尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

学校映画「校庭に東風吹いて」

2016年10月01日 22時48分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 小学校教員と児童の関わりをていねいに描いた「校庭に東風(こち)吹いて」という映画をやっている。あちこちで自主上映もあるようだが、東京ではポレポレ東中野でやっていた。終わるはずが、好評につき朝10時40分のモーニングショーを10月14日までやっているそうだ。

 どんな映画かあまり知らず、沢口靖子が小学校教師役をしていて、大変な中で頑張っているという程度の事前知識で見に行った。まあ、テーマ主義的な関心である。高齢者を中心に、朝の回も、昼の回も結構入っていた。(9月後半の二週間だけ、午後と夜の上映もあった)監督の金田敬という人もよく知らず、原作の柴垣文子という人も知らない。出版社が新日本出版社とあるので、多分「良心的作品」の映画化なんだろうと見当をつけたが、案の定そういう作風だった。

 こういう映画をどう評価すればいいのか、ちょっと悩む。要するに、内容に関しては興味深いことがいろいろあるけれど、「映画の作り」に関しては「テレビドラマ」に近い。判りやすい人間造形、クローズアップを多用したわかりやすい演出、きれいな映像に美しい音楽が寄り添い、「問題児」を包み込む児童の連帯を描き出すわけである。図式に沿っているので、その意味では「映像の解釈に悩まずに」「主題が提出する問題そのものを共に悩む」ことになる。それは映画的魅力に欠けるとも言えるが、テーマそのものの感動性で見せられて行く映画と言える。

 この映画は関西地方で撮られている。場所は様々らしいが、学校は閉校になった堺市の小学校という。でも大阪という設定ではなく、特定の地域の話とは描かれていない。冒頭、沢口靖子演じる「三木知世」という先生が、新しい勤務先に自転車で1時間半かけて通うという場面。なんか「飛ばされた」ということらしいが、どういう理由かは描かれない。3年1組の担任をするが、そのクラスには「場面緘黙児」の蔵田ミチルという生徒がいる。また、有川純平という生徒は最初の日から遅刻してくる。この生徒の家庭には、「シングルマザーの貧困」という問題が潜んでいることが判ってくる。

 三木先生はそれらの生徒や家庭に誠実に向き合っていく。ある日、教室にインコが舞い込み、皆で飼おうということになる。純平は先頭にたって餌やりを続けるが、管理職はいい顔をしない。病気を持っていたら困る、保健所に連絡するという。その話を聞いた純平は、インコを教室から連れ出し、校舎の裏の「お化け倉庫」で秘密に飼うことにする。その秘密は、一人ぼっちのミチルも知るところとなり、二人に絆が生まれ始めるが…。

 いやあ、大変なことばかりである。ちょっとでも管理職ににらまれると、「また飛ばされる」と脅されている。管理職は親からの苦情を気に掛けていて、とにかく束縛が厳しい。その割に、学校内に施錠されていない倉庫があるのは管理不十分だが、まあそうでないと話が進まない。僕の見るところ、三木先生は特に何の問題もないように思う。何で「問題教師」扱いされるのかが判らない。生徒や家庭にていねいに時間をかけるから、管理職に提出する書類などが後回しになってるのかも。

 それにしても、前年度を知らない転任者に「蔵田」と「有川」を持たせるんだから、他クラスもかなり大変なんではないだろうか。学年には4学級あるらしい。映画の最初の方で、この二人の生徒の事情を説明する男性教員がいるので、僕は教頭(副校長)かと思っていた。ホームページを見ると、その人物は「主幹教諭」とあるからびっくりした。学年主任かとも思うが、確かに「主幹」には「指導・助言」の権能があるかもしれないが、なんでこんなに威張っているの? これが今の小学校なのか。

 ミチルはある出来事をきっかけに「不登校」になる。母親はもう先生には家庭訪問してくれなくていいと言う。一方純平は転校することになり、それを言いに先生の家を電車で訪ねるが言い出せない。そして、この二人が交錯するときに、事態は感動的に動き出す。大人は子どもを決めつけた目で見ずに、長い目で信じていこうというメッセージが強く心に響く展開になっている。

 三木先生は、教師というより、「スクール・カウンセラー」や「スクール・ソーシャルワーカー」の役割も果たしている。他にいないんだから、やむを得ない。そこまで関わることはないと、管理職が止めるのが判らない。この映画では、管理職はとにかく、問題数(不登校の人数など)が少なければいいという感じである。極端化されているが、大方の学校では似たような状況なんだろう。

 そういう面を取り上げれば、これは「良心的教員」を描いている映画と言える。でも、通勤時間が1時間半もかかる人が、それほど献身できるだろうか。夫は中学教員だが、娘は大学生、母も元気という設定になっている。無理しすぎて、映画内でも倒れてしまう。これでは「誰でもできる」というわけにはいかないだろう。それに「熱心な先生」が子どもを救うという設定も、「ひとりの教師が頑張れば学校は変わる」という「熱血教員神話」である。

 小学校は中学ほど「学年」意識はないかもしれないが、やはり「学年」や「学校全体」の取り組みが大切だろう。「場面緘黙(かんもく)症」の生徒を受け持って、三木先生は夜遅くまでネットで検索している。それもいいけど、学校全体で研修したりする必要がある。管理職のマネジメント能力にも問題が多い。今の学校に、多くの問題があるということがよく判る。「場面緘黙症」の子どもと向き合う大変さをしっかり描いている意味で、どこかで見てほしい映画だと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする