尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

新国立劇場「トロイ戦争は起こらない」

2017年10月14日 22時35分45秒 | 演劇
 新国立劇場も開場20周年。2017~2018の新シーズンのオープニングとして、ジャン・ジロドゥ(1882~1944)の名作「トロイ戦争は起こらない」(1935)を公演している。(22日まで。)栗山民也の演出、二村周作の美術が素晴らしく、とても面白かったけど、同時に結構難しい。題材そのものに縁が薄いこと、フランスの外交官だったジロドゥの意図をどう理解するか、そして現代日本の状況と合わせてどのように解するべきか。こういう三重の問題が目の前に立ちふさがっている。

 僕は20世紀フランス演劇はあまり見てない。サルトルやカミュ、イヨネスコなどは見てても、ジロドゥやアヌイなどは一度も見てない。さらに題材が古代の話と来ては、これはただ見ても判らないだろうと思って、事前に出たばかりのハヤカワ演劇文庫「トロイ戦争は起こらない」を読んでお勉強していった。(ついでに光文社古典新訳文庫にある「オンディーヌ」も読んでしまった。)どっちも日本では50年代後半に「劇団四季」が初演している。今じゃミュージカル劇団だと思ってる人が多いだろうが、浅利慶太がフランス演劇ばかりやってた時代のことである。

 トロイ戦争というのは、紀元前1200年ごろにギリシャがトロイに攻め込んだ戦争。ギリシャ側のホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」などで現代に伝わるが、そのトロイは実在するのか。それをシュリーマンが発掘した。伝説ではギリシャ軍はトロイに大きな木馬に兵を隠して送り込んで制圧したとか、まあどこかで聞いたようなあのトロイ。場所はトルコの西北部、エーゲ海に面した町である。

 だけど、どうもイメージがよくつかめない。シェークスピアやチェーホフなら、舞台や映画で見てるから、筋もそうだけど舞台装置を思い描きやすい。でも今回は戯曲を読んでいても、具体的な舞台をうまく想像しにくい。舞台を見ると中央に丸い石造のテラスがあって、そこから奥へ石の道が続いている。もちろん実際に石のわけがないから、発泡スチロールかなんかだろうけど。舞台装置のミニチュアが置いてあったが、こんな感じ。(ガラスに囲まれていて、撮ってる自分が写るので加工。)

 冒頭で二人の女性が舞台で向かい合う。アンドロマック(アンドロマケ=鈴木杏)が「トロイ戦争は起こらない!」とカッサンドラ(江口のり子)に向かって叫ぶ。アンドロマックはエクトール(ヘクトール=鈴木亮平)の妻で、今しも夫のエクトールが戦争に勝って帰ってくるところ。エクトールはトロイ王家の王子で、カッサンドラはその妹の予言者。しかし、トロイにはギリシャの使節団が向かっている。エクトールの弟パリスが、スパルタ王妃のエレーヌ(ヘレネー=一路真輝)をトロイに連れてきてしまったのである。ギリシャ側はエレーヌの引き渡しを求めてやってくるのである。

 戦争が終わったばかりで、もう戦争を望まないエクトールは何とかエレーヌを平和的に引き渡して、戦争にならないように心を砕く。だが、「美の象徴」のようなエレーヌは、トロイの人々の心を捉えてしまって、二度と返すなの声も高い。王プリアムと王妃エキューブ(ヘカベー=三田和代=虹の女神イリスと二役)はどう対応するのだろうか。ギリシャ神話ではゼウスが白鳥に姿を変えてスパルタ王妃レダと交わり、卵から産まれた絶世の美女ということになっている。

 エレーヌはセリフでも「わたしは卵から産まれたから」と言っている。そういうことは事前に読んで行かないと、判っている人は少ないだろう。西欧の知識人には常識なんだろうけど。そんな人間とも言えない美女を誰がやって、どんなセリフをしゃべるのか。一路真輝のエレーヌは、確かに素晴らしかった。なんだか本当の気持ちがあるような、ないような不思議なセリフを、不思議なまんま客席に届けている。それに対抗するのが、王子の妃アンドロマックで、鈴木杏が希望と絶望が交錯するような存在感を存分に発信している。僕は鈴木杏がとても良かったと思った。

 だけど、まあトロイ戦争は起こったわけである。いや、本当はあったのかなかったのか、伝説だという話もあるようだが、とにかく伝説では起こった。SFでは歴史を完全に改変する小説もあるけど、この戯曲ではどうなって行くのか。エクトールが必死に対話を進めるのに対し、むしろトロイ内部の「銃後」の人々はギリシャの無礼を許すなとあおる。「外交」と「対話」の重要性を訴え続けるエクトールの訴えは、時空を超えて「対話より圧力」と言い続ける現代日本に語り掛けるようだ。

 そして一旦は戦争が回避されるかと思えた瞬間も訪れ、幕が締まりかける。ところが幕は途中で止まってしまい、後のドラマで事態は反転してしまう。この演出は後で見たら原作のト書きに書いてあった。でも読んでるときはほとんど意識しないで読み飛ばしてしまったけど、なるほどこういう効果も出せるのかと感心した。事態は最後の最後でひっくり返る。これは実際の政治状況でも起こり得ることだ。感情に流され、冷静な判断ができなくなることへの批判を感じる。

 この戯曲が書かれた1935年は、ドイツのヒトラー政権が出来て2年後。スペイン内戦の前年にあたる。ちなみに名優として知られるルイ・ジューヴェの演出で行われた。戦争が近づく緊迫感のようなものをジロドゥが感知していたのは間違いない。彼は第一次大戦に従軍し、戦傷を負って生き残った。その戦傷の体験が大きく影を落としている。実際に戦争を経験していたからこその、二度と戦争をしたくない、若者たちにさせたくない。職業である外交官としても、フランスを代表する芸術家としても、戦争を避けることの大切さを心底から表している。

 だけど、トロイは戦争をすれば亡びる側である。そういう国でも内部では強硬派の方が声が大きい。しかも、この事態を招いたのは、パリスがエレーヌを「拉致」したからである。拉致したエレーヌを帰すべきではないのか。ギリシャの方が理屈に合っている。だから、トロイ内部の争いは、今の日本に当てはめるよりも、北朝鮮指導部やイラク戦争直前のフセイン政権にふさわしいような感じもする。そういう風に見ても興味深いのではないか。

 多くの登場人物が出てきて、原作を読んでないと判りにくいのではないかと思う。恐らく当時のフランスでは常識のような話なんだろう。つまり「関ヶ原の闘いは起こらない」とか「吉良邸討ち入りは起こらない」と言ったような。そうして好戦派と厭戦派、圧力派と対話派のドラマを作っていく。そういう戯曲なんだろう。僕はギリシャ神話はよく知らないけど、フランス語戯曲だからHは発音せず「エレーヌ」だけど、そう言えば「トロイのヘレン」というハリウッド映画も昔あった。エクトールとアンドロマックも、ジョルジュ・デ・キリコが何度も描いた「ヘクトールとアンドロマケ」ってこの二人だったのかと思い当たった。
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小池百合子の「これから」-「希望の党」に希望はあるか④

2017年10月14日 00時33分53秒 |  〃  (選挙)
 小池百合子都知事が代表を務める「希望の党」はマスコミ調査によると、最初よりも「失速」しているという話。だけど、そうは言っても「野党第一党」である。確かにすぐに政権党になれるほどの勢いはないだろうけど、まあ「ある程度の勢力」は確保する。じゃあ今後どうなっていくのだろうか。

 小池氏は総選挙に出るのか、出ないのか。ずいぶんその問題を取り上げていたテレビ番組などがあった。なんという「お騒がせ女」かなどと悪口を言ってた人もいるけど、これは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類だろう。小池氏の政策や体質に批判的だからと言って、本人は一貫して出ないと言ってたんだから、周りが勝手に騒いでいただけということだろう。

 今週の週刊文春は「小池緑のたぬきの化けの皮を剥ぐ」、週刊新潮は「傾国の小池百合子」と銘打ち大特集を組んでいる。もちろんそれほど注目されているとは言えるけど、選挙選開始後にこういう特集が組まれる。それは何のためだろうか。悪名は無名に勝るとも言うが、何らかの意図もあるのだろうか。僕が思うのは、かつてのインド独立の際にインドとパキスタンに別れたといったケースである。ヒンドゥー教とイスラム教の「分断統治」を進めたイギリスの植民地支配を問わず、宗教で別れて対立を続けるなんて、やっぱりインド人は遅れてるなんて思いこむ人がいる。

 今回は「前原が小池にだまされたが、枝野は筋を通した」みたいなストーリイを作る人がいる。野党4党で選挙協力をすべきだと考えていた「左派」的な人ほど、小池が諸悪の根源のように見えるらしい。出来てもいない(当面出来るはずもない)「小池政権」の方が安倍政権よりもずっと危険だなどと言う人までいた。そこまで言ったら、意図するかしないかは別にして「安倍政権支援」だろう。民進党の「解体」もなるべくしてなった感が強いが、もっとスマートな別れ話にならなかったかなとは思う。でも国会での議論を避けて突然解散した安倍首相のやり口こそが、野党の混乱をもたらしたのである。

 僕は小池氏が出馬すると考えたことはない。このブログでは以下のように9月26日に書いている。「自分が都知事を辞めて国政に打って出ることはできない。2020年五輪を終えるまでは、都政投げ出しはできないだろう。いくら何でも、それは無責任に過ぎる。2016年に都知事に当選したばかりなんだから、批判が集中するに決まってる。」地方から出ている「希望の党」候補者は、小池氏の出馬を待ち望んでいたかもしれない。でも、もし小池氏が出馬したら、都民の批判が間違いなく殺到する

 実際に都庁には「辞めるな」という電話やメールがいっぱい来ていたという。それは小池知事支持という意味ばかりじゃないだろう。都議選で「改革」などと大きなことを言ったばかりである。それに都知事選はもうしばらく勘弁だ。僕は小池知事の支持者ではないけれど、それでも都知事選挙は、何も毎年やらなくてもいいと思うよ、素朴な感情として。だから、小池知事が総選挙に出ていたら、東京で「希望の党」は大失速する。東京の住民じゃないと、この感覚は判らないかもしれない。

 じゃあ、なんで「希望の党」を立ち上げたのだろうか。それは小池氏本人が言っている「安倍一強政治を終わらせる」ということで理解すればいいんだろうと思っている。つまり、今回「希望の党」がなく、民進党がそのまま選挙をしていたら勝てたのだろうか。少なくとも大きな飛躍は期待できず、自公の与党が勝っていただろう。だから、2018年9月の自民党総裁選で安倍氏が3選される。それでは2021年まで安倍政権だから、その時点で69歳の小池氏に総理の目はないと言うしかない。

 小池氏が総理を目指すとすれば、安倍政権を(今回の選挙でなくても)、とにかく2018年9月には終わらせる必要がある。その後継が石破や野田聖子だとすれば、それも小池には都合が悪いが、おそらく次の自民党総裁は「安倍氏らに支持されたグループ」から出る。だから「安倍亜流」と批判して小池氏が出る意味が出てくるだろう。そして、今回「希望の党」が立ち上がったことで、安倍後継の話が大っぴらになされるようになった。小池氏はある意味、もう半分ぐらい目的を達したのではないか。

 ただ、小池氏の言動や体質への批判も大きくなったことで、案外「希望の党」の当選者が少ないこともあり得る。一方、まだまだ選挙情勢は固まらず、小選挙区は厳しいものの比例区で上積みする可能性もある。自民党が大勝してしまえばそれで終わりだが、それでも260程度になる可能性はある。過半数は取るだろうが、かなり減らしたイメージが出れば、総裁選で無投票当選ということはなくなる。

 もともと小池氏が出馬しても、準備不足で大勝利は難しかったと思う。それでも万が一過半数を獲得してしまえば、小池政権はできる。しかし、参議院にはほとんど足場がない。「何もできない」と言われて、東京五輪まで持ちこたえられないことは全く明らかだ。そんなことになるぐらいなら、強大な権力を持つ東京都知事でいる方がずっといいではないか。今回の選挙結果により、小池氏は失速するのではなく、「首都の首長であり、かつ国政の野党第一党党首」という立場に立つだろう。

 ただ先の記事の中で「東京五輪まで知事を務める」と書いたけど、これはその後よく考えて別の考え方もできると思うようになった。それは「2019年参議院選の比例区に出馬する」ということである。次の都知事選は予定通りなら、2020年7月。まさに五輪直前。だから、そのことも考えると、「前年にやめることで五輪直前の知事選を回避する」ことも、辞める理屈が立つのではないかと思う。そこまで時間があれば、後継候補も見つけられるだろうし、都政の課題にもある程度目途を付けられるだろう。

 2019年参院選こそ、小池氏なしには「希望の党」に希望が無くなる可能性が高い。比例区に出れば、全国でたくさん票を取れて、その恩恵で当選ラインが低くなるから、「希望の党」から出馬してくれる人も見つけやすい。参院選はいつやるかが判ってるから、候補者を立てやすい。そして、比例区なら自分が辞めても、後任は繰り上げ当選になる。だから、いったん参議院議員になっておいて、次の衆院選に鞍替え出馬する。五輪時の知事というステータスを捨てることになるが、本気で総理を目指すのならそっちの可能性の方が高いのではないか。
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