高島平周辺の散歩の2回目。暖かくなると散歩に行きたくなる。出掛けた日は北風が吹いた涼しい曇りの日で、年に何回もない散歩日和だった。もう晴れ渡ると暑いぐらいで、地下鉄は冷房を入れているから注意がいる。さて、都営地下鉄三田線の高島平で降りて、行きたいところがあった。(美術館だけなら終点の西高島平の方が近い。)それは「旧粕谷家(東の隠居)住宅」という古民家で、今年の1月31日から公開されている。新聞で見て知ったんだけど、行き方がよく判らない。でも今はスマホですぐ道案内が出てくるから、確かに便利なんだよな。

高島平駅から西へ団地を抜けると、高速道路がある。そこを過ぎると坂道になっている。ここら辺は「武蔵野台地」の東のはずれの方で、案外アップダウンがあってビックリした。そんな中を丘の上の小学校をぐるっと回って探し回りながら、やっと「粕谷家」を見つける。案内板のようなものがない。2007年に所有者から区に寄贈され、建築当初の様子を復元した。「享保八年」(1723年)の建立を示す墨書が発見されたという。こういう古民家は何度も見てるけど、正直言って細かい違いは判らない。でも関東最古級の民家だというから貴重である。
そこから高速道路の下まで降りて行くと、赤塚公園になっている。この公園も昔は城の一部らしいが、なかなかいい散歩コースだ。そこを10分ぐらい北へ歩くと、赤塚溜池公園。もとは赤塚城の堀の一部だったともいう溜池で、多くの人が釣りをしていた。
溜池公園に「板橋区立郷土資料館」と「板橋区立美術館」がある。溜池の真ん前が郷土資料館で、そこにも「旧田中家」という古民家が移築されている。こっちは江戸時代後半というだけで、具体的な建築年代は書いてない。屋根は萱葺きじゃなくて、稲わらとススキだという。大まかには粕谷家と同じような感じで、細かい違いは判らない。近世の板橋は中山道の最初の宿場町で、宿駅の負担もあった。また鷹狩で将軍が立ち寄る場所でもあった。資料館には様々な実物史料が展示されている。明治になって貸座敷となった新藤楼の門が館前にあって興味深い。
(真ん中が旧田中家、最後が新藤楼)
資料館の前が高台になっていて、赤塚城の説明板がある。階段を上り切ると、広い原っぱになっていて、今はどこにも城の面影はない。関東の中世のお城には、そういうのが多い。丘というか台地というか、自然の地形を利用して堀を整備して敵に備える。この一帯は荒川に近く、交通の要衝だった。1回目に書いたように、城の主は千葉氏で1456年と伝えられる。江戸時代になると、幕府のおひざ元で大きな城は必要ないから、中世の城跡はよほど大きな山城以外は荒廃して、ほとんど址も判らない。赤塚城もそんな感じ。関東の中世史を勉強しないといけないなあと思う。

ところで今では高齢化が進む一方という高島平団地。昔は「自殺の名所」なんてありがたくない名所だった時代もある。(今は防備のフェンスが設置されている。)団地に住んだことがないので、感覚的によく判らないんだけど、とにかくここはどこまでも高層団地が並んでいるのは壮観だった。美術館から東京大仏、松月院を見た後は、東上線下赤塚駅に向かって帰った。



高島平駅から西へ団地を抜けると、高速道路がある。そこを過ぎると坂道になっている。ここら辺は「武蔵野台地」の東のはずれの方で、案外アップダウンがあってビックリした。そんな中を丘の上の小学校をぐるっと回って探し回りながら、やっと「粕谷家」を見つける。案内板のようなものがない。2007年に所有者から区に寄贈され、建築当初の様子を復元した。「享保八年」(1723年)の建立を示す墨書が発見されたという。こういう古民家は何度も見てるけど、正直言って細かい違いは判らない。でも関東最古級の民家だというから貴重である。
そこから高速道路の下まで降りて行くと、赤塚公園になっている。この公園も昔は城の一部らしいが、なかなかいい散歩コースだ。そこを10分ぐらい北へ歩くと、赤塚溜池公園。もとは赤塚城の堀の一部だったともいう溜池で、多くの人が釣りをしていた。


溜池公園に「板橋区立郷土資料館」と「板橋区立美術館」がある。溜池の真ん前が郷土資料館で、そこにも「旧田中家」という古民家が移築されている。こっちは江戸時代後半というだけで、具体的な建築年代は書いてない。屋根は萱葺きじゃなくて、稲わらとススキだという。大まかには粕谷家と同じような感じで、細かい違いは判らない。近世の板橋は中山道の最初の宿場町で、宿駅の負担もあった。また鷹狩で将軍が立ち寄る場所でもあった。資料館には様々な実物史料が展示されている。明治になって貸座敷となった新藤楼の門が館前にあって興味深い。



資料館の前が高台になっていて、赤塚城の説明板がある。階段を上り切ると、広い原っぱになっていて、今はどこにも城の面影はない。関東の中世のお城には、そういうのが多い。丘というか台地というか、自然の地形を利用して堀を整備して敵に備える。この一帯は荒川に近く、交通の要衝だった。1回目に書いたように、城の主は千葉氏で1456年と伝えられる。江戸時代になると、幕府のおひざ元で大きな城は必要ないから、中世の城跡はよほど大きな山城以外は荒廃して、ほとんど址も判らない。赤塚城もそんな感じ。関東の中世史を勉強しないといけないなあと思う。



ところで今では高齢化が進む一方という高島平団地。昔は「自殺の名所」なんてありがたくない名所だった時代もある。(今は防備のフェンスが設置されている。)団地に住んだことがないので、感覚的によく判らないんだけど、とにかくここはどこまでも高層団地が並んでいるのは壮観だった。美術館から東京大仏、松月院を見た後は、東上線下赤塚駅に向かって帰った。

