尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

原一男「ニッポン国VS泉南石綿村」

2018年04月26日 23時06分27秒 | 映画 (新作日本映画)
 原一男監督が近年ずっと追いかけていた泉南アスベスト訴訟の記録映画「ニッポン国VS泉南石綿村」を見た。3月10日に公開されたが、何しろ215分という長尺で、一日1回の上映である。つい後回しにしている間に、よく見たら今週で上映修了である。じゃあ、見に行かないといけない。

 これは大変面白い映画だった。実に様々なことを考えさせられる。2006年の国賠訴訟提訴から、2014年の最高裁判決まで、カメラは原告たちの行動をずっと追い続ける。「ゆきゆきて、神軍」(1987)のような突出した登場人物を追う映画ではなく、ニッポン国に住む庶民を撮っている。そういう映画は初めてだが、これがとても面白い。「面白い」という言葉が適切かどうか。「国家の犯罪」と闘う人々ではあるが、「人間を見る」という意味で抜群の面白さだ。村上春樹による地下鉄サリン事件の被害者の記録「アンダーグラウンド」を思い出したが、本当に人間という存在は深い。

 原一男(1945~)監督ももう古希を過ぎている。長編ドキュメンタリーとしては、1994年の「全身小説家」以来。「ゆきゆきて、神軍」からは31年にもなる。デビュー作の「さようならCP」(1972、未見)、「極私的エロス 恋歌1974」(1974)以来、テーマ・内容ともに突出した生き方を描く。良くも悪くも、それが原映画であり、こんな人がいるのか的な驚きが映像で表現されていた。2004年に初の劇映画「またの日の知華」(未見)を作ったが、その後はアスベスト訴訟を撮り続けていた。

 長い映画だから休憩が入るが、前半は原告の証言が多い。そして何人もの原告が判決を待たず亡くなっていく。原告団は韓国に交流に行き、アスベスト鉱山を見に行ったりする。そして原告には韓国系の人も多く、親族が会いに来たりもする。そんな様子をていねいに追い続けるが、後半の冒頭で作家本人が映画に介入してくる。もっと「怒り」を表出しないのかと「挑発」するのである。「訴訟」という行動を起こしたことで、バラバラに地域に潜在していたアスベスト被害者が「可視化」された。だけど、裁判である以上、「敵の土俵」である。国家のルールに則って、整然と訴えないといけない。だが、人間としてもっと怒りが噴出しないのかと問うのである。

 これは非常に難しい問題だ。映画の中でも弁護団に相談せず、首相官邸に建白書を持ってゆこうとするシーンが出てくる。事前のアポがないからダメと門前払いされるわけだが。僕が今まで見た来た裁判支援運動においても、「怒り」は抑えられることが多いように思う。怒りで突出するのは、「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三なんかの場合であって、裁判をすることを決めた以上、弁護団と協力して整然とやらないと勝てるものも勝てない。そういうこともあるけれど、長い時間が経過して「怒り」の段階は終わっていることが多いんだと思う。

 アスベスト(石綿=映画内で「いしわた」とも「せきめん」とも言っている)は、もともと劣悪な小企業で作られていた。泉南というのは、大阪の一番南、和歌山県に面したあたりで、そこらへんに小工場が集中していた。工場には石綿が舞い、肺を悪くして若くして死ぬ人も多い。だから労働者が居つかない。誰でもすぐ雇ってもらえる。朝鮮や沖縄の出身者がいるし、遠くの隠岐からも来る。そういう「構造的労災」だったことが映画を見ているとだんだん判ってくる。

 だが、それは逆から見ると、なんとか雇ってもらって、その稼ぎで子どもを学校に行かせた、そんな誇りの仕事でもあった。国家と闘うに際して、その二重性がどう現れてくるのか。映画が始まったら見続けるしかない非常に充実した映画体験だった。単なる裁判のドキュメンタリーに止まらない、「日本」と「人間」を考えさせる映画だ。今年の映画の何本かに間違いなく入る収穫だと思う。
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