俳優で文学座代表だった加藤武(7.31没、86歳)の急逝には驚いた。7月に朗読会の公演があって、行こうかなと思いつつ見送ってしまったからである。いやあ、まだまだ見られると思っていたのに。麻布中・高で小沢昭一、フランキー堺、仲谷昇らと同窓で、早稲田大学で今村昌平、北村和夫らと同窓だった。みな、亡くなってしまった。新文芸坐で小沢昭一の追悼特集があった時に話を聞いたが、惜別の念の深さを痛感した。いろいろの映画にも古くから出ているが、僕にとってはリアルタイムで見た「仁義なき戦い」シリーズである。打本組長という難役があまりにも印象的だった。近年になって見なおした今村昌平の「果しなき欲望」という初期の映画も、加藤武の他、小沢昭一、殿山泰司、西村晃、渡辺美佐子の5人が戦後の隠匿物資の宝探しで争いあう。これだけのくせ者演技合戦は滅多にない。
(加藤武)
鶴見俊輔氏の訃報はその時に書いたけれど、長命だったことで「思想の科学」創刊メンバーはみな亡くなっていた。だから追悼文は年齢の離れた人が書くことになる。一方、物理学者の南部陽一郎(7.5没、94歳)は、長命だったことで、2008年にノーベル賞を受賞できる機会が巡ってきた。ノーベル賞級の業績をたくさん挙げた日本出身の学者がアメリカに行ってるんだという話は、物理学に縁の遠い僕も知っていた。だけど、ノーベル賞は「ナンブ」を通り過ぎてしまいかけていた。この人は、1942年という戦争真っ盛りの時期に、29歳で大阪市立大学教授になった。東京生まれだが、湯川秀樹が大阪帝大にいたのである。湯川は1934年に中間子論を発表し、1943年に文化勲章を受けている。アメリカに「頭脳流出」する前に、東京から大阪に行っていたのである。ノーベル賞受賞後に大阪市立大と大阪大の特別栄誉教授を務め、亡くなったのも大坂だった。
(南部陽一郎)
写真家の大竹省二(7.2没、92歳)は女性写真の名手として、かつては非常に有名な人だった。長命ゆえに、ちょっと忘れられたかもしれない。経済学の青木昌彦(7.15没、77歳)は、60年安保当時は、全学連の理論派だったが、その後近代経済学に転身して、世界的に重要な業績を挙げた。そのことは知っていたけど、中味は判らない。建築評論家の川添登(7.9没)は今和次郎とともに生活学などを提唱していたので、昔少し読んだ。黒川紀章らとともに結成した集団が「メタボリズム」だったという命名には時代を感じる。「有機的に代謝する都市」という意味である。女性運動家で元参議院議員の紀平悌子(きひら・ていこ、7.19没、87歳)は市川房枝の秘書を長く務め、日本婦人有権者同盟を支えてきた人。市川房枝が生きている間は、どうしてもその陰という感じがした。その後、89年の与野党逆転した参院選、リクルートや消費税のあの参院選で当選して1期務めた。ビックリしたのは、佐々淳行が実弟だったということで、訃報で初めて知った。
元社会党委員長の田辺誠(7.2没、93歳)、ジャズピアニストの菊地雅章(きくち・まさぶみ、7.7没、75歳)、被差別民などの研究者、沖浦和光(おきうら・かずてる、7.8没、88歳)、ジャズ評論家の相倉久人(7.8没、83歳)、落語家の入船亭船橋(7.10没、84歳)など、そういえばそういう人がいたなあ、読んだり聞いたりしたなあという名前。映画監督沖島勲(7.2没、74歳)は、「日本昔ばなし」ばかり書いてあるが、若松プロで「ニュー・ジャック&ベティ」という伝説的なピンク映画を作った人である。ちょうどラピュタ阿佐ヶ谷のレイトで特集をしていたが、見てない。国際問題研究家という肩書で載っていた北沢洋子(7.3没、82歳)は、PARC(アジア太平洋資料センター)を設立し、アフリカ問題等でよく発言していた。昔はよく名前を聞いた人だった。昔の名前と言えば、占領史研究の先駆者、竹前栄治(7.14没、84歳)という名前は、80年代ぐらいから現代史研究に関心を持っていた人には忘れがたいだろう。米国側史料を使った実証的研究を始めたと言っていいが、50代で失明して新史料発掘に取り組めなくなった。米国のマイクロフィルムを見続けたためではないかと言われていたと思う。失明後、身体障害者補助犬法改正にも尽力したと出ていた。元巨人のエース、沢村賞を二度受賞した高橋一三(7.14没、69歳)の名前も、忘れられない名前。83年まで現役だったのか。
外国では、「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」のオマー・シャリフ(7.10没、83歳)、「ローズ・ガーデン」が大ヒットしたアメリカの女性カントリー歌手、リン・アンダーソン(7.30没、67歳)の訃報が目についた。中国の元全人代委員長の万里(7.15没、99歳)も長命だった。天安門事件時の全人代委員長だったが、鎮圧時にはカナダ訪問中だった。文革で二度失脚し、76年に復活し、「改革派」と言われていたが。
(オマー・シャリフ)

鶴見俊輔氏の訃報はその時に書いたけれど、長命だったことで「思想の科学」創刊メンバーはみな亡くなっていた。だから追悼文は年齢の離れた人が書くことになる。一方、物理学者の南部陽一郎(7.5没、94歳)は、長命だったことで、2008年にノーベル賞を受賞できる機会が巡ってきた。ノーベル賞級の業績をたくさん挙げた日本出身の学者がアメリカに行ってるんだという話は、物理学に縁の遠い僕も知っていた。だけど、ノーベル賞は「ナンブ」を通り過ぎてしまいかけていた。この人は、1942年という戦争真っ盛りの時期に、29歳で大阪市立大学教授になった。東京生まれだが、湯川秀樹が大阪帝大にいたのである。湯川は1934年に中間子論を発表し、1943年に文化勲章を受けている。アメリカに「頭脳流出」する前に、東京から大阪に行っていたのである。ノーベル賞受賞後に大阪市立大と大阪大の特別栄誉教授を務め、亡くなったのも大坂だった。

写真家の大竹省二(7.2没、92歳)は女性写真の名手として、かつては非常に有名な人だった。長命ゆえに、ちょっと忘れられたかもしれない。経済学の青木昌彦(7.15没、77歳)は、60年安保当時は、全学連の理論派だったが、その後近代経済学に転身して、世界的に重要な業績を挙げた。そのことは知っていたけど、中味は判らない。建築評論家の川添登(7.9没)は今和次郎とともに生活学などを提唱していたので、昔少し読んだ。黒川紀章らとともに結成した集団が「メタボリズム」だったという命名には時代を感じる。「有機的に代謝する都市」という意味である。女性運動家で元参議院議員の紀平悌子(きひら・ていこ、7.19没、87歳)は市川房枝の秘書を長く務め、日本婦人有権者同盟を支えてきた人。市川房枝が生きている間は、どうしてもその陰という感じがした。その後、89年の与野党逆転した参院選、リクルートや消費税のあの参院選で当選して1期務めた。ビックリしたのは、佐々淳行が実弟だったということで、訃報で初めて知った。
元社会党委員長の田辺誠(7.2没、93歳)、ジャズピアニストの菊地雅章(きくち・まさぶみ、7.7没、75歳)、被差別民などの研究者、沖浦和光(おきうら・かずてる、7.8没、88歳)、ジャズ評論家の相倉久人(7.8没、83歳)、落語家の入船亭船橋(7.10没、84歳)など、そういえばそういう人がいたなあ、読んだり聞いたりしたなあという名前。映画監督沖島勲(7.2没、74歳)は、「日本昔ばなし」ばかり書いてあるが、若松プロで「ニュー・ジャック&ベティ」という伝説的なピンク映画を作った人である。ちょうどラピュタ阿佐ヶ谷のレイトで特集をしていたが、見てない。国際問題研究家という肩書で載っていた北沢洋子(7.3没、82歳)は、PARC(アジア太平洋資料センター)を設立し、アフリカ問題等でよく発言していた。昔はよく名前を聞いた人だった。昔の名前と言えば、占領史研究の先駆者、竹前栄治(7.14没、84歳)という名前は、80年代ぐらいから現代史研究に関心を持っていた人には忘れがたいだろう。米国側史料を使った実証的研究を始めたと言っていいが、50代で失明して新史料発掘に取り組めなくなった。米国のマイクロフィルムを見続けたためではないかと言われていたと思う。失明後、身体障害者補助犬法改正にも尽力したと出ていた。元巨人のエース、沢村賞を二度受賞した高橋一三(7.14没、69歳)の名前も、忘れられない名前。83年まで現役だったのか。
外国では、「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」のオマー・シャリフ(7.10没、83歳)、「ローズ・ガーデン」が大ヒットしたアメリカの女性カントリー歌手、リン・アンダーソン(7.30没、67歳)の訃報が目についた。中国の元全人代委員長の万里(7.15没、99歳)も長命だった。天安門事件時の全人代委員長だったが、鎮圧時にはカナダ訪問中だった。文革で二度失脚し、76年に復活し、「改革派」と言われていたが。
