横須賀美術館で4月5日まで開かれている海老原喜之助(えびはら・きのすけ 1904~1970)の展覧会を見に行ってきた。遠いので、車で行ったんだけど、話は逆で車で行きたい場所に行ってきたのである。(その話は最後に。)横須賀美術館というのは初めて行ったけど、横須賀も先端の方、観音崎に近い当たりで観音崎京急ホテルの真ん前あたりにあった。ここは昔泊まったことがある。その時は、翌日に浦賀のペリー碑などを見て回った。幕末の土地勘を得るために、一度は行きたい場所。
海老原喜之助といっても、知らない人が多いと思う。僕もよく知らない。だけど、いろいろな美術館でひとつ二つと見ることがあって、特に出身地の鹿児島を旅行した時にたくさん見て、どれも気に入った思い出がある。そういう風に、何となく「妙に気になる画家」がいるものである。美術館の目玉としてたくさん展示してある画家ではなく、「所蔵品展」の中に一つぐらい架かっている。それが結構いい。名前を憶えていると、次にまた別の美術館で出会う。外国の画家だと、キスリングという人が同じく気になる画家なんだけど、日本の画家では海老原喜之助という名前を憶えていた。
その海老原喜之助の生誕110年を記念した展覧会で、ここで初めて画業の全貌を目にすることができた。1904年に鹿児島市に生まれた海老原は、19歳で単身で渡仏、藤田嗣治に薫陶を受け、「エビハラ・ブルー」と呼ばれた雪景色の絵などが有名になった。この時期が第一の時期で、ブリューゲルの影響を受けた雪景色の絵や、デュフィを思わせる地中海の絵などを描いていた。ベルギー女性と結婚し、フランス画壇で活躍した若き日々である。下の画像の「雪景」(1930)がその時期の作品。しかし、妻とは別れ、1933年に帰国。詩情あふれる作品を次々に発表し、若い画家の絶賛を得たという。代表作のひとつで、チラシの表紙に使われている「曲馬」(1935)がその時期の作品で、馬も人も詳しくは描いていないのに、一度見たら忘れられない懐かしい世界が描かれている。背景の空の青も素晴らしい。
戦争末期に熊本県内に疎開し、その後人吉、熊本で活動した。デッサンをたくさん残し、後進の教育にも力をつくした時期という。その時期は力強い構成の圧倒的な作品が多い。下に画像を載せておく「船を造る人」(1954)に戦後のエネルギーの一端がうかがわれる。1960年代になると、神奈川県逗子市に移住し、さらにパリにわたって絵を描き続けた。藤田嗣治が死んだときには、教会で最後のあいさつを(藤田の妻に代わって)行ったという。しかし、パリに移住した海老原に残された歳月は少なく、1970年に肺がんで死去した。一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、(鹿児島や熊本ではもっと知られているだろうが)、非常に心に残る画家だと思う。1934年に描かれた「ボアソニエール」(魚売りの女性)など、忘れがたい詩情が漂う。最後の頃は、フォーヴィズム風の力強い絵が多く、生涯にわたって歩み続けた画家だと思った。
さて、昔はよく山へ行ったりして、そのために大きな(昔は流行ったけれど、いまどきは全然見かけなくなった)、後ろに替えのタイヤを付けた「RV」というタイプにずっと乗ってきた。一度買い換えたんだけど、使い勝手がいいので10年を超えても乗っていた。だけど、税金は高いし、燃費は悪いし、山はもう行かないから、いいかなと思っている。最後に旅行でもしたかったんだけど、個人的な事情で難しかった。車検も近いので、最後にどこかドライブしてこようと思って、横須賀美術館に行ってきた。
小さいころは車酔いするタイプで、大人になって車に乗るようになるとは思わなかった。運転していると、無念無想で車と一体化できるので、(電車なら本が読めるという利点もあるけど)、思ったより自分が運転好きだと知って驚いた。自分の車で、北海道の利尻、礼文島から、九州の阿蘇、霧島などまで行った。今のクルマでは、四国に行って石鎚山、剣山に登ったり、祖谷温泉に泊ったりした。熊野古道に行ったときは、台風の直撃を受け、吉野川があふれて通行止めになった。そして一番の思い出は、震災のボランティアにこの車で行ったこと。上の画像のクルマ。
海老原喜之助といっても、知らない人が多いと思う。僕もよく知らない。だけど、いろいろな美術館でひとつ二つと見ることがあって、特に出身地の鹿児島を旅行した時にたくさん見て、どれも気に入った思い出がある。そういう風に、何となく「妙に気になる画家」がいるものである。美術館の目玉としてたくさん展示してある画家ではなく、「所蔵品展」の中に一つぐらい架かっている。それが結構いい。名前を憶えていると、次にまた別の美術館で出会う。外国の画家だと、キスリングという人が同じく気になる画家なんだけど、日本の画家では海老原喜之助という名前を憶えていた。
その海老原喜之助の生誕110年を記念した展覧会で、ここで初めて画業の全貌を目にすることができた。1904年に鹿児島市に生まれた海老原は、19歳で単身で渡仏、藤田嗣治に薫陶を受け、「エビハラ・ブルー」と呼ばれた雪景色の絵などが有名になった。この時期が第一の時期で、ブリューゲルの影響を受けた雪景色の絵や、デュフィを思わせる地中海の絵などを描いていた。ベルギー女性と結婚し、フランス画壇で活躍した若き日々である。下の画像の「雪景」(1930)がその時期の作品。しかし、妻とは別れ、1933年に帰国。詩情あふれる作品を次々に発表し、若い画家の絶賛を得たという。代表作のひとつで、チラシの表紙に使われている「曲馬」(1935)がその時期の作品で、馬も人も詳しくは描いていないのに、一度見たら忘れられない懐かしい世界が描かれている。背景の空の青も素晴らしい。
戦争末期に熊本県内に疎開し、その後人吉、熊本で活動した。デッサンをたくさん残し、後進の教育にも力をつくした時期という。その時期は力強い構成の圧倒的な作品が多い。下に画像を載せておく「船を造る人」(1954)に戦後のエネルギーの一端がうかがわれる。1960年代になると、神奈川県逗子市に移住し、さらにパリにわたって絵を描き続けた。藤田嗣治が死んだときには、教会で最後のあいさつを(藤田の妻に代わって)行ったという。しかし、パリに移住した海老原に残された歳月は少なく、1970年に肺がんで死去した。一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、(鹿児島や熊本ではもっと知られているだろうが)、非常に心に残る画家だと思う。1934年に描かれた「ボアソニエール」(魚売りの女性)など、忘れがたい詩情が漂う。最後の頃は、フォーヴィズム風の力強い絵が多く、生涯にわたって歩み続けた画家だと思った。
さて、昔はよく山へ行ったりして、そのために大きな(昔は流行ったけれど、いまどきは全然見かけなくなった)、後ろに替えのタイヤを付けた「RV」というタイプにずっと乗ってきた。一度買い換えたんだけど、使い勝手がいいので10年を超えても乗っていた。だけど、税金は高いし、燃費は悪いし、山はもう行かないから、いいかなと思っている。最後に旅行でもしたかったんだけど、個人的な事情で難しかった。車検も近いので、最後にどこかドライブしてこようと思って、横須賀美術館に行ってきた。
小さいころは車酔いするタイプで、大人になって車に乗るようになるとは思わなかった。運転していると、無念無想で車と一体化できるので、(電車なら本が読めるという利点もあるけど)、思ったより自分が運転好きだと知って驚いた。自分の車で、北海道の利尻、礼文島から、九州の阿蘇、霧島などまで行った。今のクルマでは、四国に行って石鎚山、剣山に登ったり、祖谷温泉に泊ったりした。熊野古道に行ったときは、台風の直撃を受け、吉野川があふれて通行止めになった。そして一番の思い出は、震災のボランティアにこの車で行ったこと。上の画像のクルマ。