ティム・バートンの新作「ビッグ・アイズ」は非常に面白い実話の映画化で、ティム・バートンにしてはなんか普通の映画という感じである。60年代のアメリカで非常に売れていたウォルター・キーンという「大きな目の女の子」で知られた画家がいて、実はその絵はすべて妻であるマーガレットが描いていたものだった。マーガレットをエイミー・アダムズが演じて、ゴールデングローヴ賞のコメディ・ミュージカル部門の主演女優賞を得た。(僕は彼女のファンなんだけど、残念なことにアカデミー賞にはノミネートされなかった。)夫のウォルターはクリストフ・ヴァルツで、「イングロリアス・バスターズ」でアカデミー助演男優賞を受けて、今ではすっかりドイツからハリウッドに移った感があるが、偽善者的人物を演じると抜群の、あの独特な存在感がとても生きている。
もう一本、角田光代原作を吉田大八監督が映画化した「紙の月」を最近ようやく見たので、合わせて書いておきたい。宮沢りえが主演して東京国際映画祭で女優賞を受けた映画で、2014年のキネ旬ベストテン3位の選出されている。「最も美しい横領犯」というのがキャッチコピーで、初めから宮沢りえが銀行員として横領事件を起こす話だというのは知って見ている。この二つの映画は関係ないようでいて、「盗みとは何か」を描いている共通点がある。「自分が自分であるためには、何が必要か」という映画である。両者を比較して考えてみたいと思う。
「ビッグ・アイズ」では、最初の夫の横暴から逃れてマーガレットがサンフランシスコに来るところから始まる。当時は妻の銀行口座も作れなかったという話で、だけど独自の絵を描き続けていたマーガレットは自分を捨てることが出来なかったのである。マーガレットは自分の絵をフリーマーケットに出して、ウォルターと知り合う。初めは画家のふりをして、次は「日曜画家」の不動産画家として、ウォルターはマーガレットに近づき、やがて二人は結婚する。当時は女性の名前では絵が売れないといいくるめ、僕たちはどっちも「キーン」(夫の姓)だと言って、「キーン」と署名した絵を彼は売り歩く。評判を呼んで、絵は大評判になり、ウォルターは名士となるが、その陰で絵を大量生産するマーガレットの存在は、絶対の秘密とされた。豪邸に住めるようになって、その秘密もやむを得ないとマーガレットも納得してはいたのだが…。だんだん横暴になってきて、前妻との間に子どもがいることも判り、様々なウソが彼の人生を覆っていることを知り、ついに逃げ出すことにする。
マーガレットは、いわば「名前を盗まれた存在」である。名前を取り戻す戦いを最後に開始するが、そのてん末は映画で見てもらうとして、半世紀前頃は確かに女性の業績は「盗まれる」ことが多かっただろう。特に自然科学や人文科学などの研究者の世界では、女性研究者が見つけた新発見、新資料などを上司の有名男性が自分のものにしてしまうことは多かったと思う。この映画は絵画ビジネスの世界だけど、いかにもありそうな話である。この映画にリアリティを与えているのは、夫役のクリストフ・ヴァルツだと思う。ニセもので得た現世の幸福をいかにも自分の手柄と思い込める。「天性の詐欺師」に近い。「家族の秘密」としてDVが隠されてしまうことがあるのと同じく、夫のウォルターは現状を維持し続けるためにウソを続けることに何の苦痛も感じていない。そういう生き方である。
一方、「紙の月」(この題名は、どうしてもピーター・ボグダノヴィッチの「ペーパー・ムーン」を思い出してしまうのだが)は、マジメな銀行員としか思えない梨花(宮沢りえ)が、いかにして横領犯になていったかの克明な記録である。1995年、阪神大震災の年、銀行はバブルがはじけて数年、不良債権問題が大変だったころの話である。夫の生活は、良い人である感じではあるが、索漠とした思いも感じている。そんな中で、「年下の愛人」ができ、頼られる存在として求められたら…。それがどんなにうれしいことか、人生に生きがいを呼び起こしてくれるか。そう言ってしまえば、それは判りやすい話である。でも、僕はこの映画、というか主人公にはどうしても判らない部分があった。最初に、大金持ちの石橋蓮司の家で、孫の光太(池松荘亮)に出会う。(池松は「愛の渦」「僕たちの家族」「海を感じる時」などにも出演して印象的な演技をしていて、2014年の助演男優賞にふさわしい活躍をした、今もっとも旬の若い男優である。)祖父は孫が頼んでも、大学の学費を出してくれないらしく、孫は学生にして多額の借金をしているという。その時に、たまたま祖父から預かった新規の定期預金分、200万の現金があった。
この最初の動機は理解可能で、これは「犯罪」ではあるが「盗み」ではなく、「お金の正しい遣い方」とさえ言えるかもしれない。もし、その一件だけだったら、個人で返済も可能な範囲にとどまっただろう。だけど、やがて認知症の老女など、狙いはエスカレートしていき、その「盗んだ金」で高級ホテルに泊まったり、マンションを買ったりしてしまう。池松に対しては、自分はお金持ちなんだと説明しているのだが…。確かめてみると、池松は1990年生まれ、大して宮沢りえは1973年生まれで、まあ本人たちがいいんだったら傍がとやかく言うことではないかもしれないが、女性が17歳年上というのはあまりないカップルではあるだろう。まあ、不倫でも年の差でも、それだけなら別にいいんだけど、というか理解できるんだけど、でもその幸せは「盗み」の上に成り立っている。カネは本質においてすべて盗まれたモノなのかもしれないが。貨幣は人を自由にするか。僕はこれを判らないのは、自分が小心者なのだろうか。それとも正義感の問題か。あるいは、梨花にとって、光太は人生すべてを捨てるほどの魅力があるのだろうか。フィルム・ノワールに出てくる「ファム・ファタール」(運命の女)にならうと、破滅してもいいほどの「運命の男」だったのだろうか。そこが僕にはよく理解できなかったところで、でもそれが「犯罪」というもので、一種の「嗜癖」、依存症のようなものなのかもしれない。
もう一本、角田光代原作を吉田大八監督が映画化した「紙の月」を最近ようやく見たので、合わせて書いておきたい。宮沢りえが主演して東京国際映画祭で女優賞を受けた映画で、2014年のキネ旬ベストテン3位の選出されている。「最も美しい横領犯」というのがキャッチコピーで、初めから宮沢りえが銀行員として横領事件を起こす話だというのは知って見ている。この二つの映画は関係ないようでいて、「盗みとは何か」を描いている共通点がある。「自分が自分であるためには、何が必要か」という映画である。両者を比較して考えてみたいと思う。
「ビッグ・アイズ」では、最初の夫の横暴から逃れてマーガレットがサンフランシスコに来るところから始まる。当時は妻の銀行口座も作れなかったという話で、だけど独自の絵を描き続けていたマーガレットは自分を捨てることが出来なかったのである。マーガレットは自分の絵をフリーマーケットに出して、ウォルターと知り合う。初めは画家のふりをして、次は「日曜画家」の不動産画家として、ウォルターはマーガレットに近づき、やがて二人は結婚する。当時は女性の名前では絵が売れないといいくるめ、僕たちはどっちも「キーン」(夫の姓)だと言って、「キーン」と署名した絵を彼は売り歩く。評判を呼んで、絵は大評判になり、ウォルターは名士となるが、その陰で絵を大量生産するマーガレットの存在は、絶対の秘密とされた。豪邸に住めるようになって、その秘密もやむを得ないとマーガレットも納得してはいたのだが…。だんだん横暴になってきて、前妻との間に子どもがいることも判り、様々なウソが彼の人生を覆っていることを知り、ついに逃げ出すことにする。
マーガレットは、いわば「名前を盗まれた存在」である。名前を取り戻す戦いを最後に開始するが、そのてん末は映画で見てもらうとして、半世紀前頃は確かに女性の業績は「盗まれる」ことが多かっただろう。特に自然科学や人文科学などの研究者の世界では、女性研究者が見つけた新発見、新資料などを上司の有名男性が自分のものにしてしまうことは多かったと思う。この映画は絵画ビジネスの世界だけど、いかにもありそうな話である。この映画にリアリティを与えているのは、夫役のクリストフ・ヴァルツだと思う。ニセもので得た現世の幸福をいかにも自分の手柄と思い込める。「天性の詐欺師」に近い。「家族の秘密」としてDVが隠されてしまうことがあるのと同じく、夫のウォルターは現状を維持し続けるためにウソを続けることに何の苦痛も感じていない。そういう生き方である。
一方、「紙の月」(この題名は、どうしてもピーター・ボグダノヴィッチの「ペーパー・ムーン」を思い出してしまうのだが)は、マジメな銀行員としか思えない梨花(宮沢りえ)が、いかにして横領犯になていったかの克明な記録である。1995年、阪神大震災の年、銀行はバブルがはじけて数年、不良債権問題が大変だったころの話である。夫の生活は、良い人である感じではあるが、索漠とした思いも感じている。そんな中で、「年下の愛人」ができ、頼られる存在として求められたら…。それがどんなにうれしいことか、人生に生きがいを呼び起こしてくれるか。そう言ってしまえば、それは判りやすい話である。でも、僕はこの映画、というか主人公にはどうしても判らない部分があった。最初に、大金持ちの石橋蓮司の家で、孫の光太(池松荘亮)に出会う。(池松は「愛の渦」「僕たちの家族」「海を感じる時」などにも出演して印象的な演技をしていて、2014年の助演男優賞にふさわしい活躍をした、今もっとも旬の若い男優である。)祖父は孫が頼んでも、大学の学費を出してくれないらしく、孫は学生にして多額の借金をしているという。その時に、たまたま祖父から預かった新規の定期預金分、200万の現金があった。
この最初の動機は理解可能で、これは「犯罪」ではあるが「盗み」ではなく、「お金の正しい遣い方」とさえ言えるかもしれない。もし、その一件だけだったら、個人で返済も可能な範囲にとどまっただろう。だけど、やがて認知症の老女など、狙いはエスカレートしていき、その「盗んだ金」で高級ホテルに泊まったり、マンションを買ったりしてしまう。池松に対しては、自分はお金持ちなんだと説明しているのだが…。確かめてみると、池松は1990年生まれ、大して宮沢りえは1973年生まれで、まあ本人たちがいいんだったら傍がとやかく言うことではないかもしれないが、女性が17歳年上というのはあまりないカップルではあるだろう。まあ、不倫でも年の差でも、それだけなら別にいいんだけど、というか理解できるんだけど、でもその幸せは「盗み」の上に成り立っている。カネは本質においてすべて盗まれたモノなのかもしれないが。貨幣は人を自由にするか。僕はこれを判らないのは、自分が小心者なのだろうか。それとも正義感の問題か。あるいは、梨花にとって、光太は人生すべてを捨てるほどの魅力があるのだろうか。フィルム・ノワールに出てくる「ファム・ファタール」(運命の女)にならうと、破滅してもいいほどの「運命の男」だったのだろうか。そこが僕にはよく理解できなかったところで、でもそれが「犯罪」というもので、一種の「嗜癖」、依存症のようなものなのかもしれない。