次にシリアについて書きたいが、シリアの今後ほど見通せない問題も珍しい。当面どうにもならないのではないか。シリア内戦に関しては、今までに2回書いている。「シリア情勢の混迷を読む」と「緊迫!シリア情勢」で、2012年、13年段階の話である。シリアという国、地域の歴史的問題はそこで大体書いておいた。そのときの情勢分析としては、アサド政権はしばらく崩壊しないだろうという予測を書いた。その当時にはアサド政権が今にも崩壊するという予測が多かった。アメリカもアサド政権の退陣を求めていたし、それに追随したのだと思うが、安倍政権もアサド政権の退陣を求めていた。(それがシリア大使館のヨルダン撤退につながり、「イスラム国」情報が不十分な原因となったかと思う。)
中東ニュースを何十年も見続けてくれば、アサド政権がそう簡単に崩壊しそうもないということは予測できる。現に今もアサド政権が続いているわけだが、しかし、今のアサド政権はシリア全土を支配する中央政権とは言えない。アサド政権がシリア東部から「撤退」してしまい、ダマスカスを中心とするシリア南部に勢力を集中させ、事実上の「地方政権」になっている。その空白地区に「イスラム国」が出現したわけである。アサド政権はそれを一応は非難するわけだが、では「イスラム国」を攻撃して支配権を回復しようという力はない。当面はこのまま推移しそうである。要するに、アサド政権は戦国時代の室町幕府みたいな存在になって存続していく可能性が高い。つまり、タテマエ上は「正統政権」として残ることになる。反体制派がまとまって「臨時政府」を樹立するのは、どう考えても無理。だから「政府」を名乗るのはアサド政権だけで、首都近辺を押さえ続けていくと思われる。
少し前に書いたけど、ある時期までアラブ諸国は「ソ連寄り」の国が多かった。アメリカがイスラエルを支援しているのだから当たり前である。ソ連の軍事支援を受けてイスラエルに対峙していたわけである。湾岸の保守王政諸国を除くと、70年頃のアラブ諸国には民族主義的、左派的な政権が多く、そのような国(エジプト、シリアなど)では最大の反体制派はイスラム勢力、特にムスリム同胞団だった。それに対してシリアなどは、パレスティナの解放闘争に連帯する世界各地の反体制革命集団を受け入れていた。70年前後の「アラブの大地」は「世界革命の聖地」とも思われていたのである。「日本赤軍」はその時代のアラブに向った集団の一つである。今思うと、民衆のほとんどが敬虔なイスラム教徒である地域で、どうして無神論の「共産主義者」が革命を夢想できたのか、実に不思議に思えるが。
エジプトが親米に転向した後も、最後まで反米的、左派的だったのがリビアとシリアである。リビアのカダフィ政権が崩壊した後は、シリアは唯一残ったロシアや「北朝鮮」に近い国家である。(国連安保理ではシリア関連の問題はいつもロシアが拒否権を使う。)シリア内戦が始まった数年前は、エジプトのムバラク政権が崩壊し、選挙でムスリム同胞団のムルシ政権が誕生するような情勢だった。サウジアラビアやカタールなどの親米スンナ派勢力からすれば、シーア派に近いアラウィ派のアサド政権が支配するシリアでも、政権を打倒してムスリム同胞団系のスンナ派政権を樹立したいと考えても当然だろう。
アサド政権が反体制派を弾圧するシリアに自由がなかったのは確かである。だから「アラブの春」の時期に、反体制のデモなどが起こったのも当然だし、そのときの政権の対応が褒められたものではないのも間違いない。アサド政権は政治犯を釈放するなどの措置も取ったけど、基本的には権力を手放すことを固く拒否して首都という塹壕に立てこもった。アラウィ派という確固たる基盤があり、シリアが完全に崩壊することを懸念する首都周辺のスンナ派などの「弱い支持」もあるからである。今アサド政権が崩壊したりすれば、宗派主義を前面に出しシーア派をも敵視する「イスラム国」がアラウィ派住民を虐殺する恐れが高い。それを恐れるアラウィ派住民のアサド政権防衛の戦意は高いと言われている。わざわざ「イスラム国」根絶するほどの意欲はなさそうだけど。
シリアの反体制派は当初から完全にバラバラだった。何度も会合が開かれているが、そして形式的には反アサド政権でまとまったような時期もあるが、結局は一緒にはなれない。西欧的な自由主義勢力、穏健なイスラム勢力に加え、次第に各国から義勇軍を受け入れる過激な勢力、アル・カイダ系の勢力が力を蓄えていき、反体制派どうしの衝突、反体制派による住民虐殺もひんぱんにおこるようになった。こうして、アサド政権が支配する首都周辺を除くシリア北部などは、「戦国時代」になってしまったのである。トルコやカタールがムスリム同胞団系反体制派に資金、武器の援助をしてきたと思われるが、それは「イスラム国」に流れてしまった。今ではシリア反体制派がまとまって首都を攻撃するような事態は考えられない。だから、シリア北部からイラクにかけての一帯は「戦国時代」が続くという予測しかできない。一時的に退潮に追い込むことは不可能ではないだろうが、数年後に外国の関心が薄れ中央政府が弱体化すると盛り返してくる。つまり、アフガニスタンの「タリバン」である。
IS問題というテーマでイラクとシリアの情勢を検討したが、要するに「どうにもならない」可能性が高いという結論になる。短期的には政府の力が強まる時期もあるだろうが、中期的には根絶は難しい。長期的な視野に立って、中東の問題を一つ一つ着実に解決していくしかないのだろうと思う。ただ、一部にイラクとシリアの国境は第一次大戦後の英仏がサイクス・ピコ協定で「列強が勝手に決めた」ものだというような主張を取り上げているものがある。その問題は昨年に第一次世界大戦100年をめぐる記事で論究しておいたが、「勝手に決めた」最大の問題点は、「独立を与えずに、英仏の委任統治領とした」ことにある。国境線も英仏で決めただろうが、歴史的にイラクとシリアは別の領域だったと考えるべきだろう。大体「イスラム国」(IS)そのものが、それ以前は「イラクとシャームのイスラム国」(ISIS)と称していたわけで、そのこと自体がイラクとシリア(シャームというのはシリアからパレスティナ一帯を呼ぶ用語。歴史的シリア)は別のものだという証明である。
シリアはローマ帝国の総督が置かれた地中海沿岸地域であり、イラクは古代の昔のイスラム帝国の前はペルシャに支配された時期が長い。イスラム帝国でも、最初のウマイヤ朝はシリアのダマスカスを首都とし、次のアッバース朝はイラクのバグダードを首都とした。歴史的に対抗関係が長く、それはフセイン政権とアサド政権でも同じ。だから、「イスラム国」がイラクとシリアの両方を征服して支配すると言った展開まではありえない。
中東ニュースを何十年も見続けてくれば、アサド政権がそう簡単に崩壊しそうもないということは予測できる。現に今もアサド政権が続いているわけだが、しかし、今のアサド政権はシリア全土を支配する中央政権とは言えない。アサド政権がシリア東部から「撤退」してしまい、ダマスカスを中心とするシリア南部に勢力を集中させ、事実上の「地方政権」になっている。その空白地区に「イスラム国」が出現したわけである。アサド政権はそれを一応は非難するわけだが、では「イスラム国」を攻撃して支配権を回復しようという力はない。当面はこのまま推移しそうである。要するに、アサド政権は戦国時代の室町幕府みたいな存在になって存続していく可能性が高い。つまり、タテマエ上は「正統政権」として残ることになる。反体制派がまとまって「臨時政府」を樹立するのは、どう考えても無理。だから「政府」を名乗るのはアサド政権だけで、首都近辺を押さえ続けていくと思われる。
少し前に書いたけど、ある時期までアラブ諸国は「ソ連寄り」の国が多かった。アメリカがイスラエルを支援しているのだから当たり前である。ソ連の軍事支援を受けてイスラエルに対峙していたわけである。湾岸の保守王政諸国を除くと、70年頃のアラブ諸国には民族主義的、左派的な政権が多く、そのような国(エジプト、シリアなど)では最大の反体制派はイスラム勢力、特にムスリム同胞団だった。それに対してシリアなどは、パレスティナの解放闘争に連帯する世界各地の反体制革命集団を受け入れていた。70年前後の「アラブの大地」は「世界革命の聖地」とも思われていたのである。「日本赤軍」はその時代のアラブに向った集団の一つである。今思うと、民衆のほとんどが敬虔なイスラム教徒である地域で、どうして無神論の「共産主義者」が革命を夢想できたのか、実に不思議に思えるが。
エジプトが親米に転向した後も、最後まで反米的、左派的だったのがリビアとシリアである。リビアのカダフィ政権が崩壊した後は、シリアは唯一残ったロシアや「北朝鮮」に近い国家である。(国連安保理ではシリア関連の問題はいつもロシアが拒否権を使う。)シリア内戦が始まった数年前は、エジプトのムバラク政権が崩壊し、選挙でムスリム同胞団のムルシ政権が誕生するような情勢だった。サウジアラビアやカタールなどの親米スンナ派勢力からすれば、シーア派に近いアラウィ派のアサド政権が支配するシリアでも、政権を打倒してムスリム同胞団系のスンナ派政権を樹立したいと考えても当然だろう。
アサド政権が反体制派を弾圧するシリアに自由がなかったのは確かである。だから「アラブの春」の時期に、反体制のデモなどが起こったのも当然だし、そのときの政権の対応が褒められたものではないのも間違いない。アサド政権は政治犯を釈放するなどの措置も取ったけど、基本的には権力を手放すことを固く拒否して首都という塹壕に立てこもった。アラウィ派という確固たる基盤があり、シリアが完全に崩壊することを懸念する首都周辺のスンナ派などの「弱い支持」もあるからである。今アサド政権が崩壊したりすれば、宗派主義を前面に出しシーア派をも敵視する「イスラム国」がアラウィ派住民を虐殺する恐れが高い。それを恐れるアラウィ派住民のアサド政権防衛の戦意は高いと言われている。わざわざ「イスラム国」根絶するほどの意欲はなさそうだけど。
シリアの反体制派は当初から完全にバラバラだった。何度も会合が開かれているが、そして形式的には反アサド政権でまとまったような時期もあるが、結局は一緒にはなれない。西欧的な自由主義勢力、穏健なイスラム勢力に加え、次第に各国から義勇軍を受け入れる過激な勢力、アル・カイダ系の勢力が力を蓄えていき、反体制派どうしの衝突、反体制派による住民虐殺もひんぱんにおこるようになった。こうして、アサド政権が支配する首都周辺を除くシリア北部などは、「戦国時代」になってしまったのである。トルコやカタールがムスリム同胞団系反体制派に資金、武器の援助をしてきたと思われるが、それは「イスラム国」に流れてしまった。今ではシリア反体制派がまとまって首都を攻撃するような事態は考えられない。だから、シリア北部からイラクにかけての一帯は「戦国時代」が続くという予測しかできない。一時的に退潮に追い込むことは不可能ではないだろうが、数年後に外国の関心が薄れ中央政府が弱体化すると盛り返してくる。つまり、アフガニスタンの「タリバン」である。
IS問題というテーマでイラクとシリアの情勢を検討したが、要するに「どうにもならない」可能性が高いという結論になる。短期的には政府の力が強まる時期もあるだろうが、中期的には根絶は難しい。長期的な視野に立って、中東の問題を一つ一つ着実に解決していくしかないのだろうと思う。ただ、一部にイラクとシリアの国境は第一次大戦後の英仏がサイクス・ピコ協定で「列強が勝手に決めた」ものだというような主張を取り上げているものがある。その問題は昨年に第一次世界大戦100年をめぐる記事で論究しておいたが、「勝手に決めた」最大の問題点は、「独立を与えずに、英仏の委任統治領とした」ことにある。国境線も英仏で決めただろうが、歴史的にイラクとシリアは別の領域だったと考えるべきだろう。大体「イスラム国」(IS)そのものが、それ以前は「イラクとシャームのイスラム国」(ISIS)と称していたわけで、そのこと自体がイラクとシリア(シャームというのはシリアからパレスティナ一帯を呼ぶ用語。歴史的シリア)は別のものだという証明である。
シリアはローマ帝国の総督が置かれた地中海沿岸地域であり、イラクは古代の昔のイスラム帝国の前はペルシャに支配された時期が長い。イスラム帝国でも、最初のウマイヤ朝はシリアのダマスカスを首都とし、次のアッバース朝はイラクのバグダードを首都とした。歴史的に対抗関係が長く、それはフセイン政権とアサド政権でも同じ。だから、「イスラム国」がイラクとシリアの両方を征服して支配すると言った展開まではありえない。