尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

尾崎一雄の小説を読む

2017年06月25日 22時39分41秒 | 本 (日本文学)
 昨日はパソコンそのものを開かずに、ずっと本を読んでいた。(その前に陸上の日本選手権を見たけど。)読んでたのは、尾崎一雄(1899~1983)の「暢気眼鏡・虫のいろいろ」(岩波文庫)という本である。戦前に「暢気眼鏡」で第5回芥川賞を受けた私小説作家で、今はもう知らない人の方が多いんじゃないか。でも存命中は芸術院会員で文化勲賞も受け、各種文学全集に入っていた。
 
 時代離れしたくなって時々古い本を読むけど、「暢気眼鏡・虫のいろいろ」という文庫本を今読んでいる人は、きっといないんじゃないかなどと思いながら読んでいる。「騎士団長殺し」だったら「今この本を読んでる人は日本中に何人もいるんだろうなあ」と思うわけだけど。この文庫本も今は品切れだと思うが、2012年に重版されたときに買ってあった。何で今読んだかというと、新文芸座の「司葉子特集」で「愛妻記」(1959、久松静児監督)という映画を見たからである。

 これは戦前に尾崎一雄が妻を描いた「芳兵衛もの」(芳兵衛は妻の愛称)をアレンジして映画化した作品で、主人公(尾崎役)はフランキー堺、妻が司葉子である。そういえば、同じような映画を見たことがあったなと思う。それは「もぐら横丁」という1953年、清水宏監督の映画で、近年フィルムセンターで復元され見られるようになった。主演は佐野周二、妻は島崎雪子。(他に1940年に島耕二監督「暢気眼鏡」という映画もあるようだけど、それは見たことがない。)

 主人公は作家をめざして修行中だけど、お金もなく貧乏が染みついている。下宿でも家賃滞納で食事も出してもらえない。なじみの古本屋に行って金を借りてくるしかない。そんな暮らしの主人公のところへ、なぜか14も年が離れた芳子という妻がやってくる。貧乏だけど、明るくつましい二人の日々…。というような話がユーモラスに展開されるけど、そんな夢のような女性がホントにいるのか。いたんだから間違いないけど、映画では司葉子の清潔な明るさがうまく生かされていたように思う。

 原作を読んでみると、もっと苦い感じもあるし、そう簡単ではない諸事情もあった。小田原辺の神主の息子で、父が神宮皇學館にいた当時に伊勢で生まれた。だけど長じて文学に目覚めて親と不和になる。そういう話はよくあるけど、父が病気になって若死にし、尾崎一雄は20歳で家長になってしまった。家の財産の土地を売り払って、東京で飲み暮らして「文学修行」に費やしてしまった。(まあ、それだけでなく子弟にも高等教育を受けさせ、関東大震災や恐慌による経済混乱もあったと本人は書いているけど。)その結果、親兄弟と絶縁していたのである。

 一時は文壇デビューするものの、プロレタリア文学の隆盛や前妻とのいざこざで書けない時期が続いた。それでは「破滅的私小説」になるところ、天衣無縫の若き妻を得て新しく文学的な出発をする。「玄関風呂」なんか、ちょっと他では読めない貧乏ユーモア小説になってる。1934年8月初出とある「灯火管制」もいい。防空大演習の灯火管制を前に、電気代未納で電気を停められ、自然と「灯火管制」になってしまう日々。これは信濃毎日新聞の桐生悠々が批判した1933年8月の「関東防空大演習」を描いているのではないかと思う。市井の人々の様子が伝わってくる。

 戦争中に病気になり、郷里の小田原・宗我神社の近くに疎開し、そのままずっとそこで暮らした。そうなると、病気や田舎暮らしの描写が多くなる。そんな中で家族もだんだん年を取り、母親も死ぬ。一方、3人の子どもも大きくなる。そういう様子を読んでいくのも、私小説の楽しみだろう。この本は全生涯から少しづつ代表作を選んでいるから、読み進むに連れて老境に至ってくる。「蜜蜂が降る」(1975)は自宅にある樹に蜜蜂の大群が分封してやってくる様子を描いて興味深い。

 「松風」(1979)という短編になると、マツクイムシなどの被害で神社の松も伐られることになる。そういう時に著者は松の害虫を詳しく調べて描写している。私小説という形で、時代の移り変わりも描かれる。また、この短編では映画化以後も清水宏監督の交友が続いていることが書かれている。戦災孤児を引き取った「蜂の巣の子供たち」という映画で有名な監督だけど、実際に伊豆で子どもたちと暮らしていた。その場所にあった松が枯れて、そこに「蜂の巣窯」を開くという。その窯開きに招かれたのである。招待者には志賀直哉夫妻、広津和郎夫妻、小津安二郎、野田高梧、尾崎一雄夫妻だとある。そういう交友関係があったのかと驚いた。

 最後の短編「日の沈む場所」(1982)になると、太陽が季節ごとに沈む場所が変わるさまを自宅の2階から眺め続けている。私小説の中には、自己の行為を露悪的に描くようなものも多いけど、この尾崎一雄という人はちょっと違う。ユーモラスかつ自然や哲学への洞察がかなり出ている。もともと歴史ある神官の家に生まれ、結局は無信仰のような、自然信仰のように生きた。それも近代日本人の一つの典型だったかと思う。読みやすいから、これからももう少し読んでみたいような作家である。
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