年末は宮地正人「幕末維新変革史」(上下、岩波現代文庫)をずっと読んでいた。何しろ上下2巻合わせれば、計1100頁にもなろうという研究書なので、全然進まない。2012年に原著が出て、その時から読みたいと思っていた。近所の図書館にもあるけれど、分厚いなあと思ってるうちに、「明治150年」の年に岩波現代文庫に入った。高いけど、思い切って買ってしまい、買った以上は読まないともったいないから読み始めた。
この本は一般向きに勧めるには長すぎる。まあ読まなくてもいい、というか普通は見ただけで敬遠するだろう。でもたくさんの重要な指摘が詰まっている。近代史に関して深く考えたい人は是非読んでおくべきだ。史料もいっぱい入っているから、損はない。(読む時は史料は適宜飛ばしていい。)宮地氏の最初の著書は「日露戦後政治史の研究」だが、その後さかのぼっていって、幕末期の研究が主になった。ペリー来航から西南戦争まで、たった一人で全部書いちゃう人は今後出ないと思う。僕もずいぶん幕末維新期の本を読んできたけど、小説以外では一番長大な本だ。(小説を入れれば「龍馬がゆく」だろう。)
何しろ幕末維新の全過程が論述されているから、いろんな問題が出てくる。全部書いてるヒマはないが、せっかく読んだからいくつか書いておきたい。この本では「巨視的」な観点と「微視的」な観点、政局史的な分析と地域史、人物史的な分析が交互に織りなされている。そのような構成自体が重要だと思うが、特に「国際的な視点」を重視している。世界史の前提を押さえるための記述が長くて、200頁読んでもペリーが来ただけ。
さて、ペリーに遅れること一カ月半後に、ロシアのプチャーチンが長崎に来る。そのことはどんな教科書にも出ているが、ちょうどその頃ロシアは英仏とのクリミア戦争が始まり、極東の海上でもし烈な争いが起こったことはこの本で初めて詳しく知った。ペリーが来た時に、そのことはあっという間に全国に広まった。武士に限らず、豪農、豪商層には藩単位を超えた「公論」ともいうべき言論空間が成立していた。そのことの重要性をことある度に史料で示してゆく。
特に「水戸学」と「平田国学」の盛衰は非常に興味深かった。幕末政局の激動は、井伊大老による「勅許なしの(日米修好通商)条約調印」に対して、朝廷が水戸藩に「密勅」を下すことで始まる。その横紙破りの破天荒な事態に対し、幕府(井伊大老)側も苛烈な大弾圧(安政の大獄)で対抗した。この段階では「水戸藩」が政局の波乱要因であり、そのイデオロギー的背景が「水戸学」である。水戸藩で熟成された朱子学的名分論は、確かに「尊王論」ではあるけれど、御三家である水戸藩が反幕府であるわけがない。「水戸藩」はパンドラの箱を開ける役割を担って、その後壮絶な内戦を起こして人材が完全にいなくなってしまった。
一方、平田篤胤(あつたね、1776~1943)の国学は幕末に大きな影響を与えた。近代日本文学の最高峰、島崎藤村「夜明け前」を読んだ人は、そのことを印象深く覚えているだろう。(この本でも折に触れて、「夜明け前」事情が語られている。)平田篤胤自体は天保時代に死亡しているが、私塾の「気吹舎」(いぶきのや)を養子の鐵胤(かねたね)が継いで、「没後の門人」を取っていた。しかし、平田国学はどうにも神がかり的すぎて、僕には理解不能だ。
でもこの本の史料を見ると、人々がなぜ平田国学を求めたかが何となく判る気がした。水戸藩の勢威が衰え「水戸学」の威信も落ちる。「儒学」や「仏教」を否定する平田国学は、今から見るとあまりにも偏狭な気がしてしまう。しかし、儒仏の発祥地であるインドや中国はどうなっているか。イギリスに負けて植民地(半植民地)になっているではないか。儒教、仏教に頼っても「洋夷」に勝てるのか。今信じるべきは、元寇を打ち払った「神国」日本ではないのか。外国事情に詳しくない段階で、人々が国学に惹かれて行ったのも当然か。「偏狭なナショナリズム」と決めつけるだけでは、当時の人々の切なる思いに気付かなくなる。
この本は一般向きに勧めるには長すぎる。まあ読まなくてもいい、というか普通は見ただけで敬遠するだろう。でもたくさんの重要な指摘が詰まっている。近代史に関して深く考えたい人は是非読んでおくべきだ。史料もいっぱい入っているから、損はない。(読む時は史料は適宜飛ばしていい。)宮地氏の最初の著書は「日露戦後政治史の研究」だが、その後さかのぼっていって、幕末期の研究が主になった。ペリー来航から西南戦争まで、たった一人で全部書いちゃう人は今後出ないと思う。僕もずいぶん幕末維新期の本を読んできたけど、小説以外では一番長大な本だ。(小説を入れれば「龍馬がゆく」だろう。)
何しろ幕末維新の全過程が論述されているから、いろんな問題が出てくる。全部書いてるヒマはないが、せっかく読んだからいくつか書いておきたい。この本では「巨視的」な観点と「微視的」な観点、政局史的な分析と地域史、人物史的な分析が交互に織りなされている。そのような構成自体が重要だと思うが、特に「国際的な視点」を重視している。世界史の前提を押さえるための記述が長くて、200頁読んでもペリーが来ただけ。
さて、ペリーに遅れること一カ月半後に、ロシアのプチャーチンが長崎に来る。そのことはどんな教科書にも出ているが、ちょうどその頃ロシアは英仏とのクリミア戦争が始まり、極東の海上でもし烈な争いが起こったことはこの本で初めて詳しく知った。ペリーが来た時に、そのことはあっという間に全国に広まった。武士に限らず、豪農、豪商層には藩単位を超えた「公論」ともいうべき言論空間が成立していた。そのことの重要性をことある度に史料で示してゆく。
特に「水戸学」と「平田国学」の盛衰は非常に興味深かった。幕末政局の激動は、井伊大老による「勅許なしの(日米修好通商)条約調印」に対して、朝廷が水戸藩に「密勅」を下すことで始まる。その横紙破りの破天荒な事態に対し、幕府(井伊大老)側も苛烈な大弾圧(安政の大獄)で対抗した。この段階では「水戸藩」が政局の波乱要因であり、そのイデオロギー的背景が「水戸学」である。水戸藩で熟成された朱子学的名分論は、確かに「尊王論」ではあるけれど、御三家である水戸藩が反幕府であるわけがない。「水戸藩」はパンドラの箱を開ける役割を担って、その後壮絶な内戦を起こして人材が完全にいなくなってしまった。
一方、平田篤胤(あつたね、1776~1943)の国学は幕末に大きな影響を与えた。近代日本文学の最高峰、島崎藤村「夜明け前」を読んだ人は、そのことを印象深く覚えているだろう。(この本でも折に触れて、「夜明け前」事情が語られている。)平田篤胤自体は天保時代に死亡しているが、私塾の「気吹舎」(いぶきのや)を養子の鐵胤(かねたね)が継いで、「没後の門人」を取っていた。しかし、平田国学はどうにも神がかり的すぎて、僕には理解不能だ。
でもこの本の史料を見ると、人々がなぜ平田国学を求めたかが何となく判る気がした。水戸藩の勢威が衰え「水戸学」の威信も落ちる。「儒学」や「仏教」を否定する平田国学は、今から見るとあまりにも偏狭な気がしてしまう。しかし、儒仏の発祥地であるインドや中国はどうなっているか。イギリスに負けて植民地(半植民地)になっているではないか。儒教、仏教に頼っても「洋夷」に勝てるのか。今信じるべきは、元寇を打ち払った「神国」日本ではないのか。外国事情に詳しくない段階で、人々が国学に惹かれて行ったのも当然か。「偏狭なナショナリズム」と決めつけるだけでは、当時の人々の切なる思いに気付かなくなる。