「リベラル」って何だろうと考えて、まず最初に世界の「自由民主主義」というものを考えた。次に、日本の「保守」と「革新」の歴史。日本は1950年代にはまだ「農村社会」と言っても良かった。「保守勢力」には地方の農村の「名望家」が多く、家父長制的な意識が強かった。彼らは「帝国軍隊」と「家族制度」を取り戻すことが「保守」だと思い込んでいて、「自主憲法制定」をスローガンに掲げた。
一方、反反体制の中心は社会党で、「社会主義」を目指して「革新勢力」と呼ばれていた。社会主義の意味は多少違いつつ、「選挙で社会主義を実現する」を目指していた。労働組合は資本と対決して自分たちの権利を獲得しようと「革新政党」を支援した。このような「保守」対「革新」の時代は、大体80年ごろまで続いた。若い人はもう「保革激突」とか「保革逆転」なんて言葉も知らないだろう。
その頃には、今で言う「リベラル」勢力は政界には存在しない。「復古保守」と「革命左派」がいただけである。左翼政党では「リベラリズム」(自由主義)を受け入れる余地がない。社会党はいつも路線争いがあり、左右の対立が続いていた。共産党は1949年の総選挙で35議席を獲得したが、50年代に武装闘争や分裂で支持を失い、国政への影響力を失っていた。党内では理論闘争が続いて、特に60年以後の中ソ対立の中で多くの除名者を出した。革命を目指す前衛党なんだから、リベラルな言論が許されるはずもなく「鉄の規律」が必要なのは当然だっただろう。
だが、60年代以後の高度経済成長、都市化の中で、農村から都市へ多くの若い労働人口が移動した。それらの人々は自民党や社会党の組織票にならずに、浮動票や新党に流れることも多かった。1960年に社会党右派が離党して民社党を結成した。また1964年には公明党が正式に結成され、1967年の総選挙で一挙に25議席を獲得した。(それ以前に参議院や都議会には出ていた。)共産党も60年代末に長い低迷を脱し、1969年に14議席、1972年には38議席と躍進して、公明、民社を抜いた。これらは「多党化現象」と呼ばれ、この「主要5党時代」は長く続いた。
そのあおりを受けたのが社会党で、次第に議席を減らして行った。それは「長期低落傾向」と呼ばれていた。1958年に166議席と最高を記録して以来、145、144、144となり、1969年には沖縄返還を業績に選挙に臨んだ佐藤内閣に対し、なんと90議席と大敗してしまう。その後、100議席以上は回復するが、社会党単独での政権獲得は明らかに不可能だった。「多党化」現象は、今から見れば都市中間階層の激増による「価値観の多様化」の産物である。社会党は時代の変化に乗り遅れたのだ。
ヨーロッパを見れば、やはり多くの国で「保守対革新」の構図が成り立っていた。しかし、労働者と労働組合に支持されながらも、イギリスの労働党や西ドイツ(当時)の社会民主党は、「革命」を放棄して資本主義システムの中で「労働者の福祉の充実」を目指す方向に転換した。西欧諸国はソ連の「脅威」に直面していたから、共産党はそのままでは国民の支持を得られなかった。イタリアでは、強い勢力を持つイタリア共産党も70年代に、「ユーロコミュニズム」を掲げソ連を批判して、実質的に「社会民主主義」に転換していった。こうした発想はなかなか日本では受け入れられなかった。
ところで、党是に改憲を掲げた自民党は70年代には事実上改憲を先送りしていた。国民の中に根強い平和主義と戦前への復古拒否があり、国会で3分の2を取ることができない。そのうち、国民の間に憲法は定着しているという考えも出てくる。国民の中間層が多くなり、左の革命イデオロギーに拒否感を持つだけでなく、右の戦前復古イデオロギーにも拒否感があり、そのままでは「保守」が立ち行かなくなると考える人々が登場する。「新しい」「柔軟な」「改革」を目指す「保守勢力」。
日本でもともと「リベラル勢力」と言われた人々は、このような自民党内の「ハト派」と言われた人々だろう。もともと60年代後半に、アメリカのベトナム戦争に追随する佐藤内閣に対して、中国との国交などを求めた「アジアアフリカ研究会」が源流だろう。こうして自民党内に「ハト派」勢力が誕生した。もとは宇都宮徳馬や田川誠一など、さらに河野洋平や加藤紘一などの人々だ。
1976年にロッキード事件が発覚し、自民党が揺れる中で河野洋平、田川誠一、西岡武夫らが「新自由クラブ」を結成する。新自由クラブは一時自民党と連立を組んだのち、最後は自民党に復党した。その後、93年に「新生党」(小沢一郎、羽田孜らのグループ)や「新党さきがけ」(武村正義や鳩山由紀夫らのグループ)が自民党を離党した。その結果、自民党内に旧福田派の流れをくむ「タカ派」が残って影響力を増し、「リベラル」と言えば自民党以外という印象を持つ人が多くなる。
このように、リベラル派は日本ではもともと「保守勢力内で社会変化に柔軟な改革グループ」と言ったイメージで語られる人々だった。しかし90年以後、世界の在り方が大きく変わり、「新自由主義的改革」が世界で行われると、「リベラル」の意味がまた変わってくる。また世界各国にはそれぞれ独自の事情がある。日本では「日本国憲法をどう考えるか」が「リベラル」の測り方になっている。普通は憲法を守るのが「保守」だと思うが、日本では「憲法を変える」と言うのが「保守」である。一方、日本では世俗社会が定着していて、宗教が政治問題になることはほとんどないが、世界では「リベラル」とは宗教にどう向き合うかという問題と密接に絡んでいる。そのあたりの問題をもう少し。
一方、反反体制の中心は社会党で、「社会主義」を目指して「革新勢力」と呼ばれていた。社会主義の意味は多少違いつつ、「選挙で社会主義を実現する」を目指していた。労働組合は資本と対決して自分たちの権利を獲得しようと「革新政党」を支援した。このような「保守」対「革新」の時代は、大体80年ごろまで続いた。若い人はもう「保革激突」とか「保革逆転」なんて言葉も知らないだろう。
その頃には、今で言う「リベラル」勢力は政界には存在しない。「復古保守」と「革命左派」がいただけである。左翼政党では「リベラリズム」(自由主義)を受け入れる余地がない。社会党はいつも路線争いがあり、左右の対立が続いていた。共産党は1949年の総選挙で35議席を獲得したが、50年代に武装闘争や分裂で支持を失い、国政への影響力を失っていた。党内では理論闘争が続いて、特に60年以後の中ソ対立の中で多くの除名者を出した。革命を目指す前衛党なんだから、リベラルな言論が許されるはずもなく「鉄の規律」が必要なのは当然だっただろう。
だが、60年代以後の高度経済成長、都市化の中で、農村から都市へ多くの若い労働人口が移動した。それらの人々は自民党や社会党の組織票にならずに、浮動票や新党に流れることも多かった。1960年に社会党右派が離党して民社党を結成した。また1964年には公明党が正式に結成され、1967年の総選挙で一挙に25議席を獲得した。(それ以前に参議院や都議会には出ていた。)共産党も60年代末に長い低迷を脱し、1969年に14議席、1972年には38議席と躍進して、公明、民社を抜いた。これらは「多党化現象」と呼ばれ、この「主要5党時代」は長く続いた。
そのあおりを受けたのが社会党で、次第に議席を減らして行った。それは「長期低落傾向」と呼ばれていた。1958年に166議席と最高を記録して以来、145、144、144となり、1969年には沖縄返還を業績に選挙に臨んだ佐藤内閣に対し、なんと90議席と大敗してしまう。その後、100議席以上は回復するが、社会党単独での政権獲得は明らかに不可能だった。「多党化」現象は、今から見れば都市中間階層の激増による「価値観の多様化」の産物である。社会党は時代の変化に乗り遅れたのだ。
ヨーロッパを見れば、やはり多くの国で「保守対革新」の構図が成り立っていた。しかし、労働者と労働組合に支持されながらも、イギリスの労働党や西ドイツ(当時)の社会民主党は、「革命」を放棄して資本主義システムの中で「労働者の福祉の充実」を目指す方向に転換した。西欧諸国はソ連の「脅威」に直面していたから、共産党はそのままでは国民の支持を得られなかった。イタリアでは、強い勢力を持つイタリア共産党も70年代に、「ユーロコミュニズム」を掲げソ連を批判して、実質的に「社会民主主義」に転換していった。こうした発想はなかなか日本では受け入れられなかった。
ところで、党是に改憲を掲げた自民党は70年代には事実上改憲を先送りしていた。国民の中に根強い平和主義と戦前への復古拒否があり、国会で3分の2を取ることができない。そのうち、国民の間に憲法は定着しているという考えも出てくる。国民の中間層が多くなり、左の革命イデオロギーに拒否感を持つだけでなく、右の戦前復古イデオロギーにも拒否感があり、そのままでは「保守」が立ち行かなくなると考える人々が登場する。「新しい」「柔軟な」「改革」を目指す「保守勢力」。
日本でもともと「リベラル勢力」と言われた人々は、このような自民党内の「ハト派」と言われた人々だろう。もともと60年代後半に、アメリカのベトナム戦争に追随する佐藤内閣に対して、中国との国交などを求めた「アジアアフリカ研究会」が源流だろう。こうして自民党内に「ハト派」勢力が誕生した。もとは宇都宮徳馬や田川誠一など、さらに河野洋平や加藤紘一などの人々だ。
1976年にロッキード事件が発覚し、自民党が揺れる中で河野洋平、田川誠一、西岡武夫らが「新自由クラブ」を結成する。新自由クラブは一時自民党と連立を組んだのち、最後は自民党に復党した。その後、93年に「新生党」(小沢一郎、羽田孜らのグループ)や「新党さきがけ」(武村正義や鳩山由紀夫らのグループ)が自民党を離党した。その結果、自民党内に旧福田派の流れをくむ「タカ派」が残って影響力を増し、「リベラル」と言えば自民党以外という印象を持つ人が多くなる。
このように、リベラル派は日本ではもともと「保守勢力内で社会変化に柔軟な改革グループ」と言ったイメージで語られる人々だった。しかし90年以後、世界の在り方が大きく変わり、「新自由主義的改革」が世界で行われると、「リベラル」の意味がまた変わってくる。また世界各国にはそれぞれ独自の事情がある。日本では「日本国憲法をどう考えるか」が「リベラル」の測り方になっている。普通は憲法を守るのが「保守」だと思うが、日本では「憲法を変える」と言うのが「保守」である。一方、日本では世俗社会が定着していて、宗教が政治問題になることはほとんどないが、世界では「リベラル」とは宗教にどう向き合うかという問題と密接に絡んでいる。そのあたりの問題をもう少し。