関東地方の中世史をもっと知りたいなと前から思っていた。この前古河公方公園に花桃を見に行った。古河公方の名前ぐらい知ってるけど、細かいことはよく知らない。信長や秀吉の戦いはいっぱい知っているのに、地元の関東地方を知らない。これは関東の歴史ファンの多くに共通するだろう。そこで買ってあった本をこの機会に読んでみようじゃないか。
まずは峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ、2017)を読んでみた。この本は中世史の大家、峰岸純夫(1932~)さんの「最後の仕事」(あとがきにそう書いてある)で、85歳にして「年来の宿願」の本書を著したのである。先に取り上げた呉座勇一氏のベストセラー「応仁の乱」の「関東への無関心」にガッカリして、それもあってこの本を書いたという。10月に出て、11月にはもう3刷とあるからけっこう売れている。
と言われても、享徳(きょうとく)の乱って何だ?という人が多いだろう。そもそも名前さえ付いてなかった大乱に、「享徳の乱」と名を付けたのが若き日の峰岸氏なのである。今では高校日本史Bの教科書にも載っているというが、よく判らない人が多いだろう。(漢字変換も一発ではできない。)しかし、著者によれば、享徳の乱をもって関東から戦国時代が始まったのであり、中央の応仁の乱も関東の争乱がもとになって波及したものだとある。
そこまで言えるかはともかく、それだけの重大な意味を持つ大戦乱を肝心の関東の人がほとんど忘れてる。何故だろうかと言うと、「歴史の上書き保存現象」だろう。歴史に大きな変化が起きると、勝った側の歴史は伝わって、負けた側の存在は記憶が上書きされて忘れられる。関東の戦国時代では、多くの戦乱を経て北条氏がほぼ統一を果たした。北条氏も豊臣秀吉の全国統一に屈して消え去った。その後は徳川家の支配下になったから、2回上書きされ以前の記憶が薄れてしまう。
享徳の乱は、1454年に始まり1482年まで続いた。30年はないけど、応仁・文明の乱より長い。中央ではその間年号がいくつも代わったけど、中央の室町幕府と関東の古河公方は対立関係にあり、関東ではずっと享徳の元号を使い続けた。長い戦乱の間、関東ではずっと享徳だったのである。乱のきっかけは、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことである。こういうのを峰岸氏は「上剋下」と呼んでいる。下が上を倒すと「下剋上」だけど、そうなりそうな情勢を察知して主君の側が先んじて下を倒す。そんなケースも多かった。
室町時代の政治ステムでは、京都に将軍と補佐役の管領(かんれい)がいて、関東には鎌倉府が置かれて「鎌倉公方」と補佐役の「関東管領」がいた。武家政権のふるさと鎌倉は独自の政治的重みを持っていた。初代鎌倉公方に尊氏の子、足利基氏が就任し、以後その子孫が継いだ。鎌倉公方は将軍に対抗心を持ち、波風が絶えなかった。6代将軍義教の時代には、4代鎌倉公方持氏と対立が激しく、1438年の永享の乱で鎌倉府は滅ぼされてしまった。1439年に持氏が自害し、翌1440年に遺児を押し立てて茨城県西部の結城氏が決起したが敗北した(結城合戦)。
6代将軍義教も1441年の嘉吉の変で殺された。8代将軍義政の時代には、もう一人残っていた持氏の遺児、足利成氏を公方にして鎌倉府が再興された。だが父を殺された恨みが深かったらしく、成氏はことごとく幕府に反抗的で、関東管領を務める上杉氏とは対立が絶えない。関東管領は幕府中央と鎌倉公方をつなぐのが職責だから、代々務める上杉氏は公方と関係が悪化する。その結果、1454年12月27日に成氏が管領上杉憲忠を殺すまでに至り、関東を二分する大争乱が始まった。成氏は本拠の鎌倉が駿河の今川氏に占領されて、下総古河(現・茨城県)に移った。それを古河公方と呼ぶ。
(古河公方館跡)
この戦乱により、関東各地で一族の争いが起こった。1458年に、将軍義政はついに古河公方を完全に否定して、異母兄の足利政知を新公方として送り込んだ。しかし、政知は鎌倉へ入れず伊豆の堀越(ほりごえ)に館を築き「堀越公方」と呼ばれた。その後の争いを細かく見ていくと、いくらあっても終わらない。結局30年近く戦って、おおよそ利根川をはさんで、東が古河公方、西が上杉氏という勢力に落ち着いた。(この頃、利根川は東京湾に流れ込んでいた。)中央の応仁の乱も終わった後の、1482年になってようやく和平が結ばれることになる。
その後、北条氏が出てきて、古河公方を利用しながら上杉氏の領国をだんだん侵食していく。そもそも、「北条氏」と「上杉氏」って言っても、よく判ってない人が多いだろう。上杉氏にもいろいろあり、主流は山内(やまのうち)で、他に扇谷(おうぎがやつ)とか犬懸(いぬがけ)などがある。全部鎌倉の地名。扇谷上杉氏の家宰だったのが、江戸城を築いた太田道灌である。
ここまでで話が長くなったけど、享徳の乱以後関東は戦乱が相次ぐようになる。じゃあ、関東から戦国時代が始まったのか? 今では中央でも応仁の乱ではなく、1493年の「明応の政変」から戦国時代と呼ぶことが多い。戦国時代とは何か。戦争が相次いだといえばその通りだけど、要するに「戦国大名」の時代が戦国時代である。室町時代は「守護大名」である。守護大名やあるいは下克上した守護代クラスが戦国大名化してゆく。守護領国制の「職(しき)」の体系から、領国を一円知行する体制に移行していったのが戦国時代。
難しい話は今は説明しないけど、この段階の古河公方や上杉氏は到底まだ戦国大名とは言えない。だけど、峰岸氏は領地がまとまった支配になりつつあり、「戦国領主」と言えるのではないかとする。つまり戦国大名の前段階の「戦国領主」が関東の享徳の乱から出てきた。それが関東中世史の意義だということになる。足利成氏は1497年に亡くなるまでずっと公方を続けたが、一枚の肖像も伝わらないという。その後の戦国大名に比べると知名度が低いののやむを得ないか。そんな享徳の乱という大戦争が関東にあったわけである。判りやすくて面白い名著。
まずは峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ、2017)を読んでみた。この本は中世史の大家、峰岸純夫(1932~)さんの「最後の仕事」(あとがきにそう書いてある)で、85歳にして「年来の宿願」の本書を著したのである。先に取り上げた呉座勇一氏のベストセラー「応仁の乱」の「関東への無関心」にガッカリして、それもあってこの本を書いたという。10月に出て、11月にはもう3刷とあるからけっこう売れている。
と言われても、享徳(きょうとく)の乱って何だ?という人が多いだろう。そもそも名前さえ付いてなかった大乱に、「享徳の乱」と名を付けたのが若き日の峰岸氏なのである。今では高校日本史Bの教科書にも載っているというが、よく判らない人が多いだろう。(漢字変換も一発ではできない。)しかし、著者によれば、享徳の乱をもって関東から戦国時代が始まったのであり、中央の応仁の乱も関東の争乱がもとになって波及したものだとある。
そこまで言えるかはともかく、それだけの重大な意味を持つ大戦乱を肝心の関東の人がほとんど忘れてる。何故だろうかと言うと、「歴史の上書き保存現象」だろう。歴史に大きな変化が起きると、勝った側の歴史は伝わって、負けた側の存在は記憶が上書きされて忘れられる。関東の戦国時代では、多くの戦乱を経て北条氏がほぼ統一を果たした。北条氏も豊臣秀吉の全国統一に屈して消え去った。その後は徳川家の支配下になったから、2回上書きされ以前の記憶が薄れてしまう。
享徳の乱は、1454年に始まり1482年まで続いた。30年はないけど、応仁・文明の乱より長い。中央ではその間年号がいくつも代わったけど、中央の室町幕府と関東の古河公方は対立関係にあり、関東ではずっと享徳の元号を使い続けた。長い戦乱の間、関東ではずっと享徳だったのである。乱のきっかけは、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことである。こういうのを峰岸氏は「上剋下」と呼んでいる。下が上を倒すと「下剋上」だけど、そうなりそうな情勢を察知して主君の側が先んじて下を倒す。そんなケースも多かった。
室町時代の政治ステムでは、京都に将軍と補佐役の管領(かんれい)がいて、関東には鎌倉府が置かれて「鎌倉公方」と補佐役の「関東管領」がいた。武家政権のふるさと鎌倉は独自の政治的重みを持っていた。初代鎌倉公方に尊氏の子、足利基氏が就任し、以後その子孫が継いだ。鎌倉公方は将軍に対抗心を持ち、波風が絶えなかった。6代将軍義教の時代には、4代鎌倉公方持氏と対立が激しく、1438年の永享の乱で鎌倉府は滅ぼされてしまった。1439年に持氏が自害し、翌1440年に遺児を押し立てて茨城県西部の結城氏が決起したが敗北した(結城合戦)。
6代将軍義教も1441年の嘉吉の変で殺された。8代将軍義政の時代には、もう一人残っていた持氏の遺児、足利成氏を公方にして鎌倉府が再興された。だが父を殺された恨みが深かったらしく、成氏はことごとく幕府に反抗的で、関東管領を務める上杉氏とは対立が絶えない。関東管領は幕府中央と鎌倉公方をつなぐのが職責だから、代々務める上杉氏は公方と関係が悪化する。その結果、1454年12月27日に成氏が管領上杉憲忠を殺すまでに至り、関東を二分する大争乱が始まった。成氏は本拠の鎌倉が駿河の今川氏に占領されて、下総古河(現・茨城県)に移った。それを古河公方と呼ぶ。
(古河公方館跡)
この戦乱により、関東各地で一族の争いが起こった。1458年に、将軍義政はついに古河公方を完全に否定して、異母兄の足利政知を新公方として送り込んだ。しかし、政知は鎌倉へ入れず伊豆の堀越(ほりごえ)に館を築き「堀越公方」と呼ばれた。その後の争いを細かく見ていくと、いくらあっても終わらない。結局30年近く戦って、おおよそ利根川をはさんで、東が古河公方、西が上杉氏という勢力に落ち着いた。(この頃、利根川は東京湾に流れ込んでいた。)中央の応仁の乱も終わった後の、1482年になってようやく和平が結ばれることになる。
その後、北条氏が出てきて、古河公方を利用しながら上杉氏の領国をだんだん侵食していく。そもそも、「北条氏」と「上杉氏」って言っても、よく判ってない人が多いだろう。上杉氏にもいろいろあり、主流は山内(やまのうち)で、他に扇谷(おうぎがやつ)とか犬懸(いぬがけ)などがある。全部鎌倉の地名。扇谷上杉氏の家宰だったのが、江戸城を築いた太田道灌である。
ここまでで話が長くなったけど、享徳の乱以後関東は戦乱が相次ぐようになる。じゃあ、関東から戦国時代が始まったのか? 今では中央でも応仁の乱ではなく、1493年の「明応の政変」から戦国時代と呼ぶことが多い。戦国時代とは何か。戦争が相次いだといえばその通りだけど、要するに「戦国大名」の時代が戦国時代である。室町時代は「守護大名」である。守護大名やあるいは下克上した守護代クラスが戦国大名化してゆく。守護領国制の「職(しき)」の体系から、領国を一円知行する体制に移行していったのが戦国時代。
難しい話は今は説明しないけど、この段階の古河公方や上杉氏は到底まだ戦国大名とは言えない。だけど、峰岸氏は領地がまとまった支配になりつつあり、「戦国領主」と言えるのではないかとする。つまり戦国大名の前段階の「戦国領主」が関東の享徳の乱から出てきた。それが関東中世史の意義だということになる。足利成氏は1497年に亡くなるまでずっと公方を続けたが、一枚の肖像も伝わらないという。その後の戦国大名に比べると知名度が低いののやむを得ないか。そんな享徳の乱という大戦争が関東にあったわけである。判りやすくて面白い名著。