2023年7月11日に、母親が死去しました。享年95歳でした。しばらく、ニュースにも気持ちが集中しません。このブログもしばらく更新しない心づもりです。「海の日」三連休明け頃に再開したいと思ってます。「服喪期間」とご理解ください。
母親に関しては、年末に入院した経緯を『母の病状について』として書いています。最終更新が2月2日になってるけど、その後は書いていませんでした。救急病院に運ばれて、年末には「何があってもおかしくない」と宣告されたものの、その後、病状が不思議なことに「一種の安定」になっていきました。年齢を考えても想定外でした。
その頃から、「転院」の話が出て、2月21日に次の病院に移りました。コロナ禍で面会が出来ない中、その日がしばらくぶりに会えた日となりました。簡単な会話が出来、生後半年ぐらいのひ孫を見て「かわいい」などという言葉が出て来たので驚きました。その後、当初は系列のクリニックにて、2ヶ月後に隣の「療養型病院」に移り、そこにずっと入院していました。
そちらも基本的に面会は出来ず、4月に一回だけ病状説明の時に会ったのが最後になりました。その時も2月と同じ感じで、ゼリー状のものなら少し食べられるという話で、簡単な会話も出来ました。その後も「年齢からしても急に何があるか判らない」と言われながらも、特に病状悪化という連絡もなく、前夜も食べて会話もあったということでした。
11日朝に病院から「呼吸していない」との電話がありました。後で着信履歴を見たら、午前5時6分でした。オムツ交換に向かったら、呼吸がなかったと言います。飛び起きてサッとシャワーを浴びだけでヒゲもそらずに駆けつけて、改めて医者の診断があり、5時46分死亡確認となりました。死亡診断書では「多臓器不全」となっていました。
しかし、僕は状況から見て、深夜のいつかの時刻に穏やかに呼吸が停まったのだと思います。僕が着いた時には明らかに死亡していました。もともと救急車を呼んだきっかけは、「大動脈解離」(心臓から脳へ行く動脈が破ける)が起こったため、心臓付近から背中にかけて激痛が起こったことでした。その結果、流出した血液で肺が半分ぐらい機能しなくなっていました。
だから、どの臓器が働かなくなっても、別に不思議ではありません。前日まで特に兆候がなくても、「その日」が訪れたということだと思っています。昨年中に、葬儀社も決めてあって,後は事務的に決めて行くぼうだいな作業があります。正直お寺との連絡など、誰か他の人がやってくれればいいんだけど、誰もいないので自分でやるしかない。
経験した人なら知ってると思うけど、葬儀とはひたすら細々とした「風習」をこなしていく過程です。「本来どういう意味があるのか」などを問い返しても意味がありません。そういう流れに乗って、こなしている段階。
母は「俳句」が趣味で、ちょっと前まで地元の句会に参加してしました。また元気なときはデパート巡りや映画に出掛けていました。年取って,それがコロナ禍に重なって、この数年はガーデニングやテレビ中心だったけれど。それでも「趣味」はいろいろあって、それが長命の素でもあったでしょう。
入院して半年以上経ってしまったので、もう日常生活は「母の不在」に慣れています。今さら「悲しみ」というよりは、「母は母で良く生きた」と思うし、僕は僕で30年以上も(けっこうマイペースな)母親と良く接してきたと思っています。取りあえず人生の最低目標点、「親より長く生きる」はクリアーしたことになります。自分では「やりきった」かなと思っています。
母親に関しては、年末に入院した経緯を『母の病状について』として書いています。最終更新が2月2日になってるけど、その後は書いていませんでした。救急病院に運ばれて、年末には「何があってもおかしくない」と宣告されたものの、その後、病状が不思議なことに「一種の安定」になっていきました。年齢を考えても想定外でした。
その頃から、「転院」の話が出て、2月21日に次の病院に移りました。コロナ禍で面会が出来ない中、その日がしばらくぶりに会えた日となりました。簡単な会話が出来、生後半年ぐらいのひ孫を見て「かわいい」などという言葉が出て来たので驚きました。その後、当初は系列のクリニックにて、2ヶ月後に隣の「療養型病院」に移り、そこにずっと入院していました。
そちらも基本的に面会は出来ず、4月に一回だけ病状説明の時に会ったのが最後になりました。その時も2月と同じ感じで、ゼリー状のものなら少し食べられるという話で、簡単な会話も出来ました。その後も「年齢からしても急に何があるか判らない」と言われながらも、特に病状悪化という連絡もなく、前夜も食べて会話もあったということでした。
11日朝に病院から「呼吸していない」との電話がありました。後で着信履歴を見たら、午前5時6分でした。オムツ交換に向かったら、呼吸がなかったと言います。飛び起きてサッとシャワーを浴びだけでヒゲもそらずに駆けつけて、改めて医者の診断があり、5時46分死亡確認となりました。死亡診断書では「多臓器不全」となっていました。
しかし、僕は状況から見て、深夜のいつかの時刻に穏やかに呼吸が停まったのだと思います。僕が着いた時には明らかに死亡していました。もともと救急車を呼んだきっかけは、「大動脈解離」(心臓から脳へ行く動脈が破ける)が起こったため、心臓付近から背中にかけて激痛が起こったことでした。その結果、流出した血液で肺が半分ぐらい機能しなくなっていました。
だから、どの臓器が働かなくなっても、別に不思議ではありません。前日まで特に兆候がなくても、「その日」が訪れたということだと思っています。昨年中に、葬儀社も決めてあって,後は事務的に決めて行くぼうだいな作業があります。正直お寺との連絡など、誰か他の人がやってくれればいいんだけど、誰もいないので自分でやるしかない。
経験した人なら知ってると思うけど、葬儀とはひたすら細々とした「風習」をこなしていく過程です。「本来どういう意味があるのか」などを問い返しても意味がありません。そういう流れに乗って、こなしている段階。
母は「俳句」が趣味で、ちょっと前まで地元の句会に参加してしました。また元気なときはデパート巡りや映画に出掛けていました。年取って,それがコロナ禍に重なって、この数年はガーデニングやテレビ中心だったけれど。それでも「趣味」はいろいろあって、それが長命の素でもあったでしょう。
入院して半年以上経ってしまったので、もう日常生活は「母の不在」に慣れています。今さら「悲しみ」というよりは、「母は母で良く生きた」と思うし、僕は僕で30年以上も(けっこうマイペースな)母親と良く接してきたと思っています。取りあえず人生の最低目標点、「親より長く生きる」はクリアーしたことになります。自分では「やりきった」かなと思っています。