尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

信じる力-「僕らは世界を救えるか」映画問題②

2016年10月25日 21時43分04秒 | 映画 (新作日本映画)
 長いこと中学、高校の教員として若い人に接してきた。いろんな生徒がいるけど、演劇、映画やマンガ、詩・小説などをつくる生徒もけっこう多い。その中身はと言うと、「世界滅亡後に生き残った二人」とか、「クラスの中に宇宙人がいる」とか、その手の発想がものすごく多かった。もう少し、自分たちの「等身大の問題」、つまり進路とかいじめとかを描けばいいのにと教師はつい思いがちである。

 もっとも親子の葛藤などは、もう少し年齢を重ねないと客観視して書けないんだろう。映画「桐島、部活やめるってよ」を見たら、そこでも教師は映画部の生徒に、自分たちのリアルを描けと言っていた。でも、映画部の生徒は「宇宙ゾンビ映画」を作り続けている。それは「一種のリアリズム」だとよく判った。ゾンビというのは、もちろんメタファー(暗喩)だけど、まぎれもなく自分を描いている。

 本当は昔だって、世界は複雑にできていた。でも、「敵」ははっきりしていて、戦って人生を切り開いて行くんだとされていた。もっと言えば、革命を起こし敵を打倒して理想社会を築くんだと真剣に思い込んでいた人がたくさんいた。実際の人生は、それほど単純なものではなかったんだけど、「自分」を描けば、その中に社会が表れてくるという判りやすい構造で世界が出来ていると思えたのである。

 今は何が何だか世界が理解できない。ニュースを見ていても、どうなっているんだか納得できないことが多い。「世界」は壊れてしまったのか。そんな世界を生きる中では、誰が敵で誰が味方かも判らない。もう世界は壊れてしまっていて、誰にも救えないし、荒涼とした風景が広がっているだけなのだ。そういう風に世の中が見えていても、全く不思議ではない。

 だけど、世界は救わなければいけない。生きていかなければいけないのだから。我々には、どんな物語が可能なんだろうか。しかし、その時に「救う」とは何だろうか。宇宙人が大挙して地球を襲撃してきた。それに対して、「地球防衛隊」とか、「スーパーヒーロー軍団」とか、「偶然宇宙人の弱点を知ってしまった少年」とかが立ち向かう。そして、ラストでは宇宙人が敗北して死滅したり、元の惑星に去って行ったりする。「世界は救われた」と言えるのか。

 確かに、「歴史的な評価」という観点からは、「彼らの活躍で地球は救われたのだった」と位置付けられるだろう。でも、どんなスーパーヒーローだって、映画の中では、「世界」ではなく、宇宙人の襲撃から「自分」を守っているだけである。攻撃するときも含めて、要するに自分の使命を果たしているのみである。野球やサッカーなどの団体競技を見ていても、ゲーム全体を一人で支配できることはなく、与えられたポジションで自分の役割を果たすということに尽きている。

 「シン・ゴジラ」でも「君の名は。」でも「怒り」でも、それは同じである。見ているわれわれが、歴史的評価として「世界を救う」と感じるけど、映画内の人々も「自分の役割を果たす」以上のことはしていない。誰であっても、われわれは「世界を救う」なんて大それたことはできないんだろうと思う。でも、「自分たちに与えられたミッション」を果たそうと頑張ることが、世界につながっていく。

 どうして彼らは(まあ映画というフィクションではあるけれど)、自分を疑うことなくミッションを果たせるのだろうか。(「シン・ゴジラ」と「君の名は。」の場合の話で、純文学である「怒り」は自分を信じることができない人々の物語になっている。)そこに映画なりの仕掛けがあるということだろう。「シン・ゴジラ」の場合は、一般の犠牲者を描かず、政治家や官僚、自衛官など「ミッションを果たすべき仕事の人々」を中心に描いている。初めから、「自己への疑い」といった感覚を排除している。

 一方、「君の名は。」の場合は、ファンタジーとして主人公の運命に同化するような見方を観客がしている。そのための美しい絵、効果的な場面設定、音楽などが用意されている。だから、よほど斜に構えた人を除けば、主人公たちの選択を応援して見ることになるはずである。なんで「大災厄」を逃れるために、彼らが選ばれたのかなどと考え込む人も少ないだろう。(でも、後になって冷静になってみると、いかに「世界を救う」ためであれ、高校生が明らかに違法行為を犯していいのだろうかと思うが。)

 こうしてみると、大事なのは「信じる力」だと判る。「シン・ゴジラ」だって、「君の名は。」だって、映画の中の人々は観客とも一緒になって、ひたすら自分たちを信じて行動し続ける。だから、それが娯楽映画のカタルシスになっている。一方、「怒り」では、「信じきれない人々」が物語を形成している。そこが現実を舞台にした映画だということだが、ミステリー的にも興趣を盛り上げている。「世界」につながるかどうか判らないけど、人はまず目の前の他者を信じていけるかどうかなんだと知らせている。「世界はを救う」ことは判らないけど、物語の中には「自分を信じる」「他人を信じる」ことの大切さが結果的に「何かを救う」ということを示していると思う。それが映画の力でもあるだろう。この問題はあともう一回。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする