尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る

2018年04月24日 22時47分22秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸座で「白黒映画の美学」という特集上映をやっている。このレベルの企画だともう全部見てる映画なんだけど、見直したい映画が組まれてたので、22日に「おとし穴」と「砂の女」、23日に「泥の河」と「麻雀放浪記」を再見した。どれも面白く見たけれど、ここでは「砂の女」にしぼって書いておきたい。「砂の女」(1964)はもちろん安部公房原作の大傑作を映画化したもので、内外で非常に高く評価された。キネ旬1位、毎日映画コンクールやブルーリボン賞の作品賞、カンヌ映画祭審査員賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートといった具合である。
 
 原作を読んだのも、映画を見たのも、もう何十年も前だから、具体的なシーンは忘れているところも多い。でも、基本的なアイディアは忘れようがない。映画を見ている間中、見ている観客にも砂が入ってくるかのような圧迫感に襲われる。圧倒的な映画だなあと思った。今回は撮影監督を重視した特集なので、撮影は瀬川浩という人かと思った。監督の勅使河原宏(てしがはら・ひろし)と組んで「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」を撮り、その後は武田敦「沖縄」や深作欣二「軍旗はためく下に」などにクレジットされている。光と影のコントラストが強調され、砂の映像の迫力がすごい。

 昆虫採集を趣味とする教師(岡田英次)が休暇を取って砂丘にやってくる。砂丘に住むハンミョウを探して、新種を見つけたいのである。休んでいるうちに終バスを逃して、村人から砂の下にある家に泊って行くように勧められる。そこは砂にのまれて夫と子どもを失った女(岸田今日子)が一人で住んでいた。縄梯子を下りて家に下りていくが、翌朝には梯子が上げられて帰れない。女は毎夜「砂かき」を続け、村人がそれを引き取る。代わりに「配給」を村からもらって暮らしている。男は何とか脱出しようと試みるが、蟻地獄の底みたいな家だから出ていけない。
(岡田英次と岸田今日子)
 こうして「砂の女」に囚われた男はどうなるか。二人の関係は? という展開は原作と大体同じだから、ここでは書かない。原作を読んでるだけじゃわからない、「砂」の官能的なまでの存在感が映像で捉えられている。女が「砂は湿気を呼ぶ」というと、男は初めのうちは信じない。湿気を避けるためと言って、女は砂かきが終わると裸で寝ている。岸田今日子はいつものフシギ感が全開で、何とも言えない魅力というか魔力というか、砂が絡みついてくる感じがすごい。「アラビアのロレンス」とは違って、やはり湿潤な日本の風土を象徴する砂なのである。

 安部公房(1924~1993)は60年代初期まで日本共産党に所属していたが、初期のころから「社会主義リアリズム」とは全然違う作風だった。シュールレアリスムやSF的な作風から、カフカと比較されたりした。不条理文学と呼ばれ、世界的に評価が高かった。68歳で亡くなったが、生前からノーベル賞有力と言われ、受賞目前だったとされる。でも、マジック・リアリズム的な描写ではなく、「砂」も「女」も「集落」もいかにもありそうな日本の現実を描いている。そこが怖い。読んでるときには非現実感もあるが、映像で見ると納得させられてしまう。(静岡県浜岡町で撮影された。)

 「砂かき」は毎日続く。取っても取っても、また新たに崩れてくる。そんなことをして何の意味があるのか。男は自分には仕事があると最初は言う。そのうち、こんなことをしていないで、東京へ行こうとまで女に言う。僕も若いときに読んだ時は、これは「シーシュポス」だと思った。ギリシャ神話に出てくる、岩を積んでは崩れてくるという罰を受けた話である。つまり「徒労」である。これに対し、違った見方を出しているのが河合隼雄氏の「中年クライシス」である。

 「砂かき」を徒労と呼ぶなら、かつて男が仕事にしていた教師の仕事は徒労じゃないのか。医者や弁護士は人もうらやむ名誉も報酬も高い職業だけど、やっぱり何十年もやっていれば同じような仕事にウンザリしてくるんじゃないか。だから、大体の人がやってる仕事は、お金をもらえる以外にどんな意味があるのか、だんだん判らなくなる。そんな気持ちは40代、50代ぐらいの人の多くが持っているんじゃないか。それが「砂の女」の隠された意味だというのである。そして、誰にも何の意味があるか判らない、世の中で一番どうでもいいような「砂かき」こそ、世界の最前線で戦う「前衛」なんだという。これは教育や福祉に携わる人なら、なるほどそうかと思えるんじゃないか。

 こうして、「囚われの男」の物語から「世界の最前線」の物語に読み替える時、「砂の女」の新しい意味が立ち上がってくると思う。ほとんど岡田、岸田の二人の映画だが、村人の代表みたいな三井弘次もすごい。ずるい感じの役柄には絶品で、小津や黒澤の多くの映画に出た名優である。また武満徹の音楽が素晴らしい。武満は多くの映画音楽を担当しているが、特にこの頃「怪談」など代表作を作っている。武満徹の「砂の女」への貢献は大きい。

 監督の勅使河原宏(1927~2001)は、華道の草月流を一代で築いた勅使河原蒼風の長男。50年代には記録映画を作っていたが、1961年に安部公房原作のテレビドラマ「おとし穴」を初の長編として製作した。筑豊の炭鉱を舞台に労働組合の分裂を背景にしているが、社会派というより、前衛的不条理劇の印象が強い。その後、「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」と安部公房三部作を監督したが、圧倒的に「砂の女」の完成度が高い。(アカデミー賞の監督賞にもノミネートされた。日本人では「乱」の黒澤明と二人しかいない。)

 父の死後、草月流後継となった妹、勅使河原霞が一年で急死したため、1980年に草月流三代目家元を継いだ。その後も「利休」など映画も作ったけれど、華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。
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