前回書いた記事に書き残しがあるような気がして、もう一回書くことにする。「戦後世代に戦争責任はあるのか」という問題意識はいつからあるのだろうかという問題である。自分は戦後10年経ってから生まれているのだが、自分の若い頃にはそういう問題意識はなかったように思う。生まれてないんだから、当然責任があるわけがない。一方、1960年頃に生まれた世代までは、一番身近なオトナである親や教師は、戦争世代だったのである。だから、「どうして、その当時に戦争に反対しなかったのか」と親を問い詰めたわけである。そういう親や教師がしたり顔して若い世代に説経するのがガマンできなかったわけである。自分たちは戦争を防げなかったくせに、髪を長く伸ばすのはみっともないとか、ビートルズはうるさいから聞くなとか言ってくるのはおかしいじゃないか…。
朝日歌壇に最近選ばれた歌がある。
戦争になぜ反対しなかったそう賢(さか)しげに我ら言ったはず 春原正彦
この作者もそういう世代の人だろう。そして、今まさに安保法案に反対運動をしなければ、自分たちの世代も次世代から批判されるだろうという含意が当然ある。
こういう意識は単に日本だけでなく、世界の各地で見られたものである。ドイツの若者も、親に向って「ナチスの時代にどうして抵抗しなかったのか」と問い詰めた。アメリカでは第二次世界大戦については正戦意識が高いが、60年代末期にベトナム反戦運動と公民権運動が高まった時には、親の世代に対して「人種差別をなくすために闘って来たのか」と問いを発したのである。こういう言い方は、自分もオトナになって見れば、やはり幾分か一方的なものだったなあと振り返るのだが、今思うと「上の世代を批判できる自由」があったのはいいことだったのだと思う。中国で「文化大革命の時にはどうしていたのか」とか「天安門事件のときは何を考えていたか」と公然と問うことはできないだろう。
その当時は、国民の多くは、戦争の時に誰が威張っていたか、一方誰がひどい目にあったのかを記憶していた。「天皇に責任はあるのか」など、触れられない問題はいろいろあったけれど、国民を戦争に巻き込んだ軍部は許せないという感覚はみなが共有していた。軍部と軍に迎合した人々が、戦時中に権勢を誇り物資も独占していたことは誰でも知っていた。「戦争責任」は主にそういう勢力にあり、戦後になっても反省せずに政界に勢力を持っている人々(例えば、岸信介)に責任があると大体の人が思っていたわけである。
しかし、そういう考え方は、80年代頃には有効性を失ってきた。僕が教員になったのも80年代初めだが、当然のことながら、生徒からすれば僕に戦争責任があるだろうと追及することはできない。親だって、もう戦争を知らない世代なのである。と同時に、この頃から日本人が外国旅行に出かけることが普通になってきた。70年代前半頃までは、中国には自由に行けないし、アメリカやヨーロッパ、あるいは韓国や東南アジアにも、一生に一度行けたらいいねという「夢の海外旅行」だった。(60年代末には海外旅行が自由になり、世界放浪を始める若者も出始めていたが、一般客の旅行には高根の花だった。)それが海外に自由に出かける時代になると、特に身近な近隣アジア諸国を訪れる場合、「歴史認識」も必要になってきたのである。
80年代半ばになると、日本経済は「バブル」になりますます海外に気軽に出かけるようになる。中国も経済開放が始まり、韓国やフィリピンでは民衆革命が起こって政治的な自由がもたらされた。そのため、アジア諸国の戦争被害者が日本の裁判所に直接訴えを起こすことも可能になった。こうして、政府間では「決着済み」とされたようなたくさんの問題が一斉に吹き出てきた。ちょうど戦争40年の1985年に、ドイツではワイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という演説が行われた。一方、同年に日本では中曽根首相による首相として戦後初の「靖国神社公式参拝」が行われた。この日独の戦争に向き合う差は何なのだろうという問題意識も生まれたのである。そこに「戦後責任」という言葉が生まれた理由がある。日本が果たすべき戦争処理を果たしていないことに対する責任である。
このように「アジアの民衆といかに向き合うか」というテーマが大きな問題となった時に、日本国内の考え方が分裂してきたのだと思う。「軍部がいかに威張っていたか」といった直接的な恨みつらみを知らない世代が多くなって、「日本だけが悪いのか」「日本はいつまで謝らなければいけないのか」などと言いだす人が出てきた。「日本の戦争は正しい戦争だった」と言う人はそれまでもいた。60年代半ばの林房雄「大東亜戦争肯定論」の頃から、日本の高度経済成長とともに「自信を取り戻した」右派勢力の声が高くなってきた。だけど、それまでは国内論壇だけの争いだったようなものだが、80年代、90年代になると、一方でアジアの民衆との「国際的市民連帯」が可能になり、その反面として「反中」「反韓」意識も生まれてきたように思うのである。
「日本はいつまで謝らないといけないのか」という問題設定そのものが、90年代以降の日本やアジアの民衆運動、その国際的連帯に対する敵対心から生まれている。だから、当然のこととして、そういう発想をする人々は他の諸課題でも「民衆運動の突きつける問題」を冷笑する。原発問題にせよ、沖縄の基地問題にせよ、その他さまざま同じ。また、そういう人々がつくる社会科教科書には、国家意識を高めることはいっぱい書くが、国民の人権や平和に関してはおざなりにしか書かない。「いつまで謝らないといけないのか」は、逆に言えば、「いつまで安倍政権のような考え方をする政権が日本で生まれるのか」ということである。戦争責任否定発言を閣僚が行うような国でなくなれば、国家間の問題として「歴史認識」問題が出てくることも自然となくなるはずだ。安倍談話に出てくるような問題を、それだけでいいとか悪いとか論じる前に、どういう歴史的な背景から発していて、どういう意味での問題設定なのかと理解する必要があると思って、追加で書いた。
朝日歌壇に最近選ばれた歌がある。
戦争になぜ反対しなかったそう賢(さか)しげに我ら言ったはず 春原正彦
この作者もそういう世代の人だろう。そして、今まさに安保法案に反対運動をしなければ、自分たちの世代も次世代から批判されるだろうという含意が当然ある。
こういう意識は単に日本だけでなく、世界の各地で見られたものである。ドイツの若者も、親に向って「ナチスの時代にどうして抵抗しなかったのか」と問い詰めた。アメリカでは第二次世界大戦については正戦意識が高いが、60年代末期にベトナム反戦運動と公民権運動が高まった時には、親の世代に対して「人種差別をなくすために闘って来たのか」と問いを発したのである。こういう言い方は、自分もオトナになって見れば、やはり幾分か一方的なものだったなあと振り返るのだが、今思うと「上の世代を批判できる自由」があったのはいいことだったのだと思う。中国で「文化大革命の時にはどうしていたのか」とか「天安門事件のときは何を考えていたか」と公然と問うことはできないだろう。
その当時は、国民の多くは、戦争の時に誰が威張っていたか、一方誰がひどい目にあったのかを記憶していた。「天皇に責任はあるのか」など、触れられない問題はいろいろあったけれど、国民を戦争に巻き込んだ軍部は許せないという感覚はみなが共有していた。軍部と軍に迎合した人々が、戦時中に権勢を誇り物資も独占していたことは誰でも知っていた。「戦争責任」は主にそういう勢力にあり、戦後になっても反省せずに政界に勢力を持っている人々(例えば、岸信介)に責任があると大体の人が思っていたわけである。
しかし、そういう考え方は、80年代頃には有効性を失ってきた。僕が教員になったのも80年代初めだが、当然のことながら、生徒からすれば僕に戦争責任があるだろうと追及することはできない。親だって、もう戦争を知らない世代なのである。と同時に、この頃から日本人が外国旅行に出かけることが普通になってきた。70年代前半頃までは、中国には自由に行けないし、アメリカやヨーロッパ、あるいは韓国や東南アジアにも、一生に一度行けたらいいねという「夢の海外旅行」だった。(60年代末には海外旅行が自由になり、世界放浪を始める若者も出始めていたが、一般客の旅行には高根の花だった。)それが海外に自由に出かける時代になると、特に身近な近隣アジア諸国を訪れる場合、「歴史認識」も必要になってきたのである。
80年代半ばになると、日本経済は「バブル」になりますます海外に気軽に出かけるようになる。中国も経済開放が始まり、韓国やフィリピンでは民衆革命が起こって政治的な自由がもたらされた。そのため、アジア諸国の戦争被害者が日本の裁判所に直接訴えを起こすことも可能になった。こうして、政府間では「決着済み」とされたようなたくさんの問題が一斉に吹き出てきた。ちょうど戦争40年の1985年に、ドイツではワイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という演説が行われた。一方、同年に日本では中曽根首相による首相として戦後初の「靖国神社公式参拝」が行われた。この日独の戦争に向き合う差は何なのだろうという問題意識も生まれたのである。そこに「戦後責任」という言葉が生まれた理由がある。日本が果たすべき戦争処理を果たしていないことに対する責任である。
このように「アジアの民衆といかに向き合うか」というテーマが大きな問題となった時に、日本国内の考え方が分裂してきたのだと思う。「軍部がいかに威張っていたか」といった直接的な恨みつらみを知らない世代が多くなって、「日本だけが悪いのか」「日本はいつまで謝らなければいけないのか」などと言いだす人が出てきた。「日本の戦争は正しい戦争だった」と言う人はそれまでもいた。60年代半ばの林房雄「大東亜戦争肯定論」の頃から、日本の高度経済成長とともに「自信を取り戻した」右派勢力の声が高くなってきた。だけど、それまでは国内論壇だけの争いだったようなものだが、80年代、90年代になると、一方でアジアの民衆との「国際的市民連帯」が可能になり、その反面として「反中」「反韓」意識も生まれてきたように思うのである。
「日本はいつまで謝らないといけないのか」という問題設定そのものが、90年代以降の日本やアジアの民衆運動、その国際的連帯に対する敵対心から生まれている。だから、当然のこととして、そういう発想をする人々は他の諸課題でも「民衆運動の突きつける問題」を冷笑する。原発問題にせよ、沖縄の基地問題にせよ、その他さまざま同じ。また、そういう人々がつくる社会科教科書には、国家意識を高めることはいっぱい書くが、国民の人権や平和に関してはおざなりにしか書かない。「いつまで謝らないといけないのか」は、逆に言えば、「いつまで安倍政権のような考え方をする政権が日本で生まれるのか」ということである。戦争責任否定発言を閣僚が行うような国でなくなれば、国家間の問題として「歴史認識」問題が出てくることも自然となくなるはずだ。安倍談話に出てくるような問題を、それだけでいいとか悪いとか論じる前に、どういう歴史的な背景から発していて、どういう意味での問題設定なのかと理解する必要があると思って、追加で書いた。