映画「日本のいちばん長い日」がリメイクされて、公開中。戦後70年でもあるが、松竹の120年周記念でもあるという。原田眞人監督。前回は岡本喜八監督の1967年作品で、この時は東宝の35周年記念だった。旧作をキネカ大森で見直して、記憶していた以上に面白かったので、新作も見て比べてみようかと思った次第。原作は前回は大宅荘一とされていたが、その後半藤一利が実質的な著者だったことから、半藤著として刊行されている。僕は読んでいない。
両者を比べると、まず旧作は白黒で新作はカラーという違いがある。内容的には、旧作はまさに「日本のいちばん長い日」として、1945年8月14日の正午から一日間を描いている。そのことから生じる凝縮された緊迫感は素晴らしい。一方、新作は4月の鈴木貫太郎内閣の組閣から描いている。その意味では、題名とは違っている。現在では、説明的なシーンも必要だし、時間の幅を広く取って語るのもアイディアではある。ただ、上映時間が限られている以上、それまでの描写に時間を割けば、当然のことながら肝心の一日が短くなる。初めて描かれる前半は、何が描かれるのかと言う興味があるが、最後の頃が薄くなっては本末転倒ではないか。その意味で、映画は旧作の方がずっと面白いと思う。(旧作は157分、新作は136分と上映時間もだいぶ違う。)
また旧作では昭和天皇を正面から描かない。天皇がいないと御前会議にならないから、出席して「聖断」を下すが、誰かの影のような位置から描いている。俳優は松本幸四郎(8代目)で、当代の9代目幸四郎、中村吉右衛門の父にあたる。一方、新作は本木雅弘が正面から演じている。旧作当時はまだ昭和天皇が生きていたわけだが、天皇じゃなくても存命の人物は描きにくい。それが天皇というんだから、ますます「遠慮」が出てくるということだろう。だけど、日本の天皇という存在は、もともとそういう存在、つまり何だか霧に包まれていて尊い、といった部分がある。おぼめかして演出するから、かえって「聖断の重大性」が際立つ感じもする。もはや昭和天皇も歴史上の人物ということで、史料もいろいろと出てきているし、正面から描かれるわけだろうが、その分「神聖さ」も薄れてくる。
旧作は女優がほぼ出てこない。鈴木首相邸の女中役として新珠三千代が出ているだけである。新作は女官を始め、皇后も一応出ているし、鈴木首相や阿南陸相の家族やNHKの職員にも女性がいる。いるのは当たり前だから、旧作はあえて男だけのドラマにしぼっていた。御前会議や閣議、あるいは陸軍の反乱が主要な舞台なんだから、女性は主筋には関係してこない。今さら首相や陸相の人間性など大して重要でもないのだから、いっそ男だけで描いて行くという旧作は、そのキャスト自体が批評性を持っている。しかし、大臣にも家族がいるわけで、それを示すのも一つの考えではある。
今回旧作を見直して特に印象的だったのは、キャストの素晴らしさだった。何しろ、鈴木貫太郎首相は笠智衆、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相は三船敏郎なのである。いつ見たのかは覚えていないが、学生時代に名画座で見たんだろうと思う。その当時は、三船は偉そうな感じの役者になっていて、笠智衆は帝釈天の御前様として毎年のように見ていた。同時代の役者だったから、あまり貴重な共演だという感じは持たなかったのである。他にも、東郷外相が宮口精二、米内海相が山村聰、下村情報局総裁が志村喬、迫水内閣秘書官長が加藤武、木戸内大臣が中村伸郎…というキャストだから、もう閣議や最高戦争指導会議も見応えたっぷりなのである。他にも近衛師団の森師団長が島田省吾、徳川侍従が小林桂樹、NHKの局長に加東大介である。「七人の侍」の中で、志村、宮口、加東、三船と4人もいる。北竜二も侍従武官長で出ているから、笠、山村、中村、北と小津映画を見ているようでもある。そういう過去の映画的記憶が大切になってくるほど、この旧作が貴重になるように思う。今挙げた、これらの名優はみな鬼籍に入っている。存命なのは、畑中少佐の黒沢年男とNHKの放送員の加山雄三ぐらいではなかろうか。後は、ナレーションをしている仲代達矢もいるが。
他にも名優がたくさん出ているので、名前だけ挙げておくと、伊藤雄之助、石山健二郎、藤田進、小杉義男、北村和夫、戸浦六宏、神山繁、高橋悦史、中丸忠雄、佐藤允、井川比佐志、田崎潤、二本柳寛、小泉博、三井弘次…といった具合である。それほど登場人物が多いのである。当時の映画俳優のほとんどは、まだ会社に所属していたわけだから、社を挙げた企画には東宝の男優が勢ぞろいするし、他社や新劇などからもいっぱい呼んでいる。さて、そんな中で、やはり出ているのが、岡本映画で怪演する常連の天本英世。演じるのは、東京防衛軍の指揮官として鶴見にいた佐々木武雄という人物である。僕もよく知らないんだけど、畑中少佐とつながりがある右翼的軍人で、もともと警戒されて閑職に飛ばされていた。専門学校生などを募って、官邸や鈴木首相邸を襲撃した。軍人というより民間右翼によるテロに近い。戦後も逃亡を続け、生き延びた。大山量士なる偽名で「亜細亜友之会」という組織を作って、1986年まで活躍したそうである。新作にも少し出てきて、松山ケンイチが演じているが、ほとんど重要な役ではない。旧作では、天本の怪演もあって、非常に印象的なエピソードになっている。
こういう「史実再現ドラマ」は、結末が決められているから、どうも面白みが足りなくなりやすい。話題もそっくりさんぶりに集中したり、史実そのものの評価を論じることが先行しやすい。僕も今までは「戦争終結に至る過程」という制約から、ドラマの面白さを考えなかった。今回、旧作を見て、そのキャストの豪華さに目を見張って、今では「演技合戦」として見られるなと思い返したわけである。新作はその意味でキャストの面白みが少ない。役所広治の阿南陸相は悪くはないけど、三船の殺気がないのはどうしようもないだろう。こんないい人が陸軍トップにいるわけない。少壮軍人の決起も、旧作の方がみな現実性が感じられる。同時代を生きて知っているんだから、当然「一億玉砕」などの雰囲気を知っているだろう。今では、若い役者がいくら一生懸命演じても、どうやってもあの「狂気」には遠い。
事実評価の面として、そもそもこの少壮軍人のクーデタ計画が判らない。「玉音盤」を一生懸命探し回るけど、録音盤なんか破棄しても仕方ない。「聖断」を下した本人の天皇が直接ナマで放送すればいいだけである。それより放送局を破壊してしまえば放送そのものができない。しかし、ポツダム宣言受諾を決めた天皇がいる以上、どうしようもないではないか。張学良が蒋介石を幽閉した西安事件のように、昭和天皇を幽閉して退位を迫るぐらいをしなければどうしようもないだろう。一体、天皇が決断してしまい、交戦相手にも通告した出来事をどうひっくりかえせると思うのだろうか。
だから、このドラマは所詮「コップの中の嵐」でしかない。それに、もしクーデタが成功でもすれば、本土決戦になり、多くの日本兵、民間人が亡くなり、米兵のぼう大な犠牲も出た。よって、米国世論は天皇制にさらに厳しくなり、天皇制護持という軍部の目的はより難しくなるのは明白。エネルギーも食料も不足しているのに、精神だけで2千万人が特攻すれば勝てるという。「カルト宗教」としか思えない。そんな輩が軍を率いていたのも驚きだが、その軍部を抑えるのに「天皇の聖断」しかなかったという、この屈辱。僕がこの時代を顧みて思うのは、天皇が決断するしか戦争を止めさせられなかったという日本人の歴史に対する言いようのない民族的屈辱感のようなものである。何という情けない国だったことか。憲法もあり、国会もあったというのに。
両者を比べると、まず旧作は白黒で新作はカラーという違いがある。内容的には、旧作はまさに「日本のいちばん長い日」として、1945年8月14日の正午から一日間を描いている。そのことから生じる凝縮された緊迫感は素晴らしい。一方、新作は4月の鈴木貫太郎内閣の組閣から描いている。その意味では、題名とは違っている。現在では、説明的なシーンも必要だし、時間の幅を広く取って語るのもアイディアではある。ただ、上映時間が限られている以上、それまでの描写に時間を割けば、当然のことながら肝心の一日が短くなる。初めて描かれる前半は、何が描かれるのかと言う興味があるが、最後の頃が薄くなっては本末転倒ではないか。その意味で、映画は旧作の方がずっと面白いと思う。(旧作は157分、新作は136分と上映時間もだいぶ違う。)
また旧作では昭和天皇を正面から描かない。天皇がいないと御前会議にならないから、出席して「聖断」を下すが、誰かの影のような位置から描いている。俳優は松本幸四郎(8代目)で、当代の9代目幸四郎、中村吉右衛門の父にあたる。一方、新作は本木雅弘が正面から演じている。旧作当時はまだ昭和天皇が生きていたわけだが、天皇じゃなくても存命の人物は描きにくい。それが天皇というんだから、ますます「遠慮」が出てくるということだろう。だけど、日本の天皇という存在は、もともとそういう存在、つまり何だか霧に包まれていて尊い、といった部分がある。おぼめかして演出するから、かえって「聖断の重大性」が際立つ感じもする。もはや昭和天皇も歴史上の人物ということで、史料もいろいろと出てきているし、正面から描かれるわけだろうが、その分「神聖さ」も薄れてくる。
旧作は女優がほぼ出てこない。鈴木首相邸の女中役として新珠三千代が出ているだけである。新作は女官を始め、皇后も一応出ているし、鈴木首相や阿南陸相の家族やNHKの職員にも女性がいる。いるのは当たり前だから、旧作はあえて男だけのドラマにしぼっていた。御前会議や閣議、あるいは陸軍の反乱が主要な舞台なんだから、女性は主筋には関係してこない。今さら首相や陸相の人間性など大して重要でもないのだから、いっそ男だけで描いて行くという旧作は、そのキャスト自体が批評性を持っている。しかし、大臣にも家族がいるわけで、それを示すのも一つの考えではある。
今回旧作を見直して特に印象的だったのは、キャストの素晴らしさだった。何しろ、鈴木貫太郎首相は笠智衆、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相は三船敏郎なのである。いつ見たのかは覚えていないが、学生時代に名画座で見たんだろうと思う。その当時は、三船は偉そうな感じの役者になっていて、笠智衆は帝釈天の御前様として毎年のように見ていた。同時代の役者だったから、あまり貴重な共演だという感じは持たなかったのである。他にも、東郷外相が宮口精二、米内海相が山村聰、下村情報局総裁が志村喬、迫水内閣秘書官長が加藤武、木戸内大臣が中村伸郎…というキャストだから、もう閣議や最高戦争指導会議も見応えたっぷりなのである。他にも近衛師団の森師団長が島田省吾、徳川侍従が小林桂樹、NHKの局長に加東大介である。「七人の侍」の中で、志村、宮口、加東、三船と4人もいる。北竜二も侍従武官長で出ているから、笠、山村、中村、北と小津映画を見ているようでもある。そういう過去の映画的記憶が大切になってくるほど、この旧作が貴重になるように思う。今挙げた、これらの名優はみな鬼籍に入っている。存命なのは、畑中少佐の黒沢年男とNHKの放送員の加山雄三ぐらいではなかろうか。後は、ナレーションをしている仲代達矢もいるが。
他にも名優がたくさん出ているので、名前だけ挙げておくと、伊藤雄之助、石山健二郎、藤田進、小杉義男、北村和夫、戸浦六宏、神山繁、高橋悦史、中丸忠雄、佐藤允、井川比佐志、田崎潤、二本柳寛、小泉博、三井弘次…といった具合である。それほど登場人物が多いのである。当時の映画俳優のほとんどは、まだ会社に所属していたわけだから、社を挙げた企画には東宝の男優が勢ぞろいするし、他社や新劇などからもいっぱい呼んでいる。さて、そんな中で、やはり出ているのが、岡本映画で怪演する常連の天本英世。演じるのは、東京防衛軍の指揮官として鶴見にいた佐々木武雄という人物である。僕もよく知らないんだけど、畑中少佐とつながりがある右翼的軍人で、もともと警戒されて閑職に飛ばされていた。専門学校生などを募って、官邸や鈴木首相邸を襲撃した。軍人というより民間右翼によるテロに近い。戦後も逃亡を続け、生き延びた。大山量士なる偽名で「亜細亜友之会」という組織を作って、1986年まで活躍したそうである。新作にも少し出てきて、松山ケンイチが演じているが、ほとんど重要な役ではない。旧作では、天本の怪演もあって、非常に印象的なエピソードになっている。
こういう「史実再現ドラマ」は、結末が決められているから、どうも面白みが足りなくなりやすい。話題もそっくりさんぶりに集中したり、史実そのものの評価を論じることが先行しやすい。僕も今までは「戦争終結に至る過程」という制約から、ドラマの面白さを考えなかった。今回、旧作を見て、そのキャストの豪華さに目を見張って、今では「演技合戦」として見られるなと思い返したわけである。新作はその意味でキャストの面白みが少ない。役所広治の阿南陸相は悪くはないけど、三船の殺気がないのはどうしようもないだろう。こんないい人が陸軍トップにいるわけない。少壮軍人の決起も、旧作の方がみな現実性が感じられる。同時代を生きて知っているんだから、当然「一億玉砕」などの雰囲気を知っているだろう。今では、若い役者がいくら一生懸命演じても、どうやってもあの「狂気」には遠い。
事実評価の面として、そもそもこの少壮軍人のクーデタ計画が判らない。「玉音盤」を一生懸命探し回るけど、録音盤なんか破棄しても仕方ない。「聖断」を下した本人の天皇が直接ナマで放送すればいいだけである。それより放送局を破壊してしまえば放送そのものができない。しかし、ポツダム宣言受諾を決めた天皇がいる以上、どうしようもないではないか。張学良が蒋介石を幽閉した西安事件のように、昭和天皇を幽閉して退位を迫るぐらいをしなければどうしようもないだろう。一体、天皇が決断してしまい、交戦相手にも通告した出来事をどうひっくりかえせると思うのだろうか。
だから、このドラマは所詮「コップの中の嵐」でしかない。それに、もしクーデタが成功でもすれば、本土決戦になり、多くの日本兵、民間人が亡くなり、米兵のぼう大な犠牲も出た。よって、米国世論は天皇制にさらに厳しくなり、天皇制護持という軍部の目的はより難しくなるのは明白。エネルギーも食料も不足しているのに、精神だけで2千万人が特攻すれば勝てるという。「カルト宗教」としか思えない。そんな輩が軍を率いていたのも驚きだが、その軍部を抑えるのに「天皇の聖断」しかなかったという、この屈辱。僕がこの時代を顧みて思うのは、天皇が決断するしか戦争を止めさせられなかったという日本人の歴史に対する言いようのない民族的屈辱感のようなものである。何という情けない国だったことか。憲法もあり、国会もあったというのに。