尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

伊勢宗瑞を知ってるか-戦国時代の関東②

2018年04月18日 23時04分54秒 |  〃 (歴史・地理)
 歴史研究も時代とともに進んでゆき、教科書の記述もだんだん変わってゆく。この間もテレビで「教科書はこう変わった」的番組をやってたけど、一応知ってることばかりだったので何だか安心した。昔の教科書に出てた肖像はどんどん否定され、聖徳太子も足利尊氏も違うとされ、国宝の藤原隆信作とされる源頼朝や平重盛像も作者も人物も全然違うという説が強い。

 4月18日の朝日新聞「経済気象台」というコラムに「日本近代化の立役者」という記事が載っていた。明治150年に際して、目先の利益ではなく社会貢献を重視した渋沢栄一に学ぼうとある。その趣旨は判るけれど、その中で「江戸時代の士農工商の身分制度」と書いている。この「士農工商」はもともと中国の言葉で、江戸時代の日本ではそういう制度はなかった。身分は「武士・百姓・町人」に別れ、身分外のアウトカーストとして被差別民が存在した。このコラムは「第一線で活躍している経済人・学者」が執筆しているから、学校で日本史を学んだままなんだろう。

 人物の扱いも大きく変わる。「聖徳太子」という言葉も使われなくなってきた。「厩戸皇子」(うまやどのみこ)という人物はいたが、さまざまな伝説的出来事は後に作られていったものだと考えるのである。1999年の太山誠一氏の「<聖徳太子>の誕生」以来、論争が続いているが、日本書紀の記述が粉飾されているのは大体認めるだろう。推古天皇の皇太子になったというが、「天皇」じゃない時代に「皇太子」もないだろう。また、江戸時代の浮世絵師で東海道五十三次を描いた「安藤広重」は、今では「歌川広重」である。若い人はその人名しか知らないはずである。

 続いて「伊勢宗瑞」(いせ・そうずい)と言われて何者か判るかどうか? これは日本史の新動向に付いて行ってるかの試金石かもしれない。本名で言えば「伊勢新九郎盛時」になる。この人は「北条早雲」の実名である。戦国大名の北条氏(後北条氏)が北条と名乗ったのは1523年からで、2代目の氏綱の時代。宗瑞は生涯、伊勢氏を名乗っていたし、伊豆の韮山を本拠地としていた。小田原を本拠地としたのも氏綱からである。まあ、北条氏も早雲を初代としたから、北条早雲と呼んでも間違いとも言えない。判りやすいからそれでいいという考えもあるだろう。
(伊勢宗瑞=北条早雲像) 
 昔は北条早雲は「一介の素浪人」という説もあった。いつの間にか今川氏の食客みたいになって、隣国伊豆を経略したという小説を読んだような気がする。今じゃそれは全く否定されていて、室町幕府で政所執事を務める伊勢氏出身とされる。幕府中枢の事務官僚を代々務める一族で、その傍流の備中伊勢氏の出である。父盛定は足利義政の側近で、伊勢氏当主の娘と結婚して盛時が生まれた。素浪人どころか、室町幕府の有力者だったのである。

 盛時の姉妹(どっちか不明)は駿河の守護大名今川氏に嫁いでいた。今川氏も幕府内で重きをなす一族で、応仁の乱で当主今川義忠も上京していたから接点があったのだろう。家格的には同等で、正室と思われているが、義忠は1476年に戦死してしまった。二人の間の子は幼く、家内に家督争いが起こり盛時も下向して調停したとされる。しかし、甥の氏親が大きくなってもなかなか正式の家督を譲られないために、1487年に再度駿河に赴いて反対勢力を打倒した。その後、駿河に城を与えられ、今川氏の家臣となって武士化した。

 そんな伊勢盛時がどうして伊豆に攻め入って戦国大名になって行ったのか。昔は知略を尽くして早雲が成り上がったと言われたものだが、これも最近は中央政治との関連が指摘されている。前回書いたように、関東を治める鎌倉公方は「享徳の乱」をきっかけに分裂し、鎌倉公方・足利成氏は本拠を移して古河公方と呼ばれた。一方、幕府は将軍の異父兄、足利政知(まさとも)を堀越公方として送り込んだが、ついに政知は鎌倉に入れず、20年以上戦って講和する。堀越公方の扱いが難問となったけど、伊豆だけの領主権を認めることで妥協が成立した。
(伝堀越公方跡地)
 政知が1491年に死去した後に家督争いが起こった。正室出生の長男は京で僧になっていたが、次男は母とともに庶子の兄・茶々丸によって殺害されたのである。一方、京都では1493年に将軍・義材と執権・細川政元の関係が悪化して、政元や8代将軍義政の妻・日野富子がクーデタを起こし将軍を廃した(明応の政変)。後継将軍には京都で僧になっていた政知の子を還俗させて就任させた(後の義澄)。新将軍にとっては、茶々丸は生母の殺害犯である。そこで伊豆近隣に城を持つ伊勢盛時に討伐を命じたとされる。中央政界の変動と密接に連動した事件だったのである。

 今の考え方では、中央も関東も「明応の政変」から戦国時代に入ったというのが定説だと思う。関東でも戦国の主役、北条氏が事実上歴史の登場してきたということが大きい。なお、軍記ものでは茶々丸はすぐに自害したとされるが、実際は伊豆南部に逃亡して数年間抵抗したという。1498年に「明応の大地震」が伊豆に大被害を与え、茶々丸も戦闘力を失ったときに盛時が攻め入ったとされる。この間、小田原を攻略し、相模全域に勢力をのばすわけだが、それは次の話。
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