尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

チュニジアはどうなるか-IS問題⑦

2015年03月18日 22時55分55秒 |  〃  (国際問題)
 アジア映画の記事をいっぱい書いてる間に、IS問題がまだ残っていた。映画は新作では「フォックスキャッチャー」や「女神は二度微笑む」(歌も踊りもないインド映画のミステリー)を見てるけど、書かないことにする。古い映画では神代辰巳監督を見直しているけど、新文芸坐の菅原文太特集とかち合って困った状態で、新作がなかなか見られない。教育問題に話を移したいんだけど、先にISを。

 今回は「チュニジア」をどう考えるかという問題である。チュニジアに問題があるのか?あると言えばあるんだけど、今のチュニジアそのものに問題があるというより、逆に「チュニジアはアラブの希望になるか」と問いを言い換えたほうがいいかもしれない。今チュニジアを検索すると、3月27日に予定されているサッカー日本代表とのキリン・チャレンジカップの記事がまず出てくる。ハリルホジッチ新監督の最初の試合である。チュニジアは2002年の日韓ワールドカップにも出場して日本と同組だった。調べるとワールドカップには4回出場。2006、2010にも出場したが、昨年は予選敗退だった。今年のアフリカ杯ではベスト8で、2004年には優勝している。まあ、それなりに強い国ではないかと思う。

 ではチュニジアはどこにあるか?ハリルホジッチが指揮したアルジェリアの隣にある国。アフリカ北岸で、イタリアの反対側。古代にはカルタゴ文明が栄えた地帯で、地中海の周りの文明地帯だった。その後、アラブ人がイスラム教とともにやってきてイスラム圏となった。この地に王朝が建てられた時代もあったようだが、16世紀になるとオスマン帝国の支配下に入った。その後、本国から事実上独立した王朝が成立し、近代化を目指し西欧化、富国強兵策が進められた。1861年には憲法が制定され立憲君主国となったとウィキペディアに出ている。1876年のオスマン帝国のミドハト憲法、1889年の大日本帝国憲法より早いことになるが、全く聞いたことがない。ただし、1864年に憲法が停止され、1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列強に認められ、フランスの植民地とされた。

 しかし、独立運動が粘り強く行われ、隣国アルジェリアに先立ち、1956年にチュニジア王国として独立した。翌1957年には王政を廃止し、フルギバを大統領とするチュニジア共和国が成立した。ブルギバはチュニジア独立の父とも言える人物で、社会主義的政策を進めた。一夫多妻を禁止し、離婚を合法化するなど近代化、世俗国家化を進めて、トルコのケマル・アタチュルクのような役割を果たした。一方、アラブの「大義」を支援し続け、PLOがベイルートにいられなくなるとチュニジアの首都チュニスに受け入れた。1987年になると長期政権、食糧不足に対する不満からゼネストが起こり、無血クーデタによりブルギバは追放され、ベンアリ首相が大統領に就任した。

 このベンアリが2011年の「ジャスミン革命」で追放されることになる大統領だから、独立から半世紀以上にわたって、2人しか大統領がいなかったのである。そのベンアリも長期政権化、家族の腐敗、貧困などで国民の不満が高まり、2010年末から反政府デモが続き、2011年1月に国外に脱出した。ここから「アラブの春」と言われたアラブ民主化運動の大きな流れが起こったわけだが、エジプトは軍事クーデタで民選大統領を追放し、軍中心のシーシ大統領体制となった。シリアは内戦が収まりがつかず、イエメン、リビアはとめどない国家崩壊状態にある。もともと選挙もないサウジアラビアの王政などは安泰で、モロッコやヨルダンなどの立憲君主国でも、イギリスや日本のような議院内閣制ではない国が多い。(首相を国会で指名するのではなく、国王が指名する旧憲法下の日本のような体制。)そんな中で、選挙で国民が国家の代表を選べる民主主義制度はほとんどチュニジアしか機能していない。宗教と国家の分離、女性の地位の保障という面でも、アラブではチュニジアが一番安定している。チュニジアはこの体制を維持できるのだろうか

 是非チュニジアの体制が安定して「アラブの希望」になって欲しいものだと思うのだが、心配な点も多い。それは「イスラム国」に馳せ参じているという外国人兵士1万5千人、これはちょっと前のマスコミにある数字で現在は増加してるのか減少してるのか判らないが、その中でチュニジア人が国家別では一番多く、3千人にも上ると言われているのである。当然チュニジアにも過激イスラム主義者はいるだろうけど、人口1千万ほどの国が一番というのもどうなんだろうか。これはチュニジアが比較的経済が安定し、自由もあるということを逆説的に表わしているのではないか。もっと貧しい国ではまず出稼ぎが優先するし、体制が比較的安定していて自国でのイスラム革命の可能性が低い。一方、国民の自由も比較的あるので外国へ出国しやすいのかもしれない。

 今、これを書いているさなか、チュニジアの首都チュニスで武装集団が議会や美術館を襲撃して8人死亡かというニュースが飛び込んできた。まさに書いている心配が的中してしまったことになるのか。「イスラム国」に赴いた若者たちは、やがてその「挫折体験」(になるだろう)を抱えて帰国するだろう。その中から無数のテロリストが生まれかねないのではないか。実際、これまで野党指導者の暗殺事件が起きているし、特に南部ではテロ活動の危険が指摘されている。日本国外務省はチュニジアに対する渡航情報(危険情報)の発出 を出しているのである。そこでは南部砂漠地帯やアルジェリアに隣接するカスリン県では「渡航の延期をお勧めします」となっている。首都チュニスも「十分注意してください」になっている。(具体的な危険情報は上記HPを参照。)

 そんなチュニジアの現在の政治状況を最後に書いておきたい。2011年10月に、革命後の制憲議会選挙が行われ、穏健派イスラム政党「ナハダ」が第一党になった。その後、野党の世俗政党との間で憲法をめぐって争いが続き、イスラム過激派による野党指導者暗殺も起こった。そんな中で2014年1月になって非常に民主的な憲法が平和的に制定されたのである。政教分離、信仰の自由、言論の自由、男女平等などが憲法で保障されているという話である。それを受け、10月に議会選挙が行われ、定数217の比例代表で、世俗派の「チュニジアの呼びかけ」が86議席、「ナハダ」が69党と勢力が逆転した。12月に行われた大統領選では、「ナハダ」は候補を立てず世俗派同士の戦いとなり、旧体制時代に首相などを務めた87歳のカイドセブシが当選した。新政権では、議会で過半数を持つ政党がないため、大統領の所属する「チュニジアの呼びかけ」と穏健派イスラムの「ナハダ」が連立を組むことになった。この政権が経済再生や社会の安定をもたらすことができるかどうか。それはアラブ諸国だけでなく、世界史的な重要性を持つのではないだろうか。サッカーを見ながらも、そんなチュニジア事情にも注目して欲しいものだと思う。「イスラム国」が増殖しているのは「アラブの春」への幻滅がある。チュニジアがうまくいくかどうか、要注目。
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