尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「KANO」-台湾代表の甲子園

2015年02月04日 23時54分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 知っていましたか?かつて、甲子園に、台湾代表が出場していたことを-。
 これが映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」のキャッチコピー。はい、知ってました。高校野球(当時は中等学校野球だけど)の歴史では、戦前は台湾、朝鮮、関東州などの代表校も出場していたし、この映画の題材となった1931年に準優勝した台湾代表嘉義農林のことも僕は聞いたことがあった。歴代の決勝戦の記録を見れば、すぐに気付くことである。僕も若い頃は高校野球の優勝校なんか全部知っていたのである。(今は昨夏の優勝校も思い出せない。調べたら大阪桐蔭かと思いだした。)
 
 細かいことはもちろん知らなかったわけだが、そのチームの快進撃を「完全映画化」したのがこの映画で、題名の「KANO」は嘉義農林の略称「嘉農」のことを指し、ユニフォームにアルファベットで書かれている。この快挙を成し遂げたのは、監督に就任した近藤兵太郎の力である。映画では永瀬正敏が熱演していて、台湾の映画賞である金馬奨(中華圏の映画を対象にしている)の主演男優賞に中華系以外で初めてノミネートされた。作品賞にもノミネートされたが、どちらも受賞は逃している。台湾では大ヒットしたが、「親日映画」だという角度からの批判もあったという。

 さて、この映画をどう見るか。製作総指揮・脚本はウェイ・ダーション(魏徳聖)で、「セデック・バレ」を監督した人。監督はマー・ジ-シアン(馬志翔)で、「セデック・バレ」にも準主役で出ていた俳優。劇場用映画の初監督作品である。日本統治時代の最大の抗日蜂起である「霧社事件」を扱った「セデック・バレ」については、2年前の公開当時に「映画『セデック・バレ』」を書いた。基本的に言えば、「セデック・バレ」が「反日映画」ではないように、「KANO」も「親日映画」というものではない。映画という娯楽作品に向いた題材を探して、日本統治時代に大々的な鉱脈を探し当てたという感じである。とにかく感動的な実話で、それを素晴らしく鍛えられた若者たちが演じている。スポーツ映画の醍醐味。

 大規模なオープンセットを作って当時の様子を再現しているが、セリフなどにも当時の表現をあえて使っている。例えば、台湾の先住民を「蛮人」と呼んでいる。だが、近藤監督は「蛮人」扱いするのではなく、「蛮人は足が速い」、「漢人は打撃が優れている」、「日本人は守備にたけている」、「理想的なチームができる」と言うのである。当時は嘉義の日本人にも、甲子園で取材する記者にも、民族差別的な考えがあった。だけど、近藤監督は野球がすべてであり、民族差別的な考えは全くなかったという。実際、甲子園に出場したチームのレギュラー陣は、日本人3人、漢人2人、高山族(先住民)4人という構成だった。先住民系の生徒は、日本語名を名乗りながら日本語がうまく発音できていないメンバーがそれで、そこもリアリティがある。

 ただスポーツ映画としては、多少の「デジャ・ヴ」(既視感)もある。それはさまざまの映画を見てきて、大体の構成が判っているからで、この映画も大方の感動スポーツ映画の枠に入っている。問題を起こしてスポーツ界から離れている訳ありの名監督、弱いチームに拾われ、鍛えに鍛えて、ついには最後の栄光を手に入れそうになるが…。という師弟の感動もので、特にボクシングに多いが、この映画はまさにそう。でも、高校野球という点で、青春映画というジャンルにも入るだろう。もちろん、歴史映画的な部分もあるけど、基本は青春スポーツものの傑作

 この映画の巧みなところは、甲子園2回戦で対戦した札幌商業の投手を好敵手として描き、彼が戦時中に軍の動員で嘉義に立ち寄るところ(実話ではない)を最初に描き、そこから昔の場面が始まるという構成にある。その結果、単に日本統治時代のエピソードを描くというだけでなく、民族を超えて野球に向き合う青春映画という側面が前面に出てくる。最後に「登場人物のその後」が出てくるが、台湾人は大体戦後も活躍しているのに対し、日本人は兵役に取られて戦死している。そこが残酷な真実である。多少、確かに日本統治の問題を問わな過ぎる部分も感じるが、それ以上に民族共生をうたいあげるという印象である。特に高校野球ファンには是非見て欲しい映画。
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「ミルカ」とインド映画の話

2015年02月04日 00時14分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 昔の映画をよく見てるんだけど、今週は古い映画の特集が少ないのでまとめて新作映画を見て、まとめて書きたいと思う。公開直後に見ることはほとんどないんだけど、今回は映画のサービスデイに合わせてインド映画「ミルカ」を見たので、その話。インドのアカデミー賞で昨年14部門で受賞したという。ローマ五輪(1960)の400m走で金メダルを期待されながら4位に終わったミルカ・シンという実在の人物を描いた映画。「走れ、ミルカ。魂のままに。」映画大国の頂点に君臨した感動の一大叙事詩、というのがキャッチコピーである。実は僕はこの映画に不満があるのだが、それを含めて紹介しておきたい。なお、原題を直訳すると「走れ、ミルカ、走れ」だから、題名は「走れミルカ」にしてれば「走れメロス」っぽくて判りやすかったのに。ただの「ミルカ」では、「ミルカ」を見るか?とダジャレになっちゃう。
 
 インド映画の公開が多くなってきた。少し前までインド映画と言えば、突然歌とダンスが乱舞するミュージカルというか、いかにも異文化的な感じが多かったけど、最近はだいぶ変わってきた。この映画でも歌は流れるが、超絶ダンスシーンは出てこない。普通にリアリズムで描かれた「一大叙事詩」になっている。ミルカ・シンという人は1935年に今はパキスタン領になっている英領インド西北部のパンジャブ州に生まれた。1951年に陸軍に入隊して陸上競技を教えられ、コーチに認められて強化チームに加わった。400mのインド記録を更新し、1956年のメルボルン五輪に出場、そこでは予選で敗退するが、そこから不屈の努力を積み重ねた。1958年に東京で開かれたアジア大会で200mと400mで金メダルを獲得した。1960年にはフランスの大会で世界新記録を出し、まさにローマ五輪の金メダル最有力だったわけだけど、そこでは最後の最後に後ろを振り返り4位になってしまった一体なぜ彼はレース終了間際に後ろを見てしまったのか?

 というところで、話が変わる。五輪後にインドとパキスタンの間で友好スポーツ大会開催に合意し、インドのネール首相はミルカに団長としてパキスタンを訪れて欲しいと依頼するが、ミルカは固辞してしまう。首相に頼まれ、古くからのコーチなどがミルカを訪ねようと列車に乗って出かける。そこでミルカの過去を探っていく、というのがこの映画の構造である。(このシナリオは黒澤明の「生きる」の影響を受けているのではないかと思う。)そこで明らかとなるものは…。それは1947年の印パ分離独立時の大規模な難民発生と虐殺という悲劇だった。ミルカは常に頭の上に布で覆ったタンコブのようなものを乗せている。これは髪を切らないという戒律がある「シク教」の特徴で、要するに髪をまとめて乗せてるんだという。シク教というのは、15世紀後半にヒンドゥー教とイスラム教の特徴を取り入れて成立した宗教で、葯2300万の信者が主にパンジャブ地方に住むという。そのパンジャブ州は独立時に印パで真っ二つにされ、パキスタン側に住むシク教徒はイスラム教からの迫害を受け、インドに逃れるか改宗するしかなかった。そうでないものは殺された(と、この映画にはでてくる。)ミルカの父母も殺され、からくも姉とミルカが生き延びたのである。その逃亡時に、まず彼は走りに走って逃げたのだった。

 この映画は全体としては、驚くような出来映えになっていると思う。その成功を支えているのは、第一に主演したファルハーン・アクタルの演技である。この人は映画監督でもあり、また俳優や歌手としても活躍する人だという。日本でも公開された「DON 過去を消された男」「闇の帝王DON ベルリン強奪指令」などを作っている。もともと映画一家の出身だというが、この映画の出演をオファーされて驚異の肉体改造に挑戦し、18か月間トレーニングして体脂肪率5%という肉体を作り上げた。まさにミルカ本人(というか陸上選手)が走っているとしか思えない迫力は一見の価値がある。この映画を作り上げたのは、ラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ監督。名前は絶対に覚えられそうもない。

 世界中の映画を見るのが僕は好きである。アメリカや日本だけでなく、特にアジアやアフリカ、ラテンアメリカの映画が公開されると、できるだけ見たいと思う。基本的には国際問題の理解という感じで、社会科のお勉強が好きなのである。インド映画もずいぶん見ている。岩波ホールで公開された巨匠サタジット・レイ監督作品は全部見ている。また1983年のアジア映画祭や1988年の大インド映画祭などでもかなり見た。アラヴィンダン監督「魔法使いのおじいさん」やグル・ダット監督「乾き」はそれで見た。シャーム・ベネガル監督の「ミュージカル女優」という作品も素晴らしく、そこで初めて歌と踊りの乱舞を見た。その後、日本でも「ムトゥ 踊るマハラジャ」が公開されてヒット、「マサラ・ムーヴィー」などと呼ばれるようになった。その中で最高だと思ったのは、マニラトラム監督「ボンベイ」という映画で、歌とダンスの洗練も最高だった。

 インド映画の楽しみはいくつかあるが、何と言っても「超美形の女優」である。アメリカでも日本でも、最近はもっと身近な、ちょっとファニー系の女優が多く、それはそれでいいけれど、インド映画のスターの美女ぶりは凄まじいの一語につきる。「ミルカ」にも出てくる。「ボンベイ」で出ていたコイララ(元ネパール首相コイララの姪にあたる)も凄い美女、最近では「ロボット」とか「マッキー」なんかも美形女優が出ていて、正直見てて楽しい。それがまあ、ひとつの見所とすると、もう一つが何と言ってもインド社会そのものの矛盾、良い方も悪い方もとにかく極端。それは中国にも言えるけど、中国映画ではさすがに抗日戦争や文化大革命にさかのぼらない限り、殺し合いはないだろう。でも、インドでは選挙のたびに人が死に、宗教対立で人が死ぬ。一方、「ロボット」という映画は世界最高のロボット映画でもあり、IT大国として世界に知られるインドの高度成長を世界に示している。その驚くべき世界を知ることは、われわれにとっても非常に大事だろう。

 でも「ミルカ」はどうなんだろう。完全にインド・ナショナリズムをうたいあげる「国策映画」ではないだろうか。いや、そこまで言うと言い過ぎかもしれないが、世界に羽ばたくインド経済を象徴するような自信に満ちた映画だと思う。パキスタンだけがシク教徒を迫害した感じに思えてしまうけど、その後ヒンドゥー過激派とシク教徒は対立し、ネールの娘インディラ・ガンディーはシク教徒に暗殺されるではないか。そういった側面は描かれず、ひたすらインド陸軍を持ち上げることに、どうも違和感が強い。現実のミルカ・シンは映画には出てこない五輪バレー選手と幸福な結婚をして、その間の子どもが日本でも活躍するプロゴルファー、ジーヴ・ミルカ・シンという人であるという。本人は今も現存で、自伝を書いてそれが映画のもととなっている。その現実の後日譚の幸福度が、この映画から批判性を削いでいる部分はあるだろうと思う。

 昨年来公開された作品では、僕は「バルフィ!人生を唄えば」が最高に心打たれる映画だった。まだ見てない映画も多いけれど。さて、僕の見たインド映画の傑作、「ボンベイ」はフィルムセンターの「現代アジア映画の作家たち」特集で上映される。3月3日(火)6時半、3月6日(金)3時の2回上映である。この映画はヒンドゥー教の男とイスラム教の女が恋に落ちて親に許されぬまま結婚してしまうが、宗教対立で大規模な暴動がボンベイで起き…という大波乱の社会派超メロドラマである。これほど危険なテーマを扱い、しかもうっとりするようなダンスシーンも見所。マニラトラム監督の他の社会派娯楽作品も上映される。一方、パキスタンのショエーブ・マンスール監督作品も上映される。見たことがないが、パキスタン社会やイスラム社会のタブーに挑む作品だという。宗教対立というと中東ばかり思い浮かぶ昨今だが、20世紀を顧みるとインド、パキスタンこそもっとも宗教対立で人命が奪われた地帯ではなかろうか。しかし、そのタブーというべきテーマに果敢にチャレンジする映画、しかも大娯楽作品として観客を動員する映画が作られているのである。この地域を考えることは、日本にとっても重要だし、「イスラム国」などのイスラム過激派問題を考える時にもヒントを与えてくれるに違いない。
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