アルノー・デプレシャン監督「ジミーとジョルジュ 心の欠片(かけら)を探して」は非常にユニークな映画で、僕にはよく判らない部分も多かったんだけど、大事な映画だと思うから紹介しておく。これはフランスの映画監督デプレシャンがアメリカで撮った映画で、ある「アメリカ・インディアン」と精神分析医のほぼ二人のセッションで成り立っている。第二次大戦直後の1948年、ほぼ実話の映画化だという。渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映中。
1948年、モンタナ州に住む「平原インディアン」ジェームス・ピカード(ジミー)は、第二次大戦から帰還した後、原因不明の様々な症状に悩まされている。カンザス州の軍病院に姉に連れられてやってくるが、医者は頭痛を戦傷の影響ではないかと考える。しかし、検査の結果、脳の機能障害は見つからない。「精神分裂病」(統合失調症)を次に疑うが、インディアンの症例にくわしくないので、診断が下せない。そんな時、フランス人(元はハンガリー系ユダヤ人)の精神科医ジョルジュ・ドゥグルーが人類学者としてアメリカ・インディアンの調査を行っているから、ジミーの診断に適任なのではないかという話になる。こうして「ジミーとジョルジュ」の対話が始まるわけである。
最初は警戒していたジミーも、やがて自分の人生を語りはじめ、家族との関係(父は早く亡くなったこと、母や姉のこと、離れて暮らす娘がいること…)や見た夢のことなどを伝える。「君の部族では、夢は未来を告げる。われわれは過去を表わすと考えている。だから興味深い。」ジョルジュはジミーには通常の精神疾患はないことをすぐに見抜き、症状の原因は心理的なものと考え、カウンセラーとして接していくのである。というか、フランス人で医師の資格を認められず、それしかできない。時間はたっぷりとあり、ジョルジュは記録を克明に付けていった。その成果は、後に「夢の分析 或る平原インディアンの精神治療記録」としてまとめられた。これは文化人類学と精神分析学を融合した「民族精神医学」の出発点となった画期的な研究だという。「或る」という表記など、いかにも日本語訳があるかのような感じだが、この邦題は論文の中で定着しているけど実は翻訳されていないという。
次第に、ジミーの女性関係の様々な側面が明らかになっていき、またジョルジュの方にもパリから愛人のマドレーヌが訪ねてくるといったエピソードがある。だんだん退院も近くなってくるが、そこでジミーはまた発作を起こす。そのきっかけと原因はなんだろう。ジョルジュはそれこそが、「心のケガ」、心的外傷だと結論づけるのである。こうして、脳機能障害や統合失調症ではない、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と今の言葉では表現されるだろう症状が戦争により現れていたというわけである。ここら辺が、僕には見ていて今一つ判ったようでわからない部分。そう言われればそうかとも思うが、映画を見ている範囲内では不明な感じも残る。だけど、非常に重大な問題を扱っている映画だと思う。今の日本の、「心の病」を考える時にもヒントがたくさん隠されている感じがする。うまく言語化できない感じで、できればまた見たいと思う。
ジミーを演じるのはベニチオ・デル・トロ。「トラフィック」でアカデミー助演男優賞、「チェ」二部作ではチェ・ゲバラ役などで印象的な俳優である。元はプエルトリコ出身で、ネイティヴ・アメリカンではないけど、実にそれらしく演じている。なお時代を反映して映画の中では「インディアン」の用語で統一されている。ジョルジュを演じるのは、マチュー・アマルリックで、デプレシャン映画の常連である他、「潜水服は蝶の夢を見る」や「グランド・ブダペスト・ホテル」などに出演。最近ではポランスキーの新作「毛皮のヴィーナス」でも忘れがたい演技をしていた。(ポランスキー大好きの僕だが、この映画は判らなかったのでここでは書いていない。)また映画監督としても「さすらいの女神(ディーバ)たち」でカンヌ映画祭監督賞を得ている。アート系映画ファンなら、期待せずにはいられぬキャストで、がっぷり四つに組み合って大熱戦を繰り広げている。この演技も見所だろう。
監督のアルノー・デプレシャン(1960~)は、リュック・ベンソン(1959~)やレオス・カラックス(1960~)などと同世代で、90年代以後のフランス映画を支える新しい監督のひとり。「そして僕は恋をする」「エスター・カーン めざめの時」「キングス&クイーン」「クリスマス・ストーリー」など作品がある。フランス映画ファン以外には、あまり知られていないかもしれない。僕も実を言えば、あまり好きなタイプの映画ではないことが多い。この映画は2013年のカンヌ映画祭に出品されたが無冠に終わった。賞を得たのは「アデル、ブルーは熱い色」や「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」、さらに「そして父になる」(是枝裕和)、「ネブラスカ」「罪の手ざわり」「ある過去の行方」などで、無冠に終わったのは「グレート・ビューティ―」や「毛皮のヴィーナス」「恋するリベラーチェ」「藁の盾」(三池崇史)など。納得できるような出来ないような。まあ、評価は人の行うこととして、少なくとも題材としてはものすごく興味深い映画だと思う。
1948年、モンタナ州に住む「平原インディアン」ジェームス・ピカード(ジミー)は、第二次大戦から帰還した後、原因不明の様々な症状に悩まされている。カンザス州の軍病院に姉に連れられてやってくるが、医者は頭痛を戦傷の影響ではないかと考える。しかし、検査の結果、脳の機能障害は見つからない。「精神分裂病」(統合失調症)を次に疑うが、インディアンの症例にくわしくないので、診断が下せない。そんな時、フランス人(元はハンガリー系ユダヤ人)の精神科医ジョルジュ・ドゥグルーが人類学者としてアメリカ・インディアンの調査を行っているから、ジミーの診断に適任なのではないかという話になる。こうして「ジミーとジョルジュ」の対話が始まるわけである。
最初は警戒していたジミーも、やがて自分の人生を語りはじめ、家族との関係(父は早く亡くなったこと、母や姉のこと、離れて暮らす娘がいること…)や見た夢のことなどを伝える。「君の部族では、夢は未来を告げる。われわれは過去を表わすと考えている。だから興味深い。」ジョルジュはジミーには通常の精神疾患はないことをすぐに見抜き、症状の原因は心理的なものと考え、カウンセラーとして接していくのである。というか、フランス人で医師の資格を認められず、それしかできない。時間はたっぷりとあり、ジョルジュは記録を克明に付けていった。その成果は、後に「夢の分析 或る平原インディアンの精神治療記録」としてまとめられた。これは文化人類学と精神分析学を融合した「民族精神医学」の出発点となった画期的な研究だという。「或る」という表記など、いかにも日本語訳があるかのような感じだが、この邦題は論文の中で定着しているけど実は翻訳されていないという。
次第に、ジミーの女性関係の様々な側面が明らかになっていき、またジョルジュの方にもパリから愛人のマドレーヌが訪ねてくるといったエピソードがある。だんだん退院も近くなってくるが、そこでジミーはまた発作を起こす。そのきっかけと原因はなんだろう。ジョルジュはそれこそが、「心のケガ」、心的外傷だと結論づけるのである。こうして、脳機能障害や統合失調症ではない、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と今の言葉では表現されるだろう症状が戦争により現れていたというわけである。ここら辺が、僕には見ていて今一つ判ったようでわからない部分。そう言われればそうかとも思うが、映画を見ている範囲内では不明な感じも残る。だけど、非常に重大な問題を扱っている映画だと思う。今の日本の、「心の病」を考える時にもヒントがたくさん隠されている感じがする。うまく言語化できない感じで、できればまた見たいと思う。
ジミーを演じるのはベニチオ・デル・トロ。「トラフィック」でアカデミー助演男優賞、「チェ」二部作ではチェ・ゲバラ役などで印象的な俳優である。元はプエルトリコ出身で、ネイティヴ・アメリカンではないけど、実にそれらしく演じている。なお時代を反映して映画の中では「インディアン」の用語で統一されている。ジョルジュを演じるのは、マチュー・アマルリックで、デプレシャン映画の常連である他、「潜水服は蝶の夢を見る」や「グランド・ブダペスト・ホテル」などに出演。最近ではポランスキーの新作「毛皮のヴィーナス」でも忘れがたい演技をしていた。(ポランスキー大好きの僕だが、この映画は判らなかったのでここでは書いていない。)また映画監督としても「さすらいの女神(ディーバ)たち」でカンヌ映画祭監督賞を得ている。アート系映画ファンなら、期待せずにはいられぬキャストで、がっぷり四つに組み合って大熱戦を繰り広げている。この演技も見所だろう。
監督のアルノー・デプレシャン(1960~)は、リュック・ベンソン(1959~)やレオス・カラックス(1960~)などと同世代で、90年代以後のフランス映画を支える新しい監督のひとり。「そして僕は恋をする」「エスター・カーン めざめの時」「キングス&クイーン」「クリスマス・ストーリー」など作品がある。フランス映画ファン以外には、あまり知られていないかもしれない。僕も実を言えば、あまり好きなタイプの映画ではないことが多い。この映画は2013年のカンヌ映画祭に出品されたが無冠に終わった。賞を得たのは「アデル、ブルーは熱い色」や「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」、さらに「そして父になる」(是枝裕和)、「ネブラスカ」「罪の手ざわり」「ある過去の行方」などで、無冠に終わったのは「グレート・ビューティ―」や「毛皮のヴィーナス」「恋するリベラーチェ」「藁の盾」(三池崇史)など。納得できるような出来ないような。まあ、評価は人の行うこととして、少なくとも題材としてはものすごく興味深い映画だと思う。