イタリア映画「ローマ法王になる日まで」が公開されている。これは題名の通り、第266代目のローマ教皇、フランシスコ教皇の人生を描く映画である。だから当然カトリック的な映画ではあるんだけど、これはけっして「偉人伝」ではない。むしろ「非道な権力にどう抵抗するか」「貧しく無力な人々とともにあるとはどういうことか」といったことをテーマにしている。まさに現在を生きる人のための映画だし、毎年ノーベル平和賞の有力候補に挙がる人物を通して世界を深く考える映画だ。

2013年3月、前任のベネディクト16世が高齢を理由に引退を表明し、アルゼンチン出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が後任に選出された。1960年、映画の冒頭ではまだ若いホルヘは皆の人気者で女性にもモテているが、一生を神に仕えることを決意してイエズス会に入る。彼は実は有名なイエズス会出身として初めての教皇だという。若い時はザビエルゆかりの日本への赴任を希望していたが、退けられるシーンが印象深い。(教皇として訪れる日も遠くないだろう。)
当時のラテンアメリカでは、多くの国で軍事政権による強権政治が行われていた。アルゼンチンではポピュリズム的政策で労働者に人気があったペロンをめぐって、ペロニスタ(ペロン派)と軍部の対立が長く続いた。1974年にペロンが亡くなり、妻のイザベルが後継になったが経済混乱を招いた。そこで1976年に陸軍総司令官のビデラを中心にした軍事クーデタが起きた。1983年まで続いた軍事独裁政権は、「汚い戦争」と呼ばれた大々的な国家テロを行い、数千名に及ぶ(今も完全には解決されていない)行方不明者を出した。(1983年にフォークランド島戦争に敗れて崩壊した。)
軍事政権の当時、ホルヘは管区長として神学校の院長をしていた。軍部は教会も聖域視せず、神父の中にも捕えられ殺されたり、暗殺されるものもあった。軍部寄りの上層部のもとで、彼は疑われたものを匿い逃がしたりする。反政権運動には加わらないけど、教会上層部や政権とも話ができる位置にいたホルヘは裏で尽力を続ける。それでも長年の友人だった女性判事エステルも犠牲になり自らの心にも大きな傷が残ったのである。
この頃ラテンアメリカの国々では、貧しい農民や先住民とともに時には武器を持って闘うことも辞さない「解放の神学」が大きな影響力を持っていた。ホルヘはその立場とは違うが、軍部による弾圧には批判する。この立場をどう考えるかはなかなか難しいけど、彼はイエズス会を選んだ時点で、貧しい民の中に入り直接運動をするタイプじゃなかったんだろう。「前衛」がいないと点を取れないけど、これ以上の失点を防ぐために「後衛」に努める人も運動には必要だ。
だけど、彼には「汚い戦争」に対する自分の関わり方に悩みもあったんだろう。軍事政権崩壊後、ドイツに留学中に彼に「回心」が訪れる。ベネズエラから来ていた女性がスペイン語で祈っている教会にふと足を踏み入れる。そこで彼女から「結び目をほどく聖マリア」を教えられたのである。こんがらかったヒモを手にして、結び目をほどこうとしているマリア像。悩み苦しみにとらわれた人々の「結び目」をもほどいてくれる、苦しむ人々ともにある神。以後、アルゼンチンに帰っても、農村の教会に暮らし、教皇の指令で首都に戻っても立ち退きにおびえる貧民街に赴く。
この映画の監督はダニエーレ・ルケッティで、イタリアでは有名らしいが日本では映画祭公開だけなので、僕は初めて見た。主演はロドリゴ・デ・ラ・セルナという人で、「モーターサイクル・ダイアリーズ」でゲバラの友人を演じていた人。まあ監督でも俳優でも客は呼べない映画だが、テーマそのものにひかれる人のための映画だろう。映画の出来は「佳作」かなと思うが、内容が重要で考えさせることが多い。ぜひ多くの人に見てもらいたい映画。
アルゼンチンの軍事政権による人権問題は、もうほとんどの人が忘れているのではないか。「行方不明者の母の会」が軍事政権の闇を暴き続けた姿は、映画「オフィシャル・ストーリー」(1985)で描かれアカデミー賞外国語映画賞を受けた。また軍事政権中はパリに亡命していた映画監督のフェルナンド・ソラナスは「タンゴ -ガルデルの亡命-」(1986、ベネツィア映画祭審査員特別大賞)、「スール/その先は……愛」(1988、カンヌ映画祭監督賞)などの映画を製作し、ピアソラの音楽に乗せて自由への憧れと望郷の思いを切々と描いていた。このように、80年代後半にはアルゼンチンの「汚い戦争」をテーマにした映画がかなり日本でも公開されたのである。ぜひもう一回見てみたい。
なお、日本のカトリック教会の中央団体である日本カトリック中央協議会は、「法王」ではなく「教皇」と表記して欲しいと要望し続けてきた。教科書などはずっと前から「教皇」と書いているのに、マスコミは「法王」といつまでも書く。この映画も「教皇」とするべきだったと思う。

2013年3月、前任のベネディクト16世が高齢を理由に引退を表明し、アルゼンチン出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が後任に選出された。1960年、映画の冒頭ではまだ若いホルヘは皆の人気者で女性にもモテているが、一生を神に仕えることを決意してイエズス会に入る。彼は実は有名なイエズス会出身として初めての教皇だという。若い時はザビエルゆかりの日本への赴任を希望していたが、退けられるシーンが印象深い。(教皇として訪れる日も遠くないだろう。)
当時のラテンアメリカでは、多くの国で軍事政権による強権政治が行われていた。アルゼンチンではポピュリズム的政策で労働者に人気があったペロンをめぐって、ペロニスタ(ペロン派)と軍部の対立が長く続いた。1974年にペロンが亡くなり、妻のイザベルが後継になったが経済混乱を招いた。そこで1976年に陸軍総司令官のビデラを中心にした軍事クーデタが起きた。1983年まで続いた軍事独裁政権は、「汚い戦争」と呼ばれた大々的な国家テロを行い、数千名に及ぶ(今も完全には解決されていない)行方不明者を出した。(1983年にフォークランド島戦争に敗れて崩壊した。)
軍事政権の当時、ホルヘは管区長として神学校の院長をしていた。軍部は教会も聖域視せず、神父の中にも捕えられ殺されたり、暗殺されるものもあった。軍部寄りの上層部のもとで、彼は疑われたものを匿い逃がしたりする。反政権運動には加わらないけど、教会上層部や政権とも話ができる位置にいたホルヘは裏で尽力を続ける。それでも長年の友人だった女性判事エステルも犠牲になり自らの心にも大きな傷が残ったのである。
この頃ラテンアメリカの国々では、貧しい農民や先住民とともに時には武器を持って闘うことも辞さない「解放の神学」が大きな影響力を持っていた。ホルヘはその立場とは違うが、軍部による弾圧には批判する。この立場をどう考えるかはなかなか難しいけど、彼はイエズス会を選んだ時点で、貧しい民の中に入り直接運動をするタイプじゃなかったんだろう。「前衛」がいないと点を取れないけど、これ以上の失点を防ぐために「後衛」に努める人も運動には必要だ。
だけど、彼には「汚い戦争」に対する自分の関わり方に悩みもあったんだろう。軍事政権崩壊後、ドイツに留学中に彼に「回心」が訪れる。ベネズエラから来ていた女性がスペイン語で祈っている教会にふと足を踏み入れる。そこで彼女から「結び目をほどく聖マリア」を教えられたのである。こんがらかったヒモを手にして、結び目をほどこうとしているマリア像。悩み苦しみにとらわれた人々の「結び目」をもほどいてくれる、苦しむ人々ともにある神。以後、アルゼンチンに帰っても、農村の教会に暮らし、教皇の指令で首都に戻っても立ち退きにおびえる貧民街に赴く。
この映画の監督はダニエーレ・ルケッティで、イタリアでは有名らしいが日本では映画祭公開だけなので、僕は初めて見た。主演はロドリゴ・デ・ラ・セルナという人で、「モーターサイクル・ダイアリーズ」でゲバラの友人を演じていた人。まあ監督でも俳優でも客は呼べない映画だが、テーマそのものにひかれる人のための映画だろう。映画の出来は「佳作」かなと思うが、内容が重要で考えさせることが多い。ぜひ多くの人に見てもらいたい映画。
アルゼンチンの軍事政権による人権問題は、もうほとんどの人が忘れているのではないか。「行方不明者の母の会」が軍事政権の闇を暴き続けた姿は、映画「オフィシャル・ストーリー」(1985)で描かれアカデミー賞外国語映画賞を受けた。また軍事政権中はパリに亡命していた映画監督のフェルナンド・ソラナスは「タンゴ -ガルデルの亡命-」(1986、ベネツィア映画祭審査員特別大賞)、「スール/その先は……愛」(1988、カンヌ映画祭監督賞)などの映画を製作し、ピアソラの音楽に乗せて自由への憧れと望郷の思いを切々と描いていた。このように、80年代後半にはアルゼンチンの「汚い戦争」をテーマにした映画がかなり日本でも公開されたのである。ぜひもう一回見てみたい。
なお、日本のカトリック教会の中央団体である日本カトリック中央協議会は、「法王」ではなく「教皇」と表記して欲しいと要望し続けてきた。教科書などはずっと前から「教皇」と書いているのに、マスコミは「法王」といつまでも書く。この映画も「教皇」とするべきだったと思う。