランス」における「テロリズム事件」とカッコを付けるべきだと思っている。本来は「テロとは何か」から考えるべきで、それは次回以後に考えたい。それと誤解する人はいないだろうと思うけど、「仏テロ」とは「仏教過激派によるテロ事件」という意味ではない。「仏教過激派」なんてあるのかというかもしれないが、「オウム真理教」はそうではないのか。それは置いといても、「民主化」が進んだミャンマーでは多数派の仏教徒の中に「過激な国家主義勢力」が登場して、少数派のイスラム教ロヒンギャ族に対する襲撃事件を繰り返している。タイ南部もそうだけど、仏教とイスラム教が争っている地域もあるのである。

 さて、フランスの風刺週刊誌「シャルリ―・エブド」が1月7日に襲われて、12人の死者を出した。だが、その後警官襲撃やユダヤ系経営者のスーパーが襲われるなどの事件も起こり、まだ不明なところも多いが、一種の「同時多発テロ」だったと思われる。「シャルリ―・エブド」はどちらかと言えば左派系無神論に立つようで、イスラムだけでなく、キリスト教やユダヤ教、極右政治家なども風刺の対象にしてきたという。そのため、今までもイスラム教徒(ムスリム)からの反発があり、襲われたこともある。今回の事件は、今までにはない国際性、計画性、残虐性が見受けられ、フランスのみならず世界の衝撃を与えたわけである。

 この事件に対し、自然発生的に追悼の動きが起こり始め、「私はシャルリ―」(Je suis Charlie)という言葉を合言葉に連帯の動きが広がる。そして、世界の首脳も多数参加した追悼デモが11日に行われた。しかし、その後「シャルリ―・エブド」が再びムハンマド(と思われる人物)を表紙に描いた特別号を出した。しかし、この風刺画には賛否両論が沸き起こり、フランス有力紙の中でも転載したところと転載しなかったところがある。世界各地で反フランスデモも起こり、「私はシャルリ―ではない」という言葉を使う人も現れた。それ以外に、シャルリ―・エブド社を警備していて射殺された警官でムスリムのアフマド・ムラベにちなんで「私はアフマド」と言う言い方もムスリムには多いと言う。

 さて、この事態をどのように考えるべきか、問題はいくつかあるだろう。一つの事態に対しても、様々の立場から「ともに立つ」ことは普通のことだから、「私はシャルリ―」と掲げた人にも様々な立場があるだろう。まずは「言論の自由」というものをどう考えるべきかというのが一つの論点である。これは次回以後に考えたい。しかし、世の中に完全な自由というものはありえないわけで、問題はそれでも「シャルリ―・エブド」に連帯を示す立場はどのようなものかということだと思う。この事態は、イスラム過激派によるフランス、あるいは西欧世界への攻撃であるととらえるのがもう一つの考え方である。フランス国会議場では、史上まれな国歌「ラ・マルセイエーズ」を議員が自然発生的に歌い始めたというが、それも「フランスへの攻撃」に対するナショナリズムの発露だろう。(日本人から見ると、この「ラ・マルセイエーズ」の歌詞も何だか好戦的で、テロ誘発的な感じを受けてしまうんだけど。)

 しかし、僕が思っているのは、どちらともちょっと違ったとらえ方である。「シャルリ―・エブド」の風刺画にどんな問題があったとしても(というか、けっこうあっちこっちから批判されてきたらしいけど)、それはもちろん「殺されるべきものではない」ということである。そのことは、イスラム教徒を含めほとんどの人は了解するだろうし、実際に襲撃した過激派を非難している。今回の襲撃事件は「無差別テロ」ではない。最近の世界では、パレスティナ人やウィグル人などによる「無差別テロ」のニュースがよく起こっている。しかし、今回はそういう事件ではない。だから「テロ」というより、「公開処刑」とでもいうべき方が当たっているのではないか。これは全く認められない。そもそも、僕の考え、あるいはEU諸国の考えでは、「殺されてもやむを得ない人」などというものはいない。だから、これほど公然たる「死刑執行」を認めることはできないのである。

 その意味で、自分は「襲撃され、殺された側」に連帯したいと思うものである。「シャルリ―・エブド」の風刺問題はその後で考えるべき問題だろう。では、実際に起こった事件とは全く違って、襲撃犯がスプレー塗料と垂れ幕を持って押し入り、自分たちの主張をビルに書き、垂れ幕を窓から下げただけだったら、どうだろうか。それなら許されるかどうか。(それでも、不法侵入と威力業務妨害にはなるだろうから、違法行為である。だけど、自分たちは人命を尊重しているというメッセージにはなる。)しかし、現在の世界情勢からはそのような想定はありえないものとして排除するべきものなのだろう。指示を出したと報道されている「アラビア半島のアル・カイダ」を初め、イスラム過激勢力は、それ(人命尊重という考え方)は通じないと理解しておくべきものなんだろうと思う。今後、「テロとは?」「言論の自由とは?」などを考え、同時にイスラム教や宗教の問題を考えておきたい。ちなみに、「シャルリ―」とは「ピーナツ」のチャーリー・ブラウンから取っているものだという。
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