尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「死闘の伝説」と「夜の女たち」

2015年08月23日 23時13分24秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今日見た古い日本映画2本のことを書いておきたい。一本目はフィルムセンターで見た木下恵介監督の「死闘の伝説」(1963)。名匠・木下恵介は作品数が多いので、ほとんど忘れられている作品がかなりある。それらの多くは軽いコメディやうまくいかなかった社会派映画なんだけど、この「死闘の伝説」はぶっちぎりの怪作だと思う。あまり上映の機会がなく、初めて見た。菅原文太が重要な役どころで出ていて、松竹時代にあまり恵まれなかった中で貴重な作品。菅原文太の追悼上映である。

 昭和20年、終戦間近の北海道の奥地。どこだか判らないけど、相当の山奥という設定である。そこに病気で軍を除隊になった園部秀行(加藤剛)が帰ってくる。家族がここに疎開していたのである。そこには田中絹代の母や岩下志麻の妹の他、祖母、弟、妹が暮らしている。岩下志麻には地域の有力者、鷹森家の息子(菅原文太)から縁談が持ち込まれている。あまり気が乗らないが、有力一族だけに苦慮している。ところが、迎えに出た鷹森を見て、秀行は思い出すのであった。彼は天津戦線で上官だった人物で、率先して中国女性を襲っていたということを。

 この話を聞いて、岩下志麻は縁談を断る決心がつき、世話になっている清水(加藤嘉)を通じて鷹森家に伝える。その後、馬に乗った鷹森が園部家の畑を荒らしまわり、そこから村がおかしくなっていく。8月13日、岩下志麻が山道を歩いているときに、馬に乗った菅原文太と行き交い、文太は馬で追いまわす。馬から引きずり落とすと、激高して襲ってくる。そこに清水の娘、百合(加賀まりこ=加藤剛に好意を抱いている)が助けに掛けつけ、加賀まりこが文太を石で打つと、動かなくなってしまう。
(「死闘の伝説」)
 この事情を見ると、鷹森による強姦未遂事件に対する正当防衛または過剰防衛というケースなんだけど、有力一族の息子を疎開ものが殺したということで、村人は扇動されて銃を持って山狩りを始める。その時には、再疎開先を求めて、加藤剛は仙台に行っていて不在。知らずに町へ出た弟は襲われて死亡。逃げるのは岩下志麻、田中絹代など園部家の女4人に清水家の2人。銃はあるが男は加藤嘉だけ。こうして村を二つに割る壮絶な死闘が始まった。という展開で、たくさん死者が出る。

 北海道を舞台にして、日本離れした設定のアクション、あるいは大ロマンを繰り広げる映画はたくさんあるが、「死闘の伝説」は中でもぶっ飛んでいる。どう考えても「中国での日本軍の残虐行為の批判」である。文太の行動は、中国戦線の行動を繰り返しているし、園部家には火を付けて燃やしてしまう。まるで「三光作戦」である。祖母(毛利菊枝)が「こんなことをして恥ずかしくないのか。こんなことでは日本は負ける」と批判すると、村人は銃撃して殺してしまう。祖母はまるで「日本帝国主義打倒」と叫んで殺された中国農民ではないか。あまりにも凄絶な犠牲を出した「死闘」は、戦後になるとタブーになり、今では大昔の「伝説」とされる。事件当時はモノクロで、冒頭とラストだけカラーで現在。映画の出来は悪くないのだが、木下映画としては異色すぎて評価にとまどう「怪作」。63年は岩下志麻と加賀まりこがもっともチャーミングだった時代だった。

 フィルムセンターの2回目は「仁義なき戦い」で、もう何度も見ているから神保町シアターへ行って溝口健二「夜の女たち」。本当はここで今井正「人生とんぼ返り」という作品も見たかったのだが、「死闘の伝説」とかぶる。今、神保町シアターは「1945、46年の映画」を特集している。なかなか貴重な映画が多いが、フィルムセンターから借りた映画は3回しか上映がなく、なかなか時間が合わない。それに敗戦直後だからと言って、面白いわけでもない。映画史的に貴重な「初接吻映画」である「はたちの青春」を今回初めて見たけど、まあ映画としてはつまらない。日本国憲法の結婚規定、「両性の合意のみ」が本来はどのような意義があったかを考える意味があるけど。
(「夜の女たち」)
 「夜の女たち」(1948)は前に見ているが、ほとんど忘れていた。東京の戦災ロケ映画は多いけど、これは大阪の映画。復興に向かいつつ戦災を残す大阪の街をロケする場面も多い。戦後の溝口復調の始まりと評価される映画だが、溝口特集で見ると今では少しきつい。戦争の犠牲と生活苦から、売春婦に「堕ちて」ゆく女たち。だけど、その真情をみると「男への復讐」があるのである。その戦争の犠牲のすさまじさに、改めて絶句する設定である。戦後直後には黒澤明や木下恵介がすぐに活躍し始めて、年長世代の溝口や小津が作った映画は失敗だったと言われる。概ねその通りだと思うが、時勢の急変の中で不得意な分野の映画を撮ると不本意な出来となる。それこそ巨匠であって、何でも小器用に撮れるようでは真の巨匠ではない。

 やはり溝口は虐げられた女たちを描くときに本領を発揮する。それを確認したような映画だが、主演の田中絹代は溝口の前作「女優須磨子の恋」では松井須磨子役だった。それより庶民の女が街娼になるという役の方がうまい。ところで、田中絹代や山田五十鈴のように高齢時代をリアルタイムで知っている人と違い、戦前に活躍した女優は名前を知っていても、細かい情報を知らないことが多い。田中絹代の妹役で、姉と男を張り合う高杉早苗(1918~1995)は、戦前の松竹で「隣の八重ちゃん」以来島津保次郎のメロドラマなどにたくさん出ていた。僕も何本か見ているが、その後のことを知らなかった。人気絶頂の1938年、歌舞伎俳優の市川段四郎(三代目)に見初められ結婚。長男がなんと、2代目市川猿之助(現・猿翁)で、次男が4代目段四郎。次男の子が今の4代目猿之助である。高杉早苗は、当代の猿之助と香川照之の祖母だった。
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新しい表現&家族・友人の歌-現代秀歌②

2015年08月23日 00時09分42秒 | 本 (日本文学)
 少しづつ書きたいことがたまってしまうんだけど、なんだかあまり書く気にならない日もある。安倍政権の話や戦争映画のことばかり書いてると、自分でも嫌になってしまうこともあるわけ。本は大岡昇平の本をこの際だからと読みなおしているので、これも戦争関係。そのうちまとめて書きたいと思うが、その前にそういう時には「現代秀歌」から歌を紹介するんだったと思い出した。7月3日に、「現代秀歌」から①-「恋・愛」と「青春」を書いたきり、次を書いてなかったではないか。

 まずは第三章の「新しい表現を求めて」から。名前は有名な塚本邦雄や岡井隆はここで選ばれている。一体どんな歌かと思うと…。

 革命歌作詞家に凭れかかられて少しづつ液化してゆくピアノ  
                                       塚本邦雄
 うーん、判らないけど、「何か」は感じるかも。他に紹介されている歌を見ると、
 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる
 いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛(まつげ)の曼珠沙華
 まあ、こっちも判ったような判らないような歌だけど。続いて岡井隆。

 父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を 
                                       岡井隆

 永田氏によれば「塚本邦雄が世界の暗部を反世界的に見ていたのと対照的に、もう一人の前衛の雄、岡井隆は「世界が見えぬ」と詠う」とある。なるほど。もう一首。60年安保の歌なんだというけど。
 海こえて悲しき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ

 円形の和紙の貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる 
                                       吉川宏志 
 1969年生まれの吉川宏志という歌人は初めて知ったが、他に紹介された歌が面白い。今の歌は金魚すくいの歌だが、ちょっと他の人が考えないようなところに着目するのが面白い。
 カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある
 茂吉像は眼鏡も青銅(ブロンズ)こめかみに溶接されて日溜まりのなか
 今月のカレンダーも隅っこが「23/30」「24/31」になっている。そこでデートする約束をしている人もいるかもしれないけど、分母とか分子とか思った人は多分いないだろう。後者は山形県上山にある斉藤茂吉記念館の銅像を歌ったという。僕もそこは訪れたことはあるけど、茂吉像の眼鏡なんか考えてもみなかった。最後になるほど新しいというか、こういう歌もあるのかという歌をいくつか。

 WWW(ウェッブ)のかなたぐんぐん朝は来て無量大数の脳が脳呼ぶ 
                                       坂井修一
 ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら 
                                       加藤治郎
 そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから 
                                       小島ゆかり

 次に第4章「家族・友人」から。親や夫婦を歌う歌が多く集められているが、どうも僕にはピンとこない歌が多い。まあ、とりあえず、こんな歌を。

 鷗外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき 
                                       小高賢
 夫より呼び捨てらるるは嫌ひなりまして〈おい〉とか〈おまへ〉とかなぞ 
                                       松平盟子
 説明の必要はないだろう。親を歌うものでは、小池光〈1947~〉という人の歌が心に残った。
 ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あはれ故郷の庭 
                                       小池光
 もう一つ挙げる。
 父十三回忌の膳に箸もちてわれはくふ蓮根及び蓮根の穴を
 この「蓮根の穴」という表現は、確かに法事の後に食べている感じを起こさせるではないか。

 最後に辺見じゅん(1939~2011)の歌を。辺見じゅんは大宅賞受賞のノンフィクション作家であるが、角川源義の娘で歌人でもあった。だから、次の歌にある「おとうと」は獄中の角川春樹である。

 一枝の櫻見せむと鉄格子へだてて逢ひしはおとうとなりき 
                                       辺見じゅん
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