「言論の自由」をめぐっては、中国人が作ったという秀逸なジョークがある。
あるアメリカ人と中国人が「言論の自由」をめぐって話になった。アメリカ人は「『言論の自由』はとても大切なもので、わがアメリカでは完全に認められています。例えば、ニューヨークのタイムズスクエアで『オバマは辞めろ』と叫んでも、警官に捕まることはありません」と言った。それを聞いた中国人は「わが中国でも『言論の自由』は認められています。北京の天安門広場で『オバマは辞めろ』と叫んでも、警官に捕まることはありません」と言った。
このジョークを作った中国人は、なかなか「言論の自由」の本質をつかんでいるではないか。「言論の自由」が何よりも重要だと考えるなら、韓国で産経新聞の特派員が書いた記事をめぐって大統領に対する名誉棄損で訴追されている事件をどう考えるべきだろうか。「私は産経」と書いたプラカードを持って韓国大使館にデモをするべきなのだろうか?しかし、僕はそういう気にはならないのだが。僕は今回の韓国検察当局の起訴という判断を支持するものではない。また、「被害者」である大統領の対応にも疑問を持っている。しかし、それ以上にそもそも訴追をもたらしたネット上の記事なるものが、頑張って「言論の自由」を守らなければと言うほどのものかと思ってしまうわけである。
「言論の自由」と言ったって、何を言ってもいいわけじゃないのは当たり前である。いじめがあるクラスで、「あいつ、キモイよな」という「言論の自由」は認められない。そのクラスの中で「そんなことを言うもんじゃないよ」注意できるかどうか。そんなイジメ的言動はおかしいと思いつつ、クラスの雰囲気が反イジメ発言を許さないようなものだったら、そのクラスには「言論の自由」がないと言わないといけない。「ブラック企業」の中で、「そのような言動は労働基準法に違反します」と言えるだろうか。そう考えていくと、多くの人は「日本には言論の自由がある」と無条件に信じ込んでいるが、実は会社や学校の中で、あるいは地域社会の中で、実質的には「言論の自由」が保障されていないところは多いはずである。
つまり、多数者が「言論の自由」を行使できるのは当たり前で、問題は社会のマイノリティが声を挙げられるかが「言論の自由」の本質だということである。だから、自国にある問題を自国で発言できるかどうかが、「言論の自由」の持つ意味だということである。こういう文脈で考えると、「シャルリ―・エブド」特別号の「ムハンマド(と思われる人物)」を描いたということは、かなりの疑問を持たざるを得ない。それはフランス社会においては禁止されていることではない。(フランスの中のムスリムが反発することは予想されるが。)だから、襲撃を受けたことに対する「風刺」としては、どうしても描かなければいけないというほどの切実さはないように思うのだが。「売り言葉に買い言葉」的に描いたとしたら、あまり質の高い風刺とはいえないだろう。フランス国内では、この事件を機に「反イスラム」「反ユダヤ」的な言動が起こったことは間違いない。風刺の対象とするなら、そのことではないのだろうか。
だけど、それでは多くのイスラム諸国で起こった「反フランスデモ」はどう考えるべきなんだろうか。よく中国の反日デモが、実は反日に名を借りた反政府デモの要素があると指摘する人がいる。それがどの程度当たっているかはともかく、チェチェンやニジェールでは「イスラム教擁護」を掲げないとデモができないという要素もあるのではないかと思う。だけど、「シャルリ―・エブド」は自由な言論を行う権利を行使しただけで、フランスそのものを排斥するのはおかしい。その「おかしさ」をイスラム社会の中で主張できるのかどうか。イスラム社会の中には、はっきり言って西欧社会以上に大きな問題が山積しているはずである。そのことを内部で発言できるかどうか。「言論の自由」は西欧社会以上に、多くのアジア、アフリカ社会でこそ重大な意味を持っている。
フランス社会では、大革命以来の様々な激動を経て、いわば血によって確立された多くの原則がある。その中でもカトリック教会との闘争の果てに確立された「政教分離」(ライシテ)の原則が重要である。近年、フランスの中のムスリムに対する「排斥」とも見られかねない法律が制定されて問題化してきた。2004年には学校内で宗教的な「しるし」を禁止する法律ができた。これは実質的にはムスリム女性が学校内でスカーフをかぶることを禁止するものである。また、2010年には公共空間でブルカ(スカーフ)をかぶることを禁止する法律も制定されている。この法律は欧州人権裁判所にフランス政府を訴える裁判が起こされたが、2014年に同法を支持する判決が出ているという。日本では、左派やリベラル派に「少数派文化への寛容」を求める傾向があるが、フランスでは「共和国の原則」を守るという意味で「左派」は「ライシテ」の擁護派だろう。ブルカはイスラム社会における女性抑圧の象徴だとして、フェミニストにも反ブルカ法支持が多いのではないかと思う。
そういう社会では、イスラム教をも風刺の対象とするのは当然と考える左派系雑誌を支持するのは当然と考えられる。しかし、日本ではムスリム社会が非常に少数であって、インドネシアやマレーシアからのムスリム観光客を増やすために、「ハラール」(許されたものの意味。食品の調理、加工で認められた作法を守っているかどうかを主にさす)に対する関心が高まっている。日本では「そういうことがあるんだ」の段階で、「世界を知る」という必要性があるレベルだろう。社会ごとに「言論の自由」が求められる意味合いは変わってくる。他国のことはさておき、日本の中にも「タブー」的なものもある。また「言論の自由」があっても「言論市場」で売れないことには発信する意味が少なく、ほとんど売れない本を書いても社会には問題が知られない。「沖縄」も「原発」も大量の情報があるようでいて、大新聞やテレビでの報道は少なく、「知ってるようで知らない」とも言える。少しでも「実質的な言論の自由」の幅を広げていくことが大切なんだと思っている。
あるアメリカ人と中国人が「言論の自由」をめぐって話になった。アメリカ人は「『言論の自由』はとても大切なもので、わがアメリカでは完全に認められています。例えば、ニューヨークのタイムズスクエアで『オバマは辞めろ』と叫んでも、警官に捕まることはありません」と言った。それを聞いた中国人は「わが中国でも『言論の自由』は認められています。北京の天安門広場で『オバマは辞めろ』と叫んでも、警官に捕まることはありません」と言った。
このジョークを作った中国人は、なかなか「言論の自由」の本質をつかんでいるではないか。「言論の自由」が何よりも重要だと考えるなら、韓国で産経新聞の特派員が書いた記事をめぐって大統領に対する名誉棄損で訴追されている事件をどう考えるべきだろうか。「私は産経」と書いたプラカードを持って韓国大使館にデモをするべきなのだろうか?しかし、僕はそういう気にはならないのだが。僕は今回の韓国検察当局の起訴という判断を支持するものではない。また、「被害者」である大統領の対応にも疑問を持っている。しかし、それ以上にそもそも訴追をもたらしたネット上の記事なるものが、頑張って「言論の自由」を守らなければと言うほどのものかと思ってしまうわけである。
「言論の自由」と言ったって、何を言ってもいいわけじゃないのは当たり前である。いじめがあるクラスで、「あいつ、キモイよな」という「言論の自由」は認められない。そのクラスの中で「そんなことを言うもんじゃないよ」注意できるかどうか。そんなイジメ的言動はおかしいと思いつつ、クラスの雰囲気が反イジメ発言を許さないようなものだったら、そのクラスには「言論の自由」がないと言わないといけない。「ブラック企業」の中で、「そのような言動は労働基準法に違反します」と言えるだろうか。そう考えていくと、多くの人は「日本には言論の自由がある」と無条件に信じ込んでいるが、実は会社や学校の中で、あるいは地域社会の中で、実質的には「言論の自由」が保障されていないところは多いはずである。
つまり、多数者が「言論の自由」を行使できるのは当たり前で、問題は社会のマイノリティが声を挙げられるかが「言論の自由」の本質だということである。だから、自国にある問題を自国で発言できるかどうかが、「言論の自由」の持つ意味だということである。こういう文脈で考えると、「シャルリ―・エブド」特別号の「ムハンマド(と思われる人物)」を描いたということは、かなりの疑問を持たざるを得ない。それはフランス社会においては禁止されていることではない。(フランスの中のムスリムが反発することは予想されるが。)だから、襲撃を受けたことに対する「風刺」としては、どうしても描かなければいけないというほどの切実さはないように思うのだが。「売り言葉に買い言葉」的に描いたとしたら、あまり質の高い風刺とはいえないだろう。フランス国内では、この事件を機に「反イスラム」「反ユダヤ」的な言動が起こったことは間違いない。風刺の対象とするなら、そのことではないのだろうか。
だけど、それでは多くのイスラム諸国で起こった「反フランスデモ」はどう考えるべきなんだろうか。よく中国の反日デモが、実は反日に名を借りた反政府デモの要素があると指摘する人がいる。それがどの程度当たっているかはともかく、チェチェンやニジェールでは「イスラム教擁護」を掲げないとデモができないという要素もあるのではないかと思う。だけど、「シャルリ―・エブド」は自由な言論を行う権利を行使しただけで、フランスそのものを排斥するのはおかしい。その「おかしさ」をイスラム社会の中で主張できるのかどうか。イスラム社会の中には、はっきり言って西欧社会以上に大きな問題が山積しているはずである。そのことを内部で発言できるかどうか。「言論の自由」は西欧社会以上に、多くのアジア、アフリカ社会でこそ重大な意味を持っている。
フランス社会では、大革命以来の様々な激動を経て、いわば血によって確立された多くの原則がある。その中でもカトリック教会との闘争の果てに確立された「政教分離」(ライシテ)の原則が重要である。近年、フランスの中のムスリムに対する「排斥」とも見られかねない法律が制定されて問題化してきた。2004年には学校内で宗教的な「しるし」を禁止する法律ができた。これは実質的にはムスリム女性が学校内でスカーフをかぶることを禁止するものである。また、2010年には公共空間でブルカ(スカーフ)をかぶることを禁止する法律も制定されている。この法律は欧州人権裁判所にフランス政府を訴える裁判が起こされたが、2014年に同法を支持する判決が出ているという。日本では、左派やリベラル派に「少数派文化への寛容」を求める傾向があるが、フランスでは「共和国の原則」を守るという意味で「左派」は「ライシテ」の擁護派だろう。ブルカはイスラム社会における女性抑圧の象徴だとして、フェミニストにも反ブルカ法支持が多いのではないかと思う。
そういう社会では、イスラム教をも風刺の対象とするのは当然と考える左派系雑誌を支持するのは当然と考えられる。しかし、日本ではムスリム社会が非常に少数であって、インドネシアやマレーシアからのムスリム観光客を増やすために、「ハラール」(許されたものの意味。食品の調理、加工で認められた作法を守っているかどうかを主にさす)に対する関心が高まっている。日本では「そういうことがあるんだ」の段階で、「世界を知る」という必要性があるレベルだろう。社会ごとに「言論の自由」が求められる意味合いは変わってくる。他国のことはさておき、日本の中にも「タブー」的なものもある。また「言論の自由」があっても「言論市場」で売れないことには発信する意味が少なく、ほとんど売れない本を書いても社会には問題が知られない。「沖縄」も「原発」も大量の情報があるようでいて、大新聞やテレビでの報道は少なく、「知ってるようで知らない」とも言える。少しでも「実質的な言論の自由」の幅を広げていくことが大切なんだと思っている。