尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「リベラル」が「保守」だったころ-「リベラル」って何だろう②

2017年10月10日 18時33分43秒 | 政治
 「リベラル」って何だろうと考えて、まず最初に世界の「自由民主主義」というものを考えた。次に、日本の「保守」と「革新」の歴史。日本は1950年代にはまだ「農村社会」と言っても良かった。「保守勢力」には地方の農村の「名望家」が多く、家父長制的な意識が強かった。彼らは「帝国軍隊」と「家族制度」を取り戻すことが「保守」だと思い込んでいて、「自主憲法制定」をスローガンに掲げた。

 一方、反反体制の中心は社会党で、「社会主義」を目指して「革新勢力」と呼ばれていた。社会主義の意味は多少違いつつ、「選挙で社会主義を実現する」を目指していた。労働組合は資本と対決して自分たちの権利を獲得しようと「革新政党」を支援した。このような「保守」対「革新」の時代は、大体80年ごろまで続いた。若い人はもう「保革激突」とか「保革逆転」なんて言葉も知らないだろう。

 その頃には、今で言う「リベラル」勢力は政界には存在しない。「復古保守」と「革命左派」がいただけである。左翼政党では「リベラリズム」(自由主義)を受け入れる余地がない。社会党はいつも路線争いがあり、左右の対立が続いていた。共産党は1949年の総選挙で35議席を獲得したが、50年代に武装闘争や分裂で支持を失い、国政への影響力を失っていた。党内では理論闘争が続いて、特に60年以後の中ソ対立の中で多くの除名者を出した。革命を目指す前衛党なんだから、リベラルな言論が許されるはずもなく「鉄の規律」が必要なのは当然だっただろう。

 だが、60年代以後の高度経済成長都市化の中で、農村から都市へ多くの若い労働人口が移動した。それらの人々は自民党や社会党の組織票にならずに、浮動票や新党に流れることも多かった。1960年に社会党右派が離党して民社党を結成した。また1964年には公明党が正式に結成され、1967年の総選挙で一挙に25議席を獲得した。(それ以前に参議院や都議会には出ていた。)共産党も60年代末に長い低迷を脱し、1969年に14議席、1972年には38議席と躍進して、公明、民社を抜いた。これらは「多党化現象」と呼ばれ、この「主要5党時代」は長く続いた。

 そのあおりを受けたのが社会党で、次第に議席を減らして行った。それは「長期低落傾向」と呼ばれていた。1958年に166議席と最高を記録して以来、145、144、144となり、1969年には沖縄返還を業績に選挙に臨んだ佐藤内閣に対し、なんと90議席と大敗してしまう。その後、100議席以上は回復するが、社会党単独での政権獲得は明らかに不可能だった。「多党化」現象は、今から見れば都市中間階層の激増による「価値観の多様化」の産物である。社会党は時代の変化に乗り遅れたのだ。

 ヨーロッパを見れば、やはり多くの国で「保守対革新」の構図が成り立っていた。しかし、労働者と労働組合に支持されながらも、イギリスの労働党西ドイツ(当時)の社会民主党は、「革命」を放棄して資本主義システムの中で「労働者の福祉の充実」を目指す方向に転換した。西欧諸国はソ連の「脅威」に直面していたから、共産党はそのままでは国民の支持を得られなかった。イタリアでは、強い勢力を持つイタリア共産党も70年代に、「ユーロコミュニズム」を掲げソ連を批判して、実質的に「社会民主主義」に転換していった。こうした発想はなかなか日本では受け入れられなかった。

 ところで、党是に改憲を掲げた自民党は70年代には事実上改憲を先送りしていた。国民の中に根強い平和主義と戦前への復古拒否があり、国会で3分の2を取ることができない。そのうち、国民の間に憲法は定着しているという考えも出てくる。国民の中間層が多くなり、左の革命イデオロギーに拒否感を持つだけでなく、右の戦前復古イデオロギーにも拒否感があり、そのままでは「保守」が立ち行かなくなると考える人々が登場する。「新しい」「柔軟な」「改革」を目指す「保守勢力」

 日本でもともと「リベラル勢力」と言われた人々は、このような自民党内の「ハト派」と言われた人々だろう。もともと60年代後半に、アメリカのベトナム戦争に追随する佐藤内閣に対して、中国との国交などを求めた「アジアアフリカ研究会」が源流だろう。こうして自民党内に「ハト派」勢力が誕生した。もとは宇都宮徳馬や田川誠一など、さらに河野洋平や加藤紘一などの人々だ。

 1976年にロッキード事件が発覚し、自民党が揺れる中で河野洋平、田川誠一、西岡武夫らが「新自由クラブ」を結成する。新自由クラブは一時自民党と連立を組んだのち、最後は自民党に復党した。その後、93年に「新生党」(小沢一郎、羽田孜らのグループ)や「新党さきがけ」(武村正義や鳩山由紀夫らのグループ)が自民党を離党した。その結果、自民党内に旧福田派の流れをくむ「タカ派」が残って影響力を増し、「リベラル」と言えば自民党以外という印象を持つ人が多くなる。

 このように、リベラル派は日本ではもともと「保守勢力内で社会変化に柔軟な改革グループ」と言ったイメージで語られる人々だった。しかし90年以後、世界の在り方が大きく変わり、「新自由主義的改革」が世界で行われると、「リベラル」の意味がまた変わってくる。また世界各国にはそれぞれ独自の事情がある。日本では「日本国憲法をどう考えるか」が「リベラル」の測り方になっている。普通は憲法を守るのが「保守」だと思うが、日本では「憲法を変える」と言うのが「保守」である。一方、日本では世俗社会が定着していて、宗教が政治問題になることはほとんどないが、世界では「リベラル」とは宗教にどう向き合うかという問題と密接に絡んでいる。そのあたりの問題をもう少し。
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「リベラル」って何だろう①-自由民主義体制とは

2017年10月10日 00時07分00秒 | 政治
 この前「リベラル新党が必要だ」と書いたけど、だからと言って「立憲民主党」がそのリベラル新党だとか、自分がその政党を自動的に支持するとかいうわけではない。そういうことと別に、その時点ではヨーロッパで「中道左派」にあたるような政党がないと選択肢がなくなるという話。その時は「リベラル」の意味については書かなかった。かなり誤解している人も多いようなので、一度書いておきたいと思っていた。この機会に何回か続けて書いてみたい。

 世の中には「リベラルは嫌い」なんていう人もいるらしいけど、そういう人は当然、党名にリベラルをうたう「Liberal Democratic Party of Japan」が嫌いなんだろうと思うと、支持政党が「自由民主党」だったりする。リベラル嫌いだと公言する人が弾圧もされずに生きていられるのは、リベラル社会が定着しているからなんだから、あまり悪口を言うもんじゃないだろう。

 また逆に自民党嫌いの人の中には、「自由」も「民主」もない「自由民主党」なんて悪口を言う人もいるけど、それもおかしいだろう。自由民主党は1955年に、「自由党」と「民主党」が合同した政党で、だから「自由民主党」なんだけど、この合同は当時「保守合同」と呼ばれた。世界の「先進国」、経済的に発展した資本主義国では、保守政党によく「自由」とか「民主」の名前が付けられる

 それは世界の経済先進国が政治的には「自由民主主義体制」を取っているからである。G7に集まるような国は、みな「自由民主主義」だと言える。国によって「キリスト教」が付いたリ、「保守」「共和」などと言う場合もある。でも、少しづつニュアンスが違いながらも、ベースは「自由主義」と「民主主義」のミックスである。そのあたりの問題を歴史的に考えてみたい。

 大昔はどこの国も身分社会専制国家である。それが18世紀後半からの「市民革命」によって、人民の自由権が認められていく。アメリカ独立宣言(1776)では「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と高らかに宣言した。でも、「すべての人間は生まれながらに平等」なんだったら、なぜアメリカで奴隷制度が長く続いたのか。先住民の土地を奪い続けたのか。選挙権は男性だけで、女性の選挙権がずっと認められなかったのか。(全米で認められたのは1920年。)

 つまり、宣言の起草当時には「すべての人」とは「白人男子のこと」だいうのが自明視されていたのだ。そういう「歴史的限界」があっても、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言などの「歴史的価値」は計り知れない。白人成人男子のみだとしても、人間に自由に生きる権利があると認めたことは大変なことだった。そして「自由権」の基本となる「思想の自由」とか「結社の自由」などは、「先進国」ではほとんど問題にならない。いくら右翼的な政党であっても、共産党を禁止せよとは言えない。極左、極右のグループも、(時には警察に監視されながらも)基本的には結成できる。

 もうそのような「自由」があるのは当たり前すぎて、自分の国の政治体制が「自由主義」(liberalism=リベラリズム)だと意識しないぐらいだ。でも、このような「自由主義」を本当に必要としたのは、貧しい人々ではなく、ブルジョワジー(都市中産階級)と呼ばれた商工業者である。それまでは王家や貴族階級に結び付いた特権商人が暴利を得ていた。そこに「経済活動の自由」を得た人々が、折からの「産業革命」の波に乗って、産業資本家の時代が訪れたのである。

 この時代の国家のあり方を、よく「夜警国家」と言うのを聞いたことがあるかもしれない。国家は外敵と犯罪者から「私有財産」を守る役割だけあればいいという考えである。国民にはできる限りの自由を与えるべきで、国家は余計なことをするなと考える。そうすると福祉や教育、文化や環境の保護などはみんな無くていいことになる。極端な自由を主張する考えをアメリカでは「リバタリアン」と呼んでいて、一定の影響力を持っている。

 だが、世の中に完全な自由はない。「自由」というと、確かに「不自由」よりいい感じがする。でも「自由にしていいよ」と言われても、先立つお金がなければ何もできない。自由は強い者にとってこそ役に立つ。結局、市民革命と産業革命を経た先進国は、産業資本家による「弱肉強食」社会になってしまった。そして、そのような資本主義を根本的に転換する「社会主義革命」を志向する考え方も現れてきた。それは困るということもあり、もう19世紀ドイツのビスマルク時代から、革命党弾圧だけでなく「社会政策」を進めていった。社会保障や労働者保護という考え方である。

 第一次世界大戦後、ドイツのワイマール憲法で「生存権」という考えが認められた。第二次世界大戦以後に作られた日本国憲法でも生存権が認められた。「労働組合結成」などの労働三権、教育を受ける権利なども保証している。国家によって国民の貧困を解消していくべきだという考え方に立っている。もう単なる「自由主義国家」とだけ言っている段階ではないのである。

 これは「自由民主党」も認めているところである。安倍首相の祖父である岸信介元首相は憲法改正を主張する戦前指向の右派的政治家だったけれど、実は岸内閣の時代に国民皆保険最低賃金制が実現したのは割と知られている。自民党は大企業の経済活動を保証する「自由主義」政党だけど、同時に社会福祉に膨大な予算を支出する「福祉社会」を作ってきた。

 これが現代の「自由民主主義国家」というもので、多くの先進資本主義国は大体そういう構造になっている。そういう歴史の中で、「自由主義」(リベラリズム)はもう当たり前の前提になってしまって、むしろ「企業の自由な活動をどう抑制するか」の方が課題になってきたわけだ。ところが、資本主義が高度情報社会と言われるようなものに変容するとともに「自由主義」の問題も変わってくる。それ以前に「社会主義革命」がある程度現実的なものとして語られていた時代もちょっと前まではあった。そのころは「リベラル」はどう語られていたのか。その問題を次回に。
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