新海誠監督のアニメーション映画「君の名は。」が大ヒットしている。当初から評判で、スマッシュヒットが予想されていたが、話題が話題を呼んでメガヒットになっている。「シン・ゴジラ」などを抜いて今年最大のヒットとなり、すでに興行収入は145億円を超えている。歴代10位の「崖の上のポニョ」(155億円)を抜くことは確実で、「ハウルの動く城」(196億円)や「もののけ姫」(193億円)を抜くと、興収200億円、歴代ベスト5に届くことになる。(歴代1位は「千と千尋の神隠し」の308億円。)
新海監督のアニメは初めてなんだけど、今回は(大ヒットしてると見たくなくなる天邪鬼なんだけど)やっぱり見ておこうと思った。新海アニメは、今までも絵がキレイとか話がよく出来てると評判になっているのは知っていた。あらゆる映画を見るわけにもいかないので、ついアニメは後回しになるんだけど、期待株という情報は持っていたのである。(なお、先ごろ目黒シネマで監督特集があり、見に行ったんだけど大混雑で諦めた。10月末から、池袋の新文芸座で新海監督特集が一週間にわたって行われるので、その時に見たいと思っている。時間などを知りたい人は自分で調べてください。)
さて、見てどうだったかと言えば、「よく出来ている」「当たるなあ」という感じがまずした。アニメを丁寧に作れば巨費がかかるから、当たらないと製作費を回収できない。だから誉め言葉である。内容的にも面白かったし、テーマも心を打つ。だけど、主人公が高校生であることでも判るように、やっぱり「若向き映画」という点はあって、僕のベスト1ではない。「もののけ姫」のような深みも感じない。でも、こういう映画を見る良さももちろんいっぱいある。美しい画面と音楽に乗せられて、時間を超える旅をしてきた満足感を覚える。すぐには判らない、あるいはもう一回見ておきたいような場面が多い。リピーターが続出するのも判る。そういう作りが「よく出来ている」と書いたゆえんである。
これからも多くの人がこの映画を語るだろう。例えば、10月5日付朝日新聞の文化・文芸欄にも特集記事が出ている。その冒頭に「映画は、山奥の田舎町に住む女子高校生と東京都心で暮らす男子高校生の心が入れ替わる物語で、すれ違う恋の切なさなどを描く」と紹介している。もちろん間違いではないけど、これでは肝心要の一番のテーマが書かれていない。書かないお約束なのか。
僕はこのような紹介をさんざん聞いて、この映画の一番のテーマは「取り替えっ子」の話かと思っていた。つまり、大林亘彦の「転校生」(原作は山中恒の「おれがあいつであいつがおれで」)のような話。もっと言うと、平安時代の「とりかへばや物語」である。外国だとマーク・トウェインの「王子と乞食」のように、「役割の変換」の物語が多い。それに対し、日本では「性の変換」の物語が書かれてきた。だから、そのことを現代風によみがえらせ、青春の切ない想いをうたい上げるのかと思ったのである。
この映画で「夢の中での転換」が起きていたのは、実はタイムラグがあって、同時点での変換ではないということが途中で判る。それは何故だろうか。それは映画内で、「あるミッション」を課されたからである。それは「いかにして僕らは世界を救えるか」というミッションである。高校生の切ない役割変換の物語かと思っていたら、実はもっと大きな世界の物語だったのである。これはいわゆる「セカイ系」のカテゴリーに入るのか。そうでもあるんだろうけど、基本的には日常生活の中で、日常的に可能な方法で解決が目指される。だから、僕には「一種のパラレルワールドもの」のように思う。
「こちら側の世界」と「もう一つの裏側の世界」がある。村上春樹の作品のように、二つの世界を往還する物語である。「海辺のカフカ」で、田村カフカ少年の自己を探す旅が、実は歴史を超えて世界を救う旅につながっていたように。ミッションを果たしても、本人はそれが判らない。よって、相手の名前も忘却される。「忘却とは忘れ去ることなり。」大昔の「君の名は」のような忘却の淵にあった二人が、再び出会う日は来るのだろうか。名前も覚えていないというのに。だから、題名は「君の名は。」
このミッションに関しては、感傷的だとか、危険な発想だという声も聞かれる。映画内で起きるかもしれない「大災厄」は、見ているわれわれにとって「3・11」を思い出させる。5年前のことだから、今の高校生や大学生の世代にも通じるはずである。その大災厄が東京で起きる「シン・ゴジラ」に対して、東京から遠く離れた地方(知られているように飛騨なんだけど)に設定されている。それを「地方のできごと」として、ロマンティックな物語装置になっていて、「美しく忘却する」役割を担うという批判もある。
いや、それは違うだろ。犠牲者を直接には描かない「シン・ゴジラ」に対して、具体的な名前を持ち、目に見える周囲の人々を救いたいという「君の名は。」のほうが、思いがはるかに切実に伝わる。どこであっても、そこは「世界」である。東京の物語とか地方の物語とか言っていては、世界の小国の映画を初めから外してしまうことになる。僕はこの映画の中にある、青臭いほどに「高校生が頑張る」映画の構造に心打たれた。それでいいじゃないか。
映画の中で何が起こったのかは僕にもよく判らない。時系列に沿って完全に再現できる人はいないだろう。それでいいんだと思う。SFというか、ファンタジーなんだから。そこを間違うと、この映画における「解決」は、超現実的で危険だという考えも起きる。超越的な力に頼って「災厄」を逃れる力を持とうとするのは、独裁的な力を日本の若者が求めているのだなんていう解釈をしてはいけない。基本的にはファンタジーなんだから、細かい説明もいらない。だけど、「パラレルワールド」をのぞいてきた人は、現実社会でも強く生きられる。なぜなら、「起きてしまった現実は変えられない」けれど、「ありえたかもしれないもう一つの世界」を見ることにより、「僕らの未来は変えられるという強い思い」を持てるのである。だから、ラストで世界は変わるではないか。「君の名は」と問うことによって。
この映画を見ると、確かにあの場面はなんだろう、どこだろうと知りたくなる。ネット検索して、「聖地巡礼」をしたくなる。そういう部分はすごく良くできている。僕もちょっと調べてしまった。東京ではほとんど新宿区の各地がモデルになっているようだ。しかし、そんなウンチクはいいだろう。僕が見て感じた限りでは、以上のような物語である。けっこう話は入り組んでいる。だから、僕が見た時には小学生らしきグループがいたけど、帰りに判らない、何?と言いあっていた。やはり、もう少し年齢が上じゃないと付いてけないだろう。でも、設定もそうだし、主人公たちの顔の作りとか、やっぱり大人には物足りない面も多いと思う。それでも魅力があるのも確かだし、社会問題として見ておく意味もある。
新海監督のアニメは初めてなんだけど、今回は(大ヒットしてると見たくなくなる天邪鬼なんだけど)やっぱり見ておこうと思った。新海アニメは、今までも絵がキレイとか話がよく出来てると評判になっているのは知っていた。あらゆる映画を見るわけにもいかないので、ついアニメは後回しになるんだけど、期待株という情報は持っていたのである。(なお、先ごろ目黒シネマで監督特集があり、見に行ったんだけど大混雑で諦めた。10月末から、池袋の新文芸座で新海監督特集が一週間にわたって行われるので、その時に見たいと思っている。時間などを知りたい人は自分で調べてください。)
さて、見てどうだったかと言えば、「よく出来ている」「当たるなあ」という感じがまずした。アニメを丁寧に作れば巨費がかかるから、当たらないと製作費を回収できない。だから誉め言葉である。内容的にも面白かったし、テーマも心を打つ。だけど、主人公が高校生であることでも判るように、やっぱり「若向き映画」という点はあって、僕のベスト1ではない。「もののけ姫」のような深みも感じない。でも、こういう映画を見る良さももちろんいっぱいある。美しい画面と音楽に乗せられて、時間を超える旅をしてきた満足感を覚える。すぐには判らない、あるいはもう一回見ておきたいような場面が多い。リピーターが続出するのも判る。そういう作りが「よく出来ている」と書いたゆえんである。
これからも多くの人がこの映画を語るだろう。例えば、10月5日付朝日新聞の文化・文芸欄にも特集記事が出ている。その冒頭に「映画は、山奥の田舎町に住む女子高校生と東京都心で暮らす男子高校生の心が入れ替わる物語で、すれ違う恋の切なさなどを描く」と紹介している。もちろん間違いではないけど、これでは肝心要の一番のテーマが書かれていない。書かないお約束なのか。
僕はこのような紹介をさんざん聞いて、この映画の一番のテーマは「取り替えっ子」の話かと思っていた。つまり、大林亘彦の「転校生」(原作は山中恒の「おれがあいつであいつがおれで」)のような話。もっと言うと、平安時代の「とりかへばや物語」である。外国だとマーク・トウェインの「王子と乞食」のように、「役割の変換」の物語が多い。それに対し、日本では「性の変換」の物語が書かれてきた。だから、そのことを現代風によみがえらせ、青春の切ない想いをうたい上げるのかと思ったのである。
この映画で「夢の中での転換」が起きていたのは、実はタイムラグがあって、同時点での変換ではないということが途中で判る。それは何故だろうか。それは映画内で、「あるミッション」を課されたからである。それは「いかにして僕らは世界を救えるか」というミッションである。高校生の切ない役割変換の物語かと思っていたら、実はもっと大きな世界の物語だったのである。これはいわゆる「セカイ系」のカテゴリーに入るのか。そうでもあるんだろうけど、基本的には日常生活の中で、日常的に可能な方法で解決が目指される。だから、僕には「一種のパラレルワールドもの」のように思う。
「こちら側の世界」と「もう一つの裏側の世界」がある。村上春樹の作品のように、二つの世界を往還する物語である。「海辺のカフカ」で、田村カフカ少年の自己を探す旅が、実は歴史を超えて世界を救う旅につながっていたように。ミッションを果たしても、本人はそれが判らない。よって、相手の名前も忘却される。「忘却とは忘れ去ることなり。」大昔の「君の名は」のような忘却の淵にあった二人が、再び出会う日は来るのだろうか。名前も覚えていないというのに。だから、題名は「君の名は。」
このミッションに関しては、感傷的だとか、危険な発想だという声も聞かれる。映画内で起きるかもしれない「大災厄」は、見ているわれわれにとって「3・11」を思い出させる。5年前のことだから、今の高校生や大学生の世代にも通じるはずである。その大災厄が東京で起きる「シン・ゴジラ」に対して、東京から遠く離れた地方(知られているように飛騨なんだけど)に設定されている。それを「地方のできごと」として、ロマンティックな物語装置になっていて、「美しく忘却する」役割を担うという批判もある。
いや、それは違うだろ。犠牲者を直接には描かない「シン・ゴジラ」に対して、具体的な名前を持ち、目に見える周囲の人々を救いたいという「君の名は。」のほうが、思いがはるかに切実に伝わる。どこであっても、そこは「世界」である。東京の物語とか地方の物語とか言っていては、世界の小国の映画を初めから外してしまうことになる。僕はこの映画の中にある、青臭いほどに「高校生が頑張る」映画の構造に心打たれた。それでいいじゃないか。
映画の中で何が起こったのかは僕にもよく判らない。時系列に沿って完全に再現できる人はいないだろう。それでいいんだと思う。SFというか、ファンタジーなんだから。そこを間違うと、この映画における「解決」は、超現実的で危険だという考えも起きる。超越的な力に頼って「災厄」を逃れる力を持とうとするのは、独裁的な力を日本の若者が求めているのだなんていう解釈をしてはいけない。基本的にはファンタジーなんだから、細かい説明もいらない。だけど、「パラレルワールド」をのぞいてきた人は、現実社会でも強く生きられる。なぜなら、「起きてしまった現実は変えられない」けれど、「ありえたかもしれないもう一つの世界」を見ることにより、「僕らの未来は変えられるという強い思い」を持てるのである。だから、ラストで世界は変わるではないか。「君の名は」と問うことによって。
この映画を見ると、確かにあの場面はなんだろう、どこだろうと知りたくなる。ネット検索して、「聖地巡礼」をしたくなる。そういう部分はすごく良くできている。僕もちょっと調べてしまった。東京ではほとんど新宿区の各地がモデルになっているようだ。しかし、そんなウンチクはいいだろう。僕が見て感じた限りでは、以上のような物語である。けっこう話は入り組んでいる。だから、僕が見た時には小学生らしきグループがいたけど、帰りに判らない、何?と言いあっていた。やはり、もう少し年齢が上じゃないと付いてけないだろう。でも、設定もそうだし、主人公たちの顔の作りとか、やっぱり大人には物足りない面も多いと思う。それでも魅力があるのも確かだし、社会問題として見ておく意味もある。