社会がだんだん豊かになってくると、いろいろ変化が起こってくる。日本でも高度成長が一段落した70年代以後、大きな変容が起こった。それまでは労働運動や学生運動が激しかったが、それに対して「私生活優先」の風潮が一般的になる。新しく豊かさを享受できる世代は、それまでの大量生産品に満足できず、「個性的」で「独自」のものを愛好した。それらの人々は、自分たちは「上流階級」ではないにせよ、「下層」は脱して「中流」に属すると考えていた。
60年代にはまだ海外旅行が自由にできなかったけれど、そういう時代に外国を訪れた人は「アメリカの豊かさ」を驚きの目で見つめた。スーパーマーケットに商品があふれ、人々は自動車で大量に買っていく。こんな豊かな国と戦争をしてしまったのか! それに対し、その時点では理想と思っていた人も多かったソ連(ソヴィエト連邦)を訪れた人は、商品のバリエーションが少なく、人々は「西側」に憧れていると知ってショックを受けた人も多かった。70年代以後になると自由に海外旅行ができるようになり、「社会主義への憧れ」は急速に薄れていった。
「発展した資本主義国」では、大量に同じものを作って大々的に売る時代から、多くの様々な商品を並べた「多品種少量生産」の時代になっていった。そういう時代になってもう30年ぐらい経つけれど、多くの人が年末になると「紅白歌合戦で知っている歌が少なくなった」とぼやくようになった。国民誰もが口ずさめる大ヒットソングなんか、もうほとんど生まれなくなった。だけど、クラシックでもポピュラーでも、世界の有名な人は皆日本でコンサートを開いた。民族音楽なんかのかなり珍しい公演も日本で行われた。何でも聴けるから、好き好きなジャンルに特化して生きていけるわけだ。
こうして、文化的な「多元主義」(プルーラリズム=pluralism)が当たり前になっていった。映画で言えば、多くの映画館でたくさん上映される大作もあれば、ミニシアターでずっと上映されるアートシネマもある。かつては年末のベストテン選びでは、芸術映画や社会派映画ばかり選ばれていたが、80年ぐらいからはエンターテインメント映画の傑作も当たり前に選ばれるようになった。そういう風に、「権威」によって一元的に決められた価値ではなく、それぞれの人がそれぞれの価値を認め合う「多元化」が起こってくるのである。
そういう「多元主義」が当たり前になってくると、「革命」を掲げる左派も魅力がなくなる。しかし、同時に戦前復古的で、「平和憲法」や「個人の自由」を変えたい(と見える)自民党政治にも拒否感を持つ。自民党政治では「ロッキード事件」「リクルート事件」など疑獄が相次ぎ、政治家は老人ばかりで引退すると二世議員が「世襲」する。安倍首相は「新党ブームが日本を滅ぼす」みたいなことを言ったけれど、90年代以後に何度か「新党」が人気を集めたのは、自民党でも「左派」でもない「多元主義」的な政治を求める「中流国民」が存在したということだと思う。
「価値の多元化」とは、つまり「権威からの自由化」ということだから、それを「リベラル」と呼んでもいいだろう。この「リベラル」に時代には、商品が個性化されるように、人々の個人的な問題関心も「多品種」化される。私生活優先主義も一つの生き方だけど、自分の関心が高い社会問題に取り組むのも、「趣味」の範囲として許容される。ある人は環境問題に関心を持つが、その中でもカヌーが趣味だから水質汚染にこだわる、動物が好きだから野生動物保護やペットの殺処分反対にこだわる…。
そして、そういう中でそれまでは「問題」とされていなかった問題が「社会問題」と意識されるようになった。「タバコの喫煙」はその代表だろう。男の大部分が喫煙者だったときは問題視されなかったけど、本当はタバコの煙が嫌だった人はいっぱいいるんだと思う。だけど、それは「自分でガマンするべきことだ」と思われていた。そういうことだと思う。それは「セクハラ」も同様。職場ではそういうことも多少はあるもんだとされていたんだろうが、やっぱり嫌だったに違いない。
でも産業社会がさらに高度化し、「情報社会」などと言われるようになると、また新たな問題が起こってくる。資本は国境を越え、多国籍企業が当たり前になる。大企業だけでなく、日本の中小企業も中国や東南アジアに工場を移してしまい、「産業の空洞化」と言われるようになった。「多品種少量生産」は同じなんだけど、裏をよく見てみれば「メイド・イン・チャイナ」と書いてあることでは同じ。「価値は多元化」したけれど、生産構造は「一元化」に戻ってしまったのである。
企業が海外に移るのは、国内の人件費が高いからだから、当然国内では「労働者の解雇」が起こった。「リストラ」と言い換えて、なんだか大変じゃないように表現されたが、要するにクビである。しかし、「リベラル」は基本的に産業政策的にも自由主義だから「自由貿易」などにも賛同することが多い。「労働法制の緩和」には反対はしても、なかなか現実の深刻さに対応できない。「リベラル」が「多元主義」を掲げても、それを支持する「中流」の国民が崩壊して「拠って立つ基盤」がなくなってしまう。
日本の国内で深刻な分断が起きていても、「リベラル」がなかなか対応できない社会が作られてしまった。産業的な意味合いでは「多品種少量生産」は続くけれど、絶え間ない「個性化」に消費者の方も疲れてしまう。何でもいいんだよ、安くてそれなりならば。それがホンネである。そうなると「多元主義」もうさん臭く見えてくる。すべての価値は多元的に平等だなんて、間違ってる。自分たちに利益をもたらすのが「価値」であり、マイノリティの価値を同等に見るのはおかしい。そうなって、「グローバル化」の中で「リベラル」が「弱者の味方」視されてしまう原因になっていったのだと思う。
じゃあ、どうすればいいのかは改めて別に。とりあえず「中流」の時代に「リベラル化」が進み、グローバル化の中で「リベラル化」が弱まるという話。しかし、「リベラル」を考えるには、ヨーロッパでは宗教を、日本では平和問題を考えないといけない。
60年代にはまだ海外旅行が自由にできなかったけれど、そういう時代に外国を訪れた人は「アメリカの豊かさ」を驚きの目で見つめた。スーパーマーケットに商品があふれ、人々は自動車で大量に買っていく。こんな豊かな国と戦争をしてしまったのか! それに対し、その時点では理想と思っていた人も多かったソ連(ソヴィエト連邦)を訪れた人は、商品のバリエーションが少なく、人々は「西側」に憧れていると知ってショックを受けた人も多かった。70年代以後になると自由に海外旅行ができるようになり、「社会主義への憧れ」は急速に薄れていった。
「発展した資本主義国」では、大量に同じものを作って大々的に売る時代から、多くの様々な商品を並べた「多品種少量生産」の時代になっていった。そういう時代になってもう30年ぐらい経つけれど、多くの人が年末になると「紅白歌合戦で知っている歌が少なくなった」とぼやくようになった。国民誰もが口ずさめる大ヒットソングなんか、もうほとんど生まれなくなった。だけど、クラシックでもポピュラーでも、世界の有名な人は皆日本でコンサートを開いた。民族音楽なんかのかなり珍しい公演も日本で行われた。何でも聴けるから、好き好きなジャンルに特化して生きていけるわけだ。
こうして、文化的な「多元主義」(プルーラリズム=pluralism)が当たり前になっていった。映画で言えば、多くの映画館でたくさん上映される大作もあれば、ミニシアターでずっと上映されるアートシネマもある。かつては年末のベストテン選びでは、芸術映画や社会派映画ばかり選ばれていたが、80年ぐらいからはエンターテインメント映画の傑作も当たり前に選ばれるようになった。そういう風に、「権威」によって一元的に決められた価値ではなく、それぞれの人がそれぞれの価値を認め合う「多元化」が起こってくるのである。
そういう「多元主義」が当たり前になってくると、「革命」を掲げる左派も魅力がなくなる。しかし、同時に戦前復古的で、「平和憲法」や「個人の自由」を変えたい(と見える)自民党政治にも拒否感を持つ。自民党政治では「ロッキード事件」「リクルート事件」など疑獄が相次ぎ、政治家は老人ばかりで引退すると二世議員が「世襲」する。安倍首相は「新党ブームが日本を滅ぼす」みたいなことを言ったけれど、90年代以後に何度か「新党」が人気を集めたのは、自民党でも「左派」でもない「多元主義」的な政治を求める「中流国民」が存在したということだと思う。
「価値の多元化」とは、つまり「権威からの自由化」ということだから、それを「リベラル」と呼んでもいいだろう。この「リベラル」に時代には、商品が個性化されるように、人々の個人的な問題関心も「多品種」化される。私生活優先主義も一つの生き方だけど、自分の関心が高い社会問題に取り組むのも、「趣味」の範囲として許容される。ある人は環境問題に関心を持つが、その中でもカヌーが趣味だから水質汚染にこだわる、動物が好きだから野生動物保護やペットの殺処分反対にこだわる…。
そして、そういう中でそれまでは「問題」とされていなかった問題が「社会問題」と意識されるようになった。「タバコの喫煙」はその代表だろう。男の大部分が喫煙者だったときは問題視されなかったけど、本当はタバコの煙が嫌だった人はいっぱいいるんだと思う。だけど、それは「自分でガマンするべきことだ」と思われていた。そういうことだと思う。それは「セクハラ」も同様。職場ではそういうことも多少はあるもんだとされていたんだろうが、やっぱり嫌だったに違いない。
でも産業社会がさらに高度化し、「情報社会」などと言われるようになると、また新たな問題が起こってくる。資本は国境を越え、多国籍企業が当たり前になる。大企業だけでなく、日本の中小企業も中国や東南アジアに工場を移してしまい、「産業の空洞化」と言われるようになった。「多品種少量生産」は同じなんだけど、裏をよく見てみれば「メイド・イン・チャイナ」と書いてあることでは同じ。「価値は多元化」したけれど、生産構造は「一元化」に戻ってしまったのである。
企業が海外に移るのは、国内の人件費が高いからだから、当然国内では「労働者の解雇」が起こった。「リストラ」と言い換えて、なんだか大変じゃないように表現されたが、要するにクビである。しかし、「リベラル」は基本的に産業政策的にも自由主義だから「自由貿易」などにも賛同することが多い。「労働法制の緩和」には反対はしても、なかなか現実の深刻さに対応できない。「リベラル」が「多元主義」を掲げても、それを支持する「中流」の国民が崩壊して「拠って立つ基盤」がなくなってしまう。
日本の国内で深刻な分断が起きていても、「リベラル」がなかなか対応できない社会が作られてしまった。産業的な意味合いでは「多品種少量生産」は続くけれど、絶え間ない「個性化」に消費者の方も疲れてしまう。何でもいいんだよ、安くてそれなりならば。それがホンネである。そうなると「多元主義」もうさん臭く見えてくる。すべての価値は多元的に平等だなんて、間違ってる。自分たちに利益をもたらすのが「価値」であり、マイノリティの価値を同等に見るのはおかしい。そうなって、「グローバル化」の中で「リベラル」が「弱者の味方」視されてしまう原因になっていったのだと思う。
じゃあ、どうすればいいのかは改めて別に。とりあえず「中流」の時代に「リベラル化」が進み、グローバル化の中で「リベラル化」が弱まるという話。しかし、「リベラル」を考えるには、ヨーロッパでは宗教を、日本では平和問題を考えないといけない。