板橋区立美術館の周辺には史跡がいっぱいある。ついでに、いろいろと回ってみたが、まったく知らない地域である。大体、板橋区めざして出かけたことも人生で1、2回しかないと思う。そのぐらい板橋区って縁遠い。美術館もよりの高島平には、1972年から入居が始まった「東洋一」の高島平団地(当時はよく「東洋一」と言われたもんだ)があるのは知ってたけど、行ったこともなかった。後で書くけど、高島平という地名そのものが歴史だった。いや、知らなかったなあ。
美術館などがある「赤塚溜池公園」から「東京大仏通り」を5分ほど行くと、乗蓮寺(じょうれんじ)がある。そこに「東京大仏」がある。なんでも奈良、鎌倉に次ぐ全国3位だとか。「青銅製の鋳造仏像としては」という限定付きだけど。首都高建設により1973年に今の場所に移転され、1877年に大仏を作った。天保飢饉供養塔などの他、駒込にあった藤堂家下屋敷にあった多くの石像が置かれている。下の3枚目の写真は、「役小角」(えんのおづぬ)で、他にもたくさんあった。

乗蓮寺の近くの松月院(しょうげついん)に幕末の砲術家・高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の顕彰碑がある。長崎で西洋式砲術を学び、高島流砲術を完成させた。アヘン戦争後の1841年、危機感を持った秋帆は江戸に出て公開演習を行った。その時に弟子たちと泊ったのが松月院で、近くの徳丸が原で砲術を行った。それで「高島平」という地名が作られたのである。
(2枚目が秋帆顕彰碑)
ここは中世に千葉自胤(ちば・よりたね)が近くの赤塚城に移ってきて、近くの寺を菩提寺と定め松月院と名前を改めさせた。千葉氏というわけだから、もともと下総の一族だけど、鎌倉公方や関東管領の上杉氏が分裂して争った「享徳の乱」で、一族が分裂して自胤は武蔵に逃れた。その後、後北条氏に仕えたが秀吉の小田原征服で滅んだ。その移ってきた自胤の墓と伝えられるものが今も残っている。また「次郎物語」で有名な作家、下村湖人の墓もある。

もう一つ、この松月院は三遊亭圓朝の有名な怪談「乳房榎」の舞台とされたところである。今の寺域から外れた道沿いにあるので、なかなか見つけにくいけど、記念碑がある。それも道沿いにフェンスがあって近づけない。お参りすると乳が出るようになる榎ということだけど、それはよく判らない。「乳房榎」は「牡丹灯籠」ほど知られていないけど、面白い話だ。因縁話がわかりにくいけど。ここだったのか。何だか長くなってきたので赤塚城や古民家の話はもう一回別に。
(これが乳房榎)
美術館などがある「赤塚溜池公園」から「東京大仏通り」を5分ほど行くと、乗蓮寺(じょうれんじ)がある。そこに「東京大仏」がある。なんでも奈良、鎌倉に次ぐ全国3位だとか。「青銅製の鋳造仏像としては」という限定付きだけど。首都高建設により1973年に今の場所に移転され、1877年に大仏を作った。天保飢饉供養塔などの他、駒込にあった藤堂家下屋敷にあった多くの石像が置かれている。下の3枚目の写真は、「役小角」(えんのおづぬ)で、他にもたくさんあった。



乗蓮寺の近くの松月院(しょうげついん)に幕末の砲術家・高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の顕彰碑がある。長崎で西洋式砲術を学び、高島流砲術を完成させた。アヘン戦争後の1841年、危機感を持った秋帆は江戸に出て公開演習を行った。その時に弟子たちと泊ったのが松月院で、近くの徳丸が原で砲術を行った。それで「高島平」という地名が作られたのである。


ここは中世に千葉自胤(ちば・よりたね)が近くの赤塚城に移ってきて、近くの寺を菩提寺と定め松月院と名前を改めさせた。千葉氏というわけだから、もともと下総の一族だけど、鎌倉公方や関東管領の上杉氏が分裂して争った「享徳の乱」で、一族が分裂して自胤は武蔵に逃れた。その後、後北条氏に仕えたが秀吉の小田原征服で滅んだ。その移ってきた自胤の墓と伝えられるものが今も残っている。また「次郎物語」で有名な作家、下村湖人の墓もある。


もう一つ、この松月院は三遊亭圓朝の有名な怪談「乳房榎」の舞台とされたところである。今の寺域から外れた道沿いにあるので、なかなか見つけにくいけど、記念碑がある。それも道沿いにフェンスがあって近づけない。お参りすると乳が出るようになる榎ということだけど、それはよく判らない。「乳房榎」は「牡丹灯籠」ほど知られていないけど、面白い話だ。因縁話がわかりにくいけど。ここだったのか。何だか長くなってきたので赤塚城や古民家の話はもう一回別に。


