尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

なぜ「裁判」をしないのか-IS問題③

2015年02月18日 23時03分03秒 |  〃  (国際問題)
 「イスラム国」は、どうして「裁判」をしないのだろうか。いや、支配地区の中では「イスラム法による裁判」を行っているのかもしれない。しかし、外国人拘束者を無慈悲に殺害しているのに、その「裁判」を行ったという報道がない。もちろん、「罪なき者」に裁判をして死刑を言い渡すのが認められるわけではない。罪のないものに、裁判をしようにもできないかもしれないが、例えばアメリカのメディア関係者には「スパイ罪」を、ヨルダン軍のパイロットには「殺人罪」をなすりつけるのは簡単だろう。一応「裁判をした形」を取って、その断罪を行ったとして、「正義が果された」と大々的に報道するというのが、多くの独裁国家のやり方である。スターリン時代の粛清も、文化大革命の時の迫害もそうだったし、最近の事例では「北朝鮮」の張成沢氏は「国家反逆罪」に当たると裁判で断罪された。

 最初に確認しておきたいが、もちろん「拘束すること」そのものが不当な場合がほとんどであって、「裁判をしていれば認められる」などいうことはない。だけど、「捕虜」として「拘束そのもの」はやむを得ないヨルダン軍のムアーズ・カサースベ中尉の場合など、「公開のイスラム法廷」を開いたことにした方が、宣伝効果は高いはずである。「捕虜」は戦時国際法にそって人道的な扱いをおこなわなければならないわけだが、「イスラム国」はそのことをなんら主張しない。自分たちが「敵」に残虐な扱いをするのは、自明の理とでもいいたいのか、全く「捕虜」という概念を持ち出さない。しかし、やっていることは「戦争犯罪」である。(従って、ボスニア紛争などと同じく、いくら時間がかかっても「戦争犯罪人裁判」を実施しなければならない。)捕虜に対して「裁判抜きの処刑」を行うことは国際法違反で、カサースベ中尉は「虐殺」されたと認定できる。(従って、「南京大虐殺はなかった」などと主張する輩は、「イスラム国」を批判できないはずである。)

 そのような「イスラム国」なる存在は、一体どんな存在なのだろうかというのが、今回のテーマである。ひとつ、よくある考え方は、「イスラム国」というのは「要するにならず者」であって、犯罪者集団、殺人集団と考えるというものである。これは判りやすいので、そういう風に簡単に決めつける人も多いようである。しかし、宣伝やかけひきの様子を見ると、「単なる犯罪集団」というのは過小評価ではないだろうか。とにもかくにもアラブ諸国などから多くの志願兵を集めているのである。それに「殺人者集団」だと言っては、殺人者集団が人殺しをするのは当たり前で、トートロジー(同義反復)になってしまう。

 もう一つの考え方は、「戦時体制」と考えるというものである。「戦時体制」には、普通の日常的行政を行う余裕がないから、指導者に一任して判断を仰ぎ、時には残虐な行為も行わざるを得ない(ことがある。戦争に負けては元も子もないので、戦時中は「裁判」などを行う余裕がないという事情もあるのかもしれない。しかし、あれほど画像等には工夫できるんだから、「裁判をやった」と取り繕うことぐらいは大した手間でもないだろう。もし拷問により「スパイ」を自白させられたら、(ソ連や東欧の政治裁判では、おおむね「スパイ自白」を取られている)非常に宣伝効果もあるはずである。まともな人は信じないだろうが、中東世界では信じてしまう人が出てくるだろう。だから、その「戦時体制」説だけでは僕は納得できない部分がある。

 では、何だろうかというと、「近代的な法概念としての裁判を認めない」という「イスラム国」の政治思想の現れなのではないか。裁判をする以上、告発するもの(検察官)と弁護するもの(弁護士)という存在が必要である。両者の言い分を聞き、裁判官が判断するというのが、近代的な裁判のかたちである。今、裁判をするといったら、やはりそういう構造を持たせざるを得ない。でも、時代劇を見れば判るけど、大岡越前とか遠山の金さん(遠山金四郎)は、自分で究明して自分で判断して自分で言い渡す。日本だって、前近代では「検察官」「弁護人」という役割はなかったのである。「イスラム国」は近代を全否定して、「イスラム帝国」を再現しようという存在である。本気で実現できると考えているかは別にして、カリフが(神の言葉に基づき)すべてを決定するという、そういう裁判しか行えないはずである。僕が思うに、「裁判という形を取り繕った方がいい」という発想そのものが、もう「イスラム国」幹部にはないのではないか。現代に現れた「邪悪」としか思えないが、それがこの集団の本質と思うのである。

 なお、ヨルダン軍のムアーズ・カサースベ中尉がいつ殺害されたかは僕には判らないが、明らかに拷問はされていたとみられる。中尉は一回も生存を報じる映像が流されなかった。「イスラム国」側はヨルダン王政打倒が目標だから、本来はこの機会に「ヨルダンが有志連合から脱退するように、アブドラ国王に要求して欲しい。もし王が決断しないと、私は殺されてしまう。国王に私を殺させないように、ヨルダン国民は国王に要求して欲しい」と言わせたかったはずである。しかし、一回もそのようなビデオ映像が流されなかった。拷問に屈しなかったのである。「さすがに軍人」というべきなのかもしれないが、見あげたもんだと思う。そのような「不屈」に対して、「火刑」という信じがたい残虐を行ったのである。
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ゴダールの「さらば愛の言葉よ」

2015年02月18日 20時54分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 もはや「老」とか「翁」とか呼びたいジャン=リュック・ゴダール が、なんと3Dの新作を作って昨年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞してしまった。その「さらば愛の言葉よ」(Adieu au Langage)が公開されている。(東京ではシネスイッチ銀座のみ。)こういうのは名画座では(少なくとも3Dでは)見られないと思い、見に行ってきた。1930生まれのゴダールだが、クリント・イーストウッドも同年で、元気なことでは負けていない。ゴダールは判らない映画ばかりになってしまったけれど、実は21世紀に作られた「愛の世紀」「アワー・ミュージック」「ゴダール・ソシアリズム」も見ている。やはり気になる。
 
 さて、では判ったかというと、今回も全然判らん感を抱いて映画館を出ることになる。3D用メガネを持参しないと400円追加されるにもかかわらず、上映時間は69分しかない。一分あたりのコスト・パフォーマンスがはなはだよろしくない。だけど、映像は凝縮されていて、けっこう長く感じる。なんだ映画はこのくらいの時間でいいではないかと思ったりもする。

 物語性が乏しい(多少ないこともない)のは最近のゴダール作品と同じ。だから判りにくいんだけど、3Dの映像は極めて鮮烈で、なんだか世界を再発見する感じもある。わざわざ3Dにするというと、宇宙空間を駆け抜けるとか特撮に偏しているけれど、ゴダールは日常世界の人間と自然しか撮らない。わざわざ3Dにしなくてもと普通思うような素材なんだけど、新鮮で発見に満ちている。大体、3Dというのは立体感をだすためのはずなのに、なんだか判らない目くるめく映像体験のために使っている。わざわざ左右をずらせているのである。そういう使い方があるわけだと3Dアートの世界を切り拓いた。

 男と女がいて、その関係をたどる中に、犬が出てきて「犬の目」で世界を示す。この犬はゴダールの愛犬だそうで、カンヌ映画祭の「パルムドッグ賞」受賞。(これは「アーティスト」で危機を知らせた犬などに授賞するシャレ。)人間は「言葉」に囚われているが、犬は「自由」に世界を生きる。ついに、人間界をも相対化する映画に行きついたのか。ゴダールは、やはり只者ならず。でも、全然判らないな。

 今では判る「勝手にしやがれ」だって、公開当時は判りにくいと思われた。「気狂いピエロ」だって判りやすくはないだろう。だけど、初期作品は「物語」が詰まっていたのは確かだった。「東風」などの政治映画を作った時が、ある意味では一番判りやすい映画だったのかもしれない。詰まらないだけで。当時の映画は、言語によるプロパガンダに映像が従属していた。今回はついに「Adieu au Langage」だから、「愛の言葉」は邦題であって、言葉そのものにサラバと告げているのか。しかし、実は書物からの引用が相変わらず多く、それは日本語字幕で追わなければならないので、3D映像に耽溺するジャマになる。やっぱり、けっこう「言葉の映画」なのである。今でもゴダールに、あるいは映像表現の可能性に関心を持つ少数の人は見ておいた方がいいかもしれない。大方の人には勧めないけど、まあ、こういう映画もあるという話。どんなもんかと見てみたい人はどうぞ。
コメント (2)
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