尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

キプロス、クルド、アルメニア-トルコ今昔③

2016年07月20日 22時58分55秒 |  〃  (国際問題)
 2回目のトルコ現代史が長すぎて、自分でも疲れた。オスマン帝国にさかのぼるのはまたにして、トルコを取り巻く周辺諸国との問題を取り上げておきたい。地理的に言えば、トルコ国土は大部分がアジアで、イスタンブールより西の地方が「ヨーロッパ」に属する。だけど、自分たちとしては、「ヨーロッパの一員」であることを目指してきた。サッカーなどスポーツでは欧州連盟に加盟し、今回のユーロカップにも出場している。日韓共催ワールドカップで、決勝トーナメント1回戦で日本を破り、最終的に3位になったことは多くの人が覚えているのではないか。あれはヨーロッパ代表だった。

 1987年にはEC(EUの前身)に加盟を申請している。長いことたなざらしにされたが、2005年から加盟交渉が始まった。それも事実上行き詰まり状態にある。トルコはイスラム教社会だから、トルコが加盟して大量のムスリムが流入することへの恐れが背景にはあるのは間違いない。だけど、タテマエ的には、トルコ国内の人権状況、あるいはトルコと周辺諸国との争いが続いていることがEU加盟の障害となっている。特に、EU加盟国のギリシャキプロスとの関係が好転しない限り進展しない。

 キプロス問題は、最近は事態がこう着状態にあるからほとんど報道されない。知らない人もいるかと思うから最初に。キプロスはトルコの南方、東地中海にある島国。世界で81番目の大きさの島で、四国の半分ぐらいである。イギリスの植民地だったけど、地中海の島のほとんどと同じく、住民はギリシャ人。しかし、オスマン帝国支配下でトルコ系住民が増え、おおよそギリシャ系8割トルコ系2割程度とされる。ギリシャ系はギリシャに、トルコ系はトルコに、それぞれ併合することを希望したが、結局1960年に島国として独立することになった。

 1974年に、当時のギリシャ軍事政権が関わって、ギリシャ系のクーデタが起こった。それに対抗して、トルコ軍が介入して、キプロス島北部だけでトルコ系住民による独立を宣言した。それが「北キプロス・トルコ共和国」で、40年以上たつが世界中でトルコ一国だけが承認している。つまり世界中が認めていない。結局ギリシャ系のクーデタは失敗に終わり、軍事政権も崩壊した。それ以来、ずっとキプロスの南北分断が続いている。この間、何度も連邦制導入による再統合交渉などが行われているが、いまだに決着の方向性が見えない。

 そもそも、トルコとギリシャは、歴史的に深い対立関係にある。オスマン帝国から19世紀初頭にギリシャが独立して以来、ギリシャ人は領土の拡大を求め続けた。ギリシャの首都は古代の都市国家アテネだというのは、今ではみんなそう思い込んでいるけど、ギリシャ人からすれば本当の首都はコンスタンティノープル(トルコ名イスタンブール)であるべきなのである。第一次大戦後、トルコ共和国建国時には200万とも言われるギリシャ人が「住民交換」でトルコから強制追放された。同じNATO加盟国なんだけど、歴史的な対立感情は根深い。

 次はクルド人問題を簡単に。クルド人は「国家を持たない世界最大の民族」と言われる。オスマン帝国支配下の時代には、中東一帯に国境はなく「クルド人問題」もなかった。帝国崩壊後に、クルド人が多く住む辺境山岳地帯は、トルコ、シリア、イラク、イランなどに分断され、それぞれの国の少数民族になってしまった。2500万~3000万の人口がいるとされ、ほとんどはイスラム教スンナ派。言語はインド・ヨーロッパ語系のクルド語。トルコには1500万近いクルド人がいる

 トルコでは共和人民党時代には、存在自体認められず「山岳トルコ人」などと言われていた。クルド人は独立運動を起こし、中でも左翼系のクルディスタン労働党(PKK)は世界でテロ攻撃を起こした。1999年に指導者オジャランがケニアで逮捕され、獄中でマルクス主義の放棄を明らかにした。2013年以来、PKKは停戦に合意し、一時的にクルド問題の好転があった。2015年6月の総選挙では、クルド系の国民民主主義党が80議席を獲得して驚かせた。単にクルド系だけではなく、都市の知識人などに訴える路線が功を奏したと言われる。(10月の再選挙では、59議席)

 ところが、2015年に起きたISとクルド系武装組織の「コバニ包囲戦」が大きな影響を与えた。トルコ国境に近いクルド人都市コバニ(シリア名アイン・アル・アラブ)は、ISにとってもクルド人にとっても重要な都市だった。この戦闘で、トルコはクルド系武装組織を十分に支援しなかったと言われる。もっとはっきり言えば「見殺し」的な対応を取った。アメリカはISを最重要の敵と考えるから、クルド系支援を打ち出した。一方、トルコはクルド系の独立につながりかねない、国境地帯の「クルド自由地帯」を認められない。そこから事実上トルコ領内に出入りできては、シリア領内にクルド人の独立基地ができるようなものである。結局、ISが敗北してコバニ戦は終わったが、それ以後トルコ国内ではクルド系組織によるテロも起きている。今後の推移が要注目。

 最後に「アルメニア人問題」。これはトルコ版「歴史認識問題」である。第一次世界大戦の最中に、オスマン帝国軍によってアルメニア人を100万人近く虐殺されたと言われる問題である。アルメニアはトルコ東方の小国で、長い歴史を持つ。世界で初めてキリスト教を国教化した国で、それは301年のことである。ただし、そのキリスト教はカトリックや東方正教とは違う、もっと古いアルメニア使徒教会である。人口は300万ほどで、国外にいるアルメニア人の方が多いとされる。ソ連時代は連邦内の共和国だったが、ソ連崩壊で独立国家となった。

 第一次大戦ではオスマン帝国はドイツ、オーストリア側にたって参戦し、歴史的に対立が深いロシアと戦った。オスマン帝国軍は、アルメニア人を帝国内にいる「敵国人」とみなして、強制追放(「死の後進」)された。多くの犠牲が出たことは明らかで、トルコも否定していない。近年になってエルドアン大統領が追悼の意を示してもいる。だが、フランスなど世界各地にいるアルメニア人は、「ジェノサイド」(民族大虐殺)だったとして強くトルコを非難した。アルメニア人組織によるトルコ外交官に対するテロも起こった。フランスでは「アルメニア人虐殺否定禁止法」が一時可決されるまでになった。(結局は廃案。)こうして、アルメニア人虐殺問題は、現代政治の問題となってしまい、トルコ国内では自由に議論できる環境ではない。だから、実態解明も進みにくい。

 2015年暮れに日本でも公開された、ファティ・アキン監督「消えた声が、その名を呼ぶ」という映画がある。これは第一次大戦下にアルメニア人が軍に動員され、からくも虐殺を逃れた様子が描かれている。その間に家族は故郷を追放され、妻は死んで双子の娘は行方不明となった。この娘を探して、父親がハイチやアメリカ各地をさまよう様子を描き、親と子の愛情の映画となっている。トルコの中にも様々な人がいることも描かれているが、同時に軍隊による虐殺、追放の非情なようすも直視している。監督はトルコ系のドイツ人なので、これは製作自体が非常に勇気ある映画だと思う。

 以上、キプロス、クルド、アルメニアとトルコは内外に問題を抱えている。どれも「第一次世界大戦後のオスマン帝国崩壊による問題」である。それを思えば、「第二次世界大戦後の大日本帝国崩壊による問題」が70年程度で完全に解決しないのも当然か。それにしても、トルコが抱える様々な問題は、日本にとっても大事な問題が多く、ヨーロッパや中東の政治と複雑に絡んでいる、一応、この程度はおさえておきたいということで。
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エルドアンへの道-トルコ今昔②

2016年07月20日 00時20分43秒 |  〃  (国際問題)
 トルコの歴史をもう少し長く見てみたい。まあ、第二次大戦後ぐらいから。大戦後のトルコの世界史的立場は「前線国家」だった。もっと大昔には、オスマン帝国が「世界の中心」だった時代も長かった。でも第一次大戦による「帝国崩壊」により、後継のトルコ共和国は「ヨーロッパの辺境」になってしまった。第二次世界大戦中はほぼ中立で、最後の最後にドイツに宣戦布告した。大戦後の世界は「米ソ冷戦」だから、黒海やコーカサス地方でソ連と向かい合うトルコは、対ソ最前線国家となった。

 第二次大戦で米英の秩序に対抗した日独伊の枢軸国も、戦後はそれぞれ米国秩序の下で「ソ連に対する前線国家」とならざるを得なかった。「前線国家」が崩壊して共産化すると、「パックス・アメリカーナ」(「アメリカによる平和」という戦後の基本体制)が大きく変わってしまう。それは許されないことだった。と言っても、西ドイツもイタリアも日本も、それぞれ国民の自由選挙による民主主義国家である。国民が選挙で「社共連合政府」(例えば)を選択してしまったら、アメリカはどうするのか。イランのモサデグ政権やチリのアジェンデ政権のように、米国が直接介入して政権を打倒するのか。

 日本の場合、まあそれは多分なかっただろう。議会政治の長い伝統があるから日本国民の反発も強いだろう。だけど、そもそも当時の「中選挙区」と言われる選挙制度の下では、社会党は共倒れを避けるために、全員が当選しても過半数にはならない数の候補しか立てていなかった。だから社会党政権が成立する可能性はなかったのである。冷戦終結後になると、社会党委員長が首相に選出された村山政権が成立したりした。しかし、首相を出した社会党は、日米安保条約や自衛隊、原子力発電所などそれまで正式には認めてなかったものを議論もなく認めてしまった。

 このように、「前線国家」には事実上「許容される政策の幅」があったわけである。そうすると、「政治」というものは、「ほぼ永久に政権を担う保守勢力の中で利権を調整する」という機能しか持たなくなってしまう。日本やイタリアで、保守政権内の「腐敗」が常に問題視される政治風土になったのはそのような事情がある。(西ドイツは、東ドイツがあったために「共産党」が事実上存在できず、そのため社会民主党が他国に先がけて路線変更した。だから保守と革新の政権交代が可能になった。)

 さて、やっとトルコの話。トルコでは「建国の父」であるケマル・アタチュルクの創設した「共和人民党」が長く一党体制を維持してきた。その問題は次回に書くけれど、トルコの厳格な「政教分離」は、ケマル・アタチュルク以来のもので、「国是」となっている。しかし、国民のほとんどは敬虔なムスリムなので、どうしても無理も出てくる。1950年に行われたトルコ初の自由選挙では、政教分離の緩和を主張した野党、民主党が勝利してメンデレス政権が成立した。

 メンデレスはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、アメリカの「マーシャル・プラン」(ヨーロッパ復興のために米国が進めた経済援助)を受け入れ、経済的自由主義を進めた。経済成長が進んで人気が出たが、やがて貧富の格差が進んで国内対立が激しくなった。ギリシャ人迫害が国際的に非難され、次第に独裁的な傾向を見せていった。メンデレス政権に対する国民的不満を解消することを目的として、1960年5月に軍部によるクーデタが発生した。政権内の主要人物は逮捕され裁判にかけられ、メンデレスらは死刑判決を受けて処刑された。そんなとんでもないことが、日本では60年安保闘争が起こっていた時にトルコで進行していたのである。今はメンデレスも名誉回復されたという話だけど。

 1961年には次の選挙が行われたが、60年代を通して安定した政治は実現しなかった。共和人民党が政権を担当したが、次第に民主党の後継である公正党が勢力を伸ばした。両者の対立に加えて、左翼の社会運動が高まり政局は混乱した。1971年には、公正党のデミレル首相に対して、軍部が書簡を送って総辞職を勧告した。これは「書簡によるクーデタ」と呼ばれている。

 その後、70年代を通じて、中道左翼路線をはっきりさせた共和人民党のエチェヴィット、保守右翼の公正党デミレルの政争が続いた。どちらも過半数を獲得できず、小党と組んだ連立内閣がひんぱんに交代した。双方とも70年代に3回首相となっている。さらに、キプロス問題による軍事費増大、クルド系反体制運動の過激化、左右両翼のテロなどが相次ぎ、国内の混乱が続いたのである。こうして、1980年9月、軍部はまたクーデタを敢行し、すべての政党が解散させられた。

 さて、こうしたトルコの政党政治は、ほとんどイタリアと同じような感じである。同じ人が交代で何度も政権を握るところなど。その状況が1980年代以後、だんだん変わってくる。それは「イスラム政党」が力を得てくるということである。もっとも、ドイツやイタリアの「キリスト教民主党」のような、「イスラム教民主党」はトルコでは認められない。そのような明らかに宗教を明示する政党は、結成が憲法で禁止されている。だけど、エジプトなどで勢力を持った「ムスリム同胞団」も、単にイスラム教を掲げるだけの団体ではない。むしろイスラムの教えである「喜捨」の精神により、貧しい人々への福祉、病気で苦しむ人々のための無料病院など、相互扶助の福祉団体とも言える。そこだけを取り出して、「福祉政党」として結成すれば、一応憲法秩序内にあるとも言えるわけである。これは日本でも、「政教分離」をうたう公明党が「福祉」を掲げるのと同じような発想だろう。

 1980年クーデタの後、1983年に民政移管されるが、解散された主要党派は「祖国党」を作って、オザル政権が誕生した。その後、次第にだんだん、クーデタ前の政党、共和人民党、公正党の後進である正道党が復活した。オザル政権は80年代を通じて続き、その間に政教分離が少しづつ緩んでいった。学校教育に宗教文化が認められたり、公立学校でのスカーフ着用禁止が緩和されたりした。

 そんな中で、イスラム系の「福祉党」が勢力を伸ばしていった。結成したのは、ネジメッティン・エルバカンで、それまでにイスラム系政党を作ってきた人物である。1970年に「国民秩序党」を作るも、1971年に憲法裁判所から活動禁止となった。1972年には「国民救済党」を結成し、70年代の連立政権で副首相を務めた。80年クーデタで失脚後、今度は「福祉党」を結成したわけである。次第に党勢を伸ばし、1995年には第一党になるが、「祖国党」と「正道党」が連立内閣を作った。しかし、それが短命に終わり。1996年にエルバカン政権が誕生したのである。

 ところが、1997年2月になって、軍部がイスラム勢力への警告を行い、最高検察庁が憲法裁判所に対して福祉党の非合法化を求めた。こうした軍部の圧力で、エルバカン政権は1997年6月に崩壊し、福祉党も1998年1月に非合法化された。福祉党の大部分の議員は、後継政党の「美徳党」を結成したが、美徳党も2001年に非合法化された。その後、党員たちは「至福党」と「公正発展党」に分かれた。この公正発展党を率いたのが、前イスタンブール市長のレジェップ・タイイップ・エルドアン(1954~)である。「お友達」である安倍晋三氏と同い年である。

 エルドアンは、1994年に福祉党からイスタンブール市長に当選した。しかし、1997年に集会でイスラム教を賛美する詩を朗読したことが、イスラム原理主義扇動とみなされて告発された。1999年に、懲役4年の実刑判決と公民権はく奪が決定した。トルコにおいては、「イスラム的」とみなされることが、これほどの重罪となったのである。イスラム政党の流れをくむエルドアンと、政教分離の守護者トルコ国軍は、これほどの厳しい対立関係を続けてきた。「美徳党」も解党させられた後、「公正発展党」が結成されたわけだが、エルドアンは公民権停止中ながら、党首に就任した。そして、2002年の総選挙で、公正発展党は地滑り的な大勝利を収めた。10%の得票がない政党は議席を得られない決まりがあり、そのためにイスラム系政党はなかなか伸びられいでいた。しかし、2002年にはそのルールが他党に不利に働き、公正発展党に有利になったのである。

 だけど、エルドアンは公民権停止中だから首相になれない。副党首のギュルが代わりに首相を務めた。立候補可能になって、2003年3月にあった補欠選挙で勝利、議席を得て首相職を代わった。2003年3月16日のことで、その後2007年、2011年の総選挙にも勝利して、長期政権となった。当初は改革を進め国民的にも国際的にも評価が高かったが、やがて強権化が進んでいった。2014年には、国民直接選挙に変更された最初の大統領選挙に出馬して、当選した。エルドアンも、エルドアンに代わって首相を務めた(その後外相、大統領)ギュルも、夫人はスカーフを常に着用する頑固な「伝統派」である。トルコでは公的な場で宗教的なシンボルを身に付けることを禁止されているので、エルドアンもギュルも公的な場には夫婦で出席しない。というか、行事に夫人は招待されない。

 長くなったけれど、エルドアン政権に至るまでに、いくつもの「イスラム系政党」が禁止された。同時代に承知していたが、さすがに他国のことで名前も順番も正確には覚えていなかった。このように、タテマエ上は公正発展党は経済と福祉を訴える政党だけど、事実上は「明言しないだけのイスラム政党」である。宗教を政治利用してはならないことでは国民的合意はあると思うが、「大学でのスカーフ禁止」などは国民の中でも賛否両論ある。軍部や知識人の中には、エルドアン政権を危険な存在だと考える人が相当多いと思う。しかし、エルドアン政権に「国民的基盤」があることも間違いない。国民の大部分は「まっとうなムスリム」で、自分たちの感覚が尊重されていないと感じてきたのも確かだと思う。現時点で起こっていることは、エルドアン政権とトルコ軍部との「最終決戦」ではないかと思う。この「政教分離」という問題は、靖国参拝問題など日本の状況を思い合わせても、関心を持っていくべきものだと思う。せっかくだから、エルドアン、および安倍首相との写真を載せておく。
 
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