今年の大河ドラマは「花燃ゆ」と言うんだという。吉田松陰の妹を扱うという。いやあ、妹がいたのか。久坂玄瑞の妻となるが、久坂は禁門の変で戦死する。その後再婚した夫は、明治初期に群馬県令を務めたという。ということで、関東地方では群馬県で大河ドラマの館が開かれていることが宣伝されている。なんと都合のいい人物がいたんだろうとビックリする。「長州藩」出身者というだけなら、首相と同郷の人物を選んだと言われかねない(というか、僕はそう思い込んでいるが)、群馬県というこれまた首相を多く生み出した地に関係があり、さらに「女性が輝く」テーマだから、NHKの深謀遠慮がすごい。
それはさておき、吉田松陰は江戸末期に大老井伊直弼の「安政の大獄」で刑死する。しかし、その井伊直弼も1860年の「桜田門外の変」で暗殺された。安政の大獄は、その規模からして日本史上最大の反政府派弾圧事件であるが、もちろん当時としては政権を握っている幕府の正当な権力行使である。一方、桜田門外の変は、当時であれ現在であれ許されない政治的指導者の殺人事件である。つまり、テロ事件である。しかし、今現在、桜田門外の変は「許されないテロ行為」だと考えている人は、ほとんどいないだろう。それは何故か?
一つは「時代が変わった」こと。幕府が倒壊して明治新政府が出来たことにより、それまでの反政府派は正義と認められることになり、幕末の政争で死んだ討幕派は明治期に顕彰されることになる。「勝てば官軍」というわけである。だから、桜田門外の変で死んだ井伊直弼は、歴史ドラマなんかではどちらかと言えば悪役扱いが多い。また、江戸幕府は近代民主主義政府ではないから、当然のことながら井伊大老は選挙で選ばれたという正当性を持っていない。(将軍に任命されたという正当性は持っている。)江戸幕府自体が、戦争で勝って将軍となり、それを子孫に継承してきたわけだから、時代が変わって実力で倒されても文句を言える筋合いではない。まあ、そういう風にリクツを言うより、単純に「時間が経った」というのも大きいだろう。もうリアルに感じ取れない昔々の事件はテロかどうかなど考える対象にさえならない。現代に生きるわれわれの生活には無関係なんだから。
こういう風に「テロ」には「両義性」がある。テロを起こした側はそれをテロとは言わず、正義の行為とみなす。もし、世の中がひっくり返ってしまったら、例えばイスラム過激派がイスラム世界を支配しつくしたら、今のテロ事件はすべて「正義の戦いだった」と正当性を獲得するはずである。そういうことは「政治犯」の場合、すべてに言える。江戸時代までさかのぼらなくても、南アフリカのネルソン・マンデラを思い起こすだけでそれが判る。一時は南アフリカ政府から「テロリスト」とみなされていたマンデラは、やがて「尊敬すべきノーベル平和賞受賞者」だと世界から認められるに至った。だから、「テロ」を考える時に重要なことは、もともとの「テロ行為の大本」を考える必要がある。「そういうこと(例えば南アフリカにおけるアパルトヘイト体制)そのものを認めていいのか」を自分で評価しないと判断ができない。もちろん、「目的の正当性」があっても、「手段の正当性」があるかどうかは、また別に考えなくてはいけないことだけど。
石川啄木の詩「ココアのひと匙」に「われは知る、テロリストの かなしき心を 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を」という有名なフレーズがある。また、70年代にはかなり読まれていたロープシン(サヴィンコフ)の「蒼ざめた馬」も昔読んだ。帝政ロシアの反政府活動家、テロ活動家を描いた小説である。その頃から、僕は「テロだからいけない」と思ったことはない。状況によっては、テロ行為に訴えなければならない局面は歴史の中で存在しうると思っている。それはフランス人だって認めるはずである。フランス革命とナチスへのレジスタンスを否定するつもりならともかく、「歴史の中の暴力」を一切認めないということはできないだろう。ただし、ブルボン王朝やドイツ占領軍は、民主主義によって成立した政治体制ではない。専制政府や侵略軍に対しては、国民の「抵抗権」を発動できると考えれば、それは「抵抗活動」でこそあれ、「テロ」と非難することはできない。
しかし、世界には今もなお、国会が存在しない国、あるいは事実上国民に民主主義的な自由が認められていない国は相当数存在する。それでは、そのような西欧民主主義体制を取っていない中国で、ウィグル人独立運動家が無差別テロ事件を起こすのは、「民族的抵抗権の発動」とみなすべきなのだろうか。これは非常に難しい問題である。では、ウィグル人活動家に自由に独立を主張する自由があるかと言えば、それは「国家分裂をたくらむ反革命」と見なされるだけで言論の自由は保障されていない。だから、「中国当局に対するテロ行為はやむを得ない」と考える余地は存在するだろう。しかし、そのために無差別テロを起こせば、政治的自由の獲得ではなく、民族間の対立を激化させるだけなのは明らかであるとも思う。すなわち、すくなくとも「目的は同情しうるが、手段としては支持しがたい」というあたりになる。しかし、これでは「どっちつかず」で、どちらの側からも納得は得られないだろう。それは「国家」や「民族」や「宗教」という、当事者には「絶対に守るべきもの」を双方が持っているからである。ということで、今回はここまでにして、その「国家」や「民族」の争いをどう考えるかは次回に続けたい。
それはさておき、吉田松陰は江戸末期に大老井伊直弼の「安政の大獄」で刑死する。しかし、その井伊直弼も1860年の「桜田門外の変」で暗殺された。安政の大獄は、その規模からして日本史上最大の反政府派弾圧事件であるが、もちろん当時としては政権を握っている幕府の正当な権力行使である。一方、桜田門外の変は、当時であれ現在であれ許されない政治的指導者の殺人事件である。つまり、テロ事件である。しかし、今現在、桜田門外の変は「許されないテロ行為」だと考えている人は、ほとんどいないだろう。それは何故か?
一つは「時代が変わった」こと。幕府が倒壊して明治新政府が出来たことにより、それまでの反政府派は正義と認められることになり、幕末の政争で死んだ討幕派は明治期に顕彰されることになる。「勝てば官軍」というわけである。だから、桜田門外の変で死んだ井伊直弼は、歴史ドラマなんかではどちらかと言えば悪役扱いが多い。また、江戸幕府は近代民主主義政府ではないから、当然のことながら井伊大老は選挙で選ばれたという正当性を持っていない。(将軍に任命されたという正当性は持っている。)江戸幕府自体が、戦争で勝って将軍となり、それを子孫に継承してきたわけだから、時代が変わって実力で倒されても文句を言える筋合いではない。まあ、そういう風にリクツを言うより、単純に「時間が経った」というのも大きいだろう。もうリアルに感じ取れない昔々の事件はテロかどうかなど考える対象にさえならない。現代に生きるわれわれの生活には無関係なんだから。
こういう風に「テロ」には「両義性」がある。テロを起こした側はそれをテロとは言わず、正義の行為とみなす。もし、世の中がひっくり返ってしまったら、例えばイスラム過激派がイスラム世界を支配しつくしたら、今のテロ事件はすべて「正義の戦いだった」と正当性を獲得するはずである。そういうことは「政治犯」の場合、すべてに言える。江戸時代までさかのぼらなくても、南アフリカのネルソン・マンデラを思い起こすだけでそれが判る。一時は南アフリカ政府から「テロリスト」とみなされていたマンデラは、やがて「尊敬すべきノーベル平和賞受賞者」だと世界から認められるに至った。だから、「テロ」を考える時に重要なことは、もともとの「テロ行為の大本」を考える必要がある。「そういうこと(例えば南アフリカにおけるアパルトヘイト体制)そのものを認めていいのか」を自分で評価しないと判断ができない。もちろん、「目的の正当性」があっても、「手段の正当性」があるかどうかは、また別に考えなくてはいけないことだけど。
石川啄木の詩「ココアのひと匙」に「われは知る、テロリストの かなしき心を 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を」という有名なフレーズがある。また、70年代にはかなり読まれていたロープシン(サヴィンコフ)の「蒼ざめた馬」も昔読んだ。帝政ロシアの反政府活動家、テロ活動家を描いた小説である。その頃から、僕は「テロだからいけない」と思ったことはない。状況によっては、テロ行為に訴えなければならない局面は歴史の中で存在しうると思っている。それはフランス人だって認めるはずである。フランス革命とナチスへのレジスタンスを否定するつもりならともかく、「歴史の中の暴力」を一切認めないということはできないだろう。ただし、ブルボン王朝やドイツ占領軍は、民主主義によって成立した政治体制ではない。専制政府や侵略軍に対しては、国民の「抵抗権」を発動できると考えれば、それは「抵抗活動」でこそあれ、「テロ」と非難することはできない。
しかし、世界には今もなお、国会が存在しない国、あるいは事実上国民に民主主義的な自由が認められていない国は相当数存在する。それでは、そのような西欧民主主義体制を取っていない中国で、ウィグル人独立運動家が無差別テロ事件を起こすのは、「民族的抵抗権の発動」とみなすべきなのだろうか。これは非常に難しい問題である。では、ウィグル人活動家に自由に独立を主張する自由があるかと言えば、それは「国家分裂をたくらむ反革命」と見なされるだけで言論の自由は保障されていない。だから、「中国当局に対するテロ行為はやむを得ない」と考える余地は存在するだろう。しかし、そのために無差別テロを起こせば、政治的自由の獲得ではなく、民族間の対立を激化させるだけなのは明らかであるとも思う。すなわち、すくなくとも「目的は同情しうるが、手段としては支持しがたい」というあたりになる。しかし、これでは「どっちつかず」で、どちらの側からも納得は得られないだろう。それは「国家」や「民族」や「宗教」という、当事者には「絶対に守るべきもの」を双方が持っているからである。ということで、今回はここまでにして、その「国家」や「民族」の争いをどう考えるかは次回に続けたい。