26日、旅行へ行く日の朝、テレビではとんでもない事件の発生を伝えていた。神奈川県相模原市緑区の知的障害者施設で、元職員の男が襲撃する事件が発生し、19人の死者、26人の重軽傷者が出た。驚くべき事件だったけど、「これは一体何なんだろうか」と思うと同時に、「この事件を利用して、再び障害者どうしの差別を増幅させるような事態が起きてはいけない」と強く思う。
事件の中身について書く前に。
①この事件を何と呼ぶべきか、まだ定着した名前がない。ウィキペディアを見ると、「相模原障害者施設殺傷事件」として項目が立っている。一般的に呼ぶときには長すぎるので、いずれ「相模原事件」と呼ぶことになるかもしれない。犯人の名前や施設名をつけることは、最近では避けるようになっているので。ここでは「相模原の事件」と書いておく。
②だけど、どうも自分で納得できない部分があるのだが、「あそこも相模原なのか」と思ってしまう。もともと相模原は神奈川県中部の北にあり、東京都町田市に隣接する。2006年、2007年に西北部の相模湖周辺を合併し、人口70万(政令指定都市の条件)を満たした。2010年に神奈川県で横浜、川崎に次ぐ3つ目の政令指定都市となった。だけど、相模湖周辺ともなれば、僕にはどうも「相模原」というイメージから外れてしまうのだが。
③「障害」という言葉をどう書くか。「障碍」あるいは「障がい」と書くこともある。「害」という字のイメージが差別的だということである。だけど、今は法律に使われる言葉である「障害」を使うことにする。使い分けるのも面倒だし、法律に触れることにもなるので。
さて、今回の事件はあまりにも理不尽で、凄惨で、想像を絶するものだった。死者数だけを見るなら、帝銀事件(12人)や地下鉄サリン事件(13人)を超えている。1938年に岡山県で起きた「津山30人殺し」というのが記録されているが、戦後に限ると最悪の事件というしかない。世界では毎日のように大量の死者が出るテロ事件が報道されている。日本でも刃物等で無差別に殺傷する事件はかなり起きている。だけど、銃や爆弾を使わない限り、19人もの人を殺すという事件が日本で起きるとは考えられていなかったと思う。
こういう事件が起きると、世の中では「おかしなヤツが事件を犯した」とみなしやすい。今回も実行犯の元職員が、施設を退職後に「措置入院」していたと報道されると、「退院が早すぎたのではないか」という方向の議論が始まっている。あるいは、大麻、危険ドラッグ等の使用疑いも報道されている。だけど、常識的に考えて、薬物中毒で事件を起こすというのは妄想や高揚感からくるものである。無差別殺傷事件を起こしたなら薬物中毒もありえる。だけど、今回の事件の恐ろしいところは、「無差別殺傷事件」ではなかったということである。計画的な襲撃事件の原因が薬物だということは一般的には考えられない。
「措置入院」も同様である。措置入院というのは、精神保健福祉法によるもので精神障害により「自傷他害の恐れ」がある場合に都道府県知事の権限で強制的に入院させる制度である。確かに、統合失調症や気分障害(うつ病や双極性障害)などでは「自傷他害」が起きる場合もありうる。だけど、統合失調症の場合でも、周りから攻撃されているといった「妄想」から他害に至ることが多いだろう。この実行犯の場合、「そう病」(双極性障害)と診断されたらしいけれど、報道されている「友人の証言」によると「医者をだまして退院してきた」と言ってるらしい。
入院当時は「明らかに奇異な言動」が見られ、「危険な他害の恐れ」と周りが意識したのだろうが、事実はどうだったのか。今後、単なる刑事責任の有無にとどまらない、慎重で十分な検討をしていかないといけない。僕が思うに、「措置入院からの退院が早すぎた」のではなく、そもそも「措置入院」で対応するべき事案だったのだろうかという気もする。統合失調症や双極性障害ではなく、むしろパーソナリティ障害の可能性を感じないでもない。精神疾患による不安というよりも、偏った世界の見え方から異常な攻撃性を持つに至ったという感じも受けるのである。
ただし、施設に勤務している間に、健康保険証を3回もなくしているという報道がある。普通は一回も無くさないだろう。加齢等による認知症的な事例を除けば、3回も無くすという無秩序ぶりは理解が難しい。このあたりにも、まだ犯人を考えるための情報が不足していると思う。何かにより変わったのか。あるいは生得的なものがあったのか。成育歴も慎重に調べていかないといけない。事件は精神疾患によるのか、性格によるのか、あるいは偏った「思想」によるのか。「ヒトラーが降りてきた」と語ったらしいが、それは病的な妄想を示すものか、それとも「思想的目覚め」なのか。
こうしてみると、まだまだ分からないことだらけだが、これを簡単に分かったことにしてはならないと思う。「狂った人間の仕業」にしてしまえば、あとは「精神障害者対策の強化」につながってしまう。障害者差別事件が、障害者差別を増幅させてしまう。今までもそういうことはよく起こってきた。「おかしなヤツはずっと入院させておけば良かった」などということにしてはいけない。大体、旧ソ連じゃあるまいし、精神病院に「おかしな人間」を閉じ込めておけというような制度を作ってはいけない。
行政的には「三障害の一元化」が浸透してきた。2016年4月から施行されている「障害者差別解消法」(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)でも、身体、知的、精神(発達障害を含む)の3つの障害を同等に対象にしている。だけど、現実はそれぞれの障害はお互いに必ずしも理解しあっているわけではない。それは難病などの場合も同様。そのあたりが難しい。
今回は、報道されている実行者の「意図」をみると、むしろ計画的な「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)だと理解するべきではないか。2011年にノルウェーで起きたテロや最近ドイツで起きたイラン人青年による殺人、あるいはアメリカの同性愛者があつまるナイトクラブが銃撃された事件などに近い感じを受ける。「弱いもの」への執拗な攻撃性がどこから来たのか。そう考えると、確かに殺人を自ら起こすというのは極端に過ぎるけど、弱肉強食的な世界観、あるいは「自己の信念」に基づく大量殺人のニュース、それらが日々我々の頭の中に大量に流れ込んでくるという事実である。
「自分は今までは何物でもなかった。しかし、弱いものを抹殺するという「世界浄化」を実行することで、自分の使命が果たされるのだ」などと思い込む人が出てきても、驚くこともないのかもしれない。今までにも石原元都知事は「ああいう人に人格はあるのかね」と発言したし、麻生副首相は折々に「高齢者は金食い虫」的な人生観を語っている。日本においてこのような「ヘイトクライム」が起きても不思議ではないのではないか。
なお、葉真中顕「ロストケア」(光文社文庫)というミステリーがある。これは高齢者介護施設で大量連続殺人が起きているという話で、事件の様相は全然違うけど、テーマの問題性に共通点がある。もっと言えば「役立たず」あるいは「害をなすもの」を殺害しても許されるのかという問題で、ドストエフスキー「罪と罰」の主題である。ウッディ・アレンの最新コメディ「教授のおかしな妄想殺人」も似たような問題が出てくる。このような主題の文学は昔から多い。あるいは親鸞の言葉を記録した唯円の「歎異抄」。そのようなものに若いときにじっくり接する機会を作ることが大切なのではないか。そして「あらゆる人の生命を人為的に奪ってもいのか」という問いを立てれば、「死刑廃止論」をきちんと議論しないといけない。そのような思索と議論の場が教育の中にあるべきなんだろうと思う。
事件の中身について書く前に。
①この事件を何と呼ぶべきか、まだ定着した名前がない。ウィキペディアを見ると、「相模原障害者施設殺傷事件」として項目が立っている。一般的に呼ぶときには長すぎるので、いずれ「相模原事件」と呼ぶことになるかもしれない。犯人の名前や施設名をつけることは、最近では避けるようになっているので。ここでは「相模原の事件」と書いておく。
②だけど、どうも自分で納得できない部分があるのだが、「あそこも相模原なのか」と思ってしまう。もともと相模原は神奈川県中部の北にあり、東京都町田市に隣接する。2006年、2007年に西北部の相模湖周辺を合併し、人口70万(政令指定都市の条件)を満たした。2010年に神奈川県で横浜、川崎に次ぐ3つ目の政令指定都市となった。だけど、相模湖周辺ともなれば、僕にはどうも「相模原」というイメージから外れてしまうのだが。
③「障害」という言葉をどう書くか。「障碍」あるいは「障がい」と書くこともある。「害」という字のイメージが差別的だということである。だけど、今は法律に使われる言葉である「障害」を使うことにする。使い分けるのも面倒だし、法律に触れることにもなるので。
さて、今回の事件はあまりにも理不尽で、凄惨で、想像を絶するものだった。死者数だけを見るなら、帝銀事件(12人)や地下鉄サリン事件(13人)を超えている。1938年に岡山県で起きた「津山30人殺し」というのが記録されているが、戦後に限ると最悪の事件というしかない。世界では毎日のように大量の死者が出るテロ事件が報道されている。日本でも刃物等で無差別に殺傷する事件はかなり起きている。だけど、銃や爆弾を使わない限り、19人もの人を殺すという事件が日本で起きるとは考えられていなかったと思う。
こういう事件が起きると、世の中では「おかしなヤツが事件を犯した」とみなしやすい。今回も実行犯の元職員が、施設を退職後に「措置入院」していたと報道されると、「退院が早すぎたのではないか」という方向の議論が始まっている。あるいは、大麻、危険ドラッグ等の使用疑いも報道されている。だけど、常識的に考えて、薬物中毒で事件を起こすというのは妄想や高揚感からくるものである。無差別殺傷事件を起こしたなら薬物中毒もありえる。だけど、今回の事件の恐ろしいところは、「無差別殺傷事件」ではなかったということである。計画的な襲撃事件の原因が薬物だということは一般的には考えられない。
「措置入院」も同様である。措置入院というのは、精神保健福祉法によるもので精神障害により「自傷他害の恐れ」がある場合に都道府県知事の権限で強制的に入院させる制度である。確かに、統合失調症や気分障害(うつ病や双極性障害)などでは「自傷他害」が起きる場合もありうる。だけど、統合失調症の場合でも、周りから攻撃されているといった「妄想」から他害に至ることが多いだろう。この実行犯の場合、「そう病」(双極性障害)と診断されたらしいけれど、報道されている「友人の証言」によると「医者をだまして退院してきた」と言ってるらしい。
入院当時は「明らかに奇異な言動」が見られ、「危険な他害の恐れ」と周りが意識したのだろうが、事実はどうだったのか。今後、単なる刑事責任の有無にとどまらない、慎重で十分な検討をしていかないといけない。僕が思うに、「措置入院からの退院が早すぎた」のではなく、そもそも「措置入院」で対応するべき事案だったのだろうかという気もする。統合失調症や双極性障害ではなく、むしろパーソナリティ障害の可能性を感じないでもない。精神疾患による不安というよりも、偏った世界の見え方から異常な攻撃性を持つに至ったという感じも受けるのである。
ただし、施設に勤務している間に、健康保険証を3回もなくしているという報道がある。普通は一回も無くさないだろう。加齢等による認知症的な事例を除けば、3回も無くすという無秩序ぶりは理解が難しい。このあたりにも、まだ犯人を考えるための情報が不足していると思う。何かにより変わったのか。あるいは生得的なものがあったのか。成育歴も慎重に調べていかないといけない。事件は精神疾患によるのか、性格によるのか、あるいは偏った「思想」によるのか。「ヒトラーが降りてきた」と語ったらしいが、それは病的な妄想を示すものか、それとも「思想的目覚め」なのか。
こうしてみると、まだまだ分からないことだらけだが、これを簡単に分かったことにしてはならないと思う。「狂った人間の仕業」にしてしまえば、あとは「精神障害者対策の強化」につながってしまう。障害者差別事件が、障害者差別を増幅させてしまう。今までもそういうことはよく起こってきた。「おかしなヤツはずっと入院させておけば良かった」などということにしてはいけない。大体、旧ソ連じゃあるまいし、精神病院に「おかしな人間」を閉じ込めておけというような制度を作ってはいけない。
行政的には「三障害の一元化」が浸透してきた。2016年4月から施行されている「障害者差別解消法」(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)でも、身体、知的、精神(発達障害を含む)の3つの障害を同等に対象にしている。だけど、現実はそれぞれの障害はお互いに必ずしも理解しあっているわけではない。それは難病などの場合も同様。そのあたりが難しい。
今回は、報道されている実行者の「意図」をみると、むしろ計画的な「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)だと理解するべきではないか。2011年にノルウェーで起きたテロや最近ドイツで起きたイラン人青年による殺人、あるいはアメリカの同性愛者があつまるナイトクラブが銃撃された事件などに近い感じを受ける。「弱いもの」への執拗な攻撃性がどこから来たのか。そう考えると、確かに殺人を自ら起こすというのは極端に過ぎるけど、弱肉強食的な世界観、あるいは「自己の信念」に基づく大量殺人のニュース、それらが日々我々の頭の中に大量に流れ込んでくるという事実である。
「自分は今までは何物でもなかった。しかし、弱いものを抹殺するという「世界浄化」を実行することで、自分の使命が果たされるのだ」などと思い込む人が出てきても、驚くこともないのかもしれない。今までにも石原元都知事は「ああいう人に人格はあるのかね」と発言したし、麻生副首相は折々に「高齢者は金食い虫」的な人生観を語っている。日本においてこのような「ヘイトクライム」が起きても不思議ではないのではないか。
なお、葉真中顕「ロストケア」(光文社文庫)というミステリーがある。これは高齢者介護施設で大量連続殺人が起きているという話で、事件の様相は全然違うけど、テーマの問題性に共通点がある。もっと言えば「役立たず」あるいは「害をなすもの」を殺害しても許されるのかという問題で、ドストエフスキー「罪と罰」の主題である。ウッディ・アレンの最新コメディ「教授のおかしな妄想殺人」も似たような問題が出てくる。このような主題の文学は昔から多い。あるいは親鸞の言葉を記録した唯円の「歎異抄」。そのようなものに若いときにじっくり接する機会を作ることが大切なのではないか。そして「あらゆる人の生命を人為的に奪ってもいのか」という問いを立てれば、「死刑廃止論」をきちんと議論しないといけない。そのような思索と議論の場が教育の中にあるべきなんだろうと思う。