上原善広「石の虚塔 発見と捏造、考古学に魅せられた男たち」(新潮文庫)を読んだ。2014年の8月に出た本で、書評を読んで読みたいと思ったんだけど、なかなか入手できなかった。奥付を見ると12月20日に「第2刷」とある。年末にようやく書店で見かけたわけである。
この本は、「岩宿の発見」から「旧石器捏造事件」に至る戦後日本の旧石器時代研究史を描いた傑作ノンフィクションである。相澤忠洋、芹沢長介、杉原荘介…と多くの人を追い続け、かの「藤村新一」にも会いに行っている。まさに「石に魅せられた者たちの天国と地獄」である。「藤村新一」とは、「神の手」を持つとまで言われた「旧石器捏造事件」の「真犯人」である。実は自分で埋めて、自分で「発見」していた。2000年11月5日の毎日新聞が証拠の映像をもとにスクープ報道したのである。
著者の上原善広(1973~)は、2010年に「日本の路地を旅する」で大宅賞を受賞したノンフィクション作家である。「差別と教育と私」など多数の著書があるが、被差別をテーマとする本が多い。そこから出発した人だけど、様々な分野でも書いていて注目すべき人だと思う。この本に関心が持ったのは、自分も幼い時に相澤忠洋「岩宿の発見」を読んで感激し、考古学に憧れたからだ。日本では毎年のように注目すべき考古学的発見があるから、新聞を切り抜いたり、「考古速報展」を見に行って、最新情報を教材化することに務めてきた。だから、後に捏造と判る遺跡の「発見」も授業で取り上げた。秩父で「発見」された「秩父原人」などは、わざわざ報告会を見に行ったぐらいである。
この本を読むと、「岩宿の発見」以後の考古学界の派閥学閥の争い、ある意味では「人間的」ないさかいが延々とつづられている。学者も人間だし、「仕事」でやってるんだから、政治や会社の世界と同じく「真実」や「正義」だけでは動かない。特に考古学の世界では、「新発見」により学説が全く覆ることがあるから、自然科学の世界と同様に「先陣争い」が激しくなる。この本を読むと、知らない人はビックリして幻滅するかもしれない。しかし、どこも似たようなもんだろうと思う。特に考古学の石器や土器などは、新彗星や化石のように、全くのシロウトが発見してマスコミに載る可能性がある数少ない学問分野である。だから「有名な在野研究者」が多数存在して、大学の研究者と協業もするけれど、「業績の搾取」も起こる。この本は、前期旧石器研究に賭けた熱血青春記でもあるが、そのイザコザの究明書でもある。「人間研究」として抜群の面白さがある。
ところで、僕は「慰安婦」を授業で取り上げる際に「吉田証言」を使ったことはない。(それは産経や読売の主張と違い、「慰安婦問題の根幹は強制連行の有無」ではないのだから当然である。)しかし、どうして「捏造旧石器」は授業で取り上げたのだろうか。もちろん、それは僕の間違いとは思っていない。高校までの授業では「文部省(現・文部科学省)検定済みの教科用図書(教科書)」を使用することが義務付けられている。その検定済み教科書に、後に捏造と判定された座散乱木遺跡(ざざらぎ=宮城県にあった遺跡で、国の史跡に指定されていた。旅行中に寄ったこともある)の名前などが載っていた。触れない方がおかしいわけだ。でも、それだけではない。
一つには「考古学愛好者」「歴史ファン」という存在、それはつまり自分自身でもあるが、そういう人が「わざわざ自分で埋めて自分で発掘する」なんてするとは思ってもみなかったのである。警察が冤罪事件の証拠を捏造する(例えば、宮城県でおきた死刑再審事件の松山事件)は、ありうることだと思っていた。いろいろな事件を見てきて、「警察ならやりかねない」と思っている。歴史の世界でも、「偽文書」というものはよくある。(現代史では「田中上奏文」が有名である。)主義主張に合わせて史料を改ざんする例もあるし、古い時代のものと偽って自分で壮大な史書を書く人もいる。だから、石器を捏造する人がいても不思議ではないと今では思えるけど、自分の部屋で一人でできることと違い、人が見ている前でモノが実際に出てくるのである。まさか、それが仕組まれていたとは!
自分の人間観を揺さぶられた体験だったけど、さらに考えてみると、「自分の中のナショナリズム」という問題がある。もともと「岩宿の発見」、つまり日本に旧石器時代があったという証明は、戦後歴史学の「皇国史観からの解放」を象徴する出来事だった。戦前の歴史教科書では、神話から天孫降臨、神武天皇即位と続く。しかし、イザナギ・イザナミが日本を「国生み」する以前にも、大陸とつながった「列島になる前の日本」が存在し、そこに人類が存在したのである。「石器」は、「労働」のための「道具」である。石器を使った労働を通して人類が発達・進化していく、その歩みが日本でも実証できる。そういう「唯物史観」と「ナショナリズム」の合体した熱気が、旧石器研究を支えてきたのだと思う。
それが東北の地で、しかもアマチュア研究者の手によって、どんどん古い地層からも旧石器が出てきた。最後の頃になると、世界の原人研究を覆すような大発見である。その真偽を疑わなかっただけでなく、(有名な学者やマスコミ、さらには文部省さえ認めていたのだから、専門外の一教員が普通は疑わない)、僕にはその「新発見」が生徒に歴史研究の面白さを伝える絶好の教材と思えたのである。五輪やワールドカップを地理の授業に生かすように。日本で世界の人類を塗り替えるような発見が相次いでいること、しかもアマチュア研究者が関わっていることが重要だったのである。この「事件」の教訓は、とても大きいと思わざるを得ない。
この本によれば、元々の端緒を作った人物は、原発事故に襲われた福島県浜通りのある場所に住んでいた。解離性障害(つまり多重人格)と診断され、精神障害者と認定されて精神障害者のための作業所に行っていた。事故後は行けなくなったようだが。その境涯をどのように思うか。自分が今、同じような場所に関わっているので、非常に強い関心を抱いた。この人物の栄光と失墜は、多くの人にとって決して人ごとではないと思う。「だます」「だまされる」は今も世の中に絶えない。僕が思うのは、「神の手を持つ男」に対して「そんなの、普通に考えたらありえないでしょ」と疑いを持てた人がいるという事実である。だから、なんであれ「疑ってみる」「常識で考える」という姿勢を欠かしてはならないと思う。強烈な人間が何人も出てきて、旧石器や考古学に関心を持たない人でも面白い本。
この本は、「岩宿の発見」から「旧石器捏造事件」に至る戦後日本の旧石器時代研究史を描いた傑作ノンフィクションである。相澤忠洋、芹沢長介、杉原荘介…と多くの人を追い続け、かの「藤村新一」にも会いに行っている。まさに「石に魅せられた者たちの天国と地獄」である。「藤村新一」とは、「神の手」を持つとまで言われた「旧石器捏造事件」の「真犯人」である。実は自分で埋めて、自分で「発見」していた。2000年11月5日の毎日新聞が証拠の映像をもとにスクープ報道したのである。
著者の上原善広(1973~)は、2010年に「日本の路地を旅する」で大宅賞を受賞したノンフィクション作家である。「差別と教育と私」など多数の著書があるが、被差別をテーマとする本が多い。そこから出発した人だけど、様々な分野でも書いていて注目すべき人だと思う。この本に関心が持ったのは、自分も幼い時に相澤忠洋「岩宿の発見」を読んで感激し、考古学に憧れたからだ。日本では毎年のように注目すべき考古学的発見があるから、新聞を切り抜いたり、「考古速報展」を見に行って、最新情報を教材化することに務めてきた。だから、後に捏造と判る遺跡の「発見」も授業で取り上げた。秩父で「発見」された「秩父原人」などは、わざわざ報告会を見に行ったぐらいである。
この本を読むと、「岩宿の発見」以後の考古学界の派閥学閥の争い、ある意味では「人間的」ないさかいが延々とつづられている。学者も人間だし、「仕事」でやってるんだから、政治や会社の世界と同じく「真実」や「正義」だけでは動かない。特に考古学の世界では、「新発見」により学説が全く覆ることがあるから、自然科学の世界と同様に「先陣争い」が激しくなる。この本を読むと、知らない人はビックリして幻滅するかもしれない。しかし、どこも似たようなもんだろうと思う。特に考古学の石器や土器などは、新彗星や化石のように、全くのシロウトが発見してマスコミに載る可能性がある数少ない学問分野である。だから「有名な在野研究者」が多数存在して、大学の研究者と協業もするけれど、「業績の搾取」も起こる。この本は、前期旧石器研究に賭けた熱血青春記でもあるが、そのイザコザの究明書でもある。「人間研究」として抜群の面白さがある。
ところで、僕は「慰安婦」を授業で取り上げる際に「吉田証言」を使ったことはない。(それは産経や読売の主張と違い、「慰安婦問題の根幹は強制連行の有無」ではないのだから当然である。)しかし、どうして「捏造旧石器」は授業で取り上げたのだろうか。もちろん、それは僕の間違いとは思っていない。高校までの授業では「文部省(現・文部科学省)検定済みの教科用図書(教科書)」を使用することが義務付けられている。その検定済み教科書に、後に捏造と判定された座散乱木遺跡(ざざらぎ=宮城県にあった遺跡で、国の史跡に指定されていた。旅行中に寄ったこともある)の名前などが載っていた。触れない方がおかしいわけだ。でも、それだけではない。
一つには「考古学愛好者」「歴史ファン」という存在、それはつまり自分自身でもあるが、そういう人が「わざわざ自分で埋めて自分で発掘する」なんてするとは思ってもみなかったのである。警察が冤罪事件の証拠を捏造する(例えば、宮城県でおきた死刑再審事件の松山事件)は、ありうることだと思っていた。いろいろな事件を見てきて、「警察ならやりかねない」と思っている。歴史の世界でも、「偽文書」というものはよくある。(現代史では「田中上奏文」が有名である。)主義主張に合わせて史料を改ざんする例もあるし、古い時代のものと偽って自分で壮大な史書を書く人もいる。だから、石器を捏造する人がいても不思議ではないと今では思えるけど、自分の部屋で一人でできることと違い、人が見ている前でモノが実際に出てくるのである。まさか、それが仕組まれていたとは!
自分の人間観を揺さぶられた体験だったけど、さらに考えてみると、「自分の中のナショナリズム」という問題がある。もともと「岩宿の発見」、つまり日本に旧石器時代があったという証明は、戦後歴史学の「皇国史観からの解放」を象徴する出来事だった。戦前の歴史教科書では、神話から天孫降臨、神武天皇即位と続く。しかし、イザナギ・イザナミが日本を「国生み」する以前にも、大陸とつながった「列島になる前の日本」が存在し、そこに人類が存在したのである。「石器」は、「労働」のための「道具」である。石器を使った労働を通して人類が発達・進化していく、その歩みが日本でも実証できる。そういう「唯物史観」と「ナショナリズム」の合体した熱気が、旧石器研究を支えてきたのだと思う。
それが東北の地で、しかもアマチュア研究者の手によって、どんどん古い地層からも旧石器が出てきた。最後の頃になると、世界の原人研究を覆すような大発見である。その真偽を疑わなかっただけでなく、(有名な学者やマスコミ、さらには文部省さえ認めていたのだから、専門外の一教員が普通は疑わない)、僕にはその「新発見」が生徒に歴史研究の面白さを伝える絶好の教材と思えたのである。五輪やワールドカップを地理の授業に生かすように。日本で世界の人類を塗り替えるような発見が相次いでいること、しかもアマチュア研究者が関わっていることが重要だったのである。この「事件」の教訓は、とても大きいと思わざるを得ない。
この本によれば、元々の端緒を作った人物は、原発事故に襲われた福島県浜通りのある場所に住んでいた。解離性障害(つまり多重人格)と診断され、精神障害者と認定されて精神障害者のための作業所に行っていた。事故後は行けなくなったようだが。その境涯をどのように思うか。自分が今、同じような場所に関わっているので、非常に強い関心を抱いた。この人物の栄光と失墜は、多くの人にとって決して人ごとではないと思う。「だます」「だまされる」は今も世の中に絶えない。僕が思うのは、「神の手を持つ男」に対して「そんなの、普通に考えたらありえないでしょ」と疑いを持てた人がいるという事実である。だから、なんであれ「疑ってみる」「常識で考える」という姿勢を欠かしてはならないと思う。強烈な人間が何人も出てきて、旧石器や考古学に関心を持たない人でも面白い本。