平山優氏の本に続いて、大木毅『歴史・戦史・現代史』(角川新書)を読んだ。大木氏は岩波新書の『独ソ戦』がベストセラーになった人で、その後続々と第二次世界大戦頃のドイツや日本の軍事史的な本を出している。ここでは以前に『大木毅『独ソ戦』『「砂漠の狐」ロンメル』を読む』で、『独ソ戦』と『「砂漠の狐」ロンメル』(ともに2019年)を合わせて紹介したことがある。「ウクライナ侵略戦争」(大木氏の呼称)開始以後、再び『独ソ戦』が売れているということで、マスコミでも大木氏に意見を聞くことが多くなったらしい。今回の本はそうした短文を集めたもので、折々に書かれた文章をまとめた本である。
(『歴史・戦史・現代史』)
平山氏と同じく、大木毅氏も立教大学大学院の出身である。大木氏は1961年生まれ、平山氏は1964年生まれなので、お互いが同時期に学んでいたかどうかは知らない。大木氏は軍事史的アプローチで歴史を考える人で、僕にはない視角から第二次大戦を見ていて教えられるところが多い。帯の裏には「軍事・戦争はファンタジーではない。」「戦争を拒否、もしくは回避するためにも戦争を知らなければならない」「軍事は理屈で進むが、戦争は理屈では動かない」「軍事理論を恣意的に引いてきて、一件もっともらしい主張をなすことは、かえって事態の本質を誤認させる可能性が大きい」と書かれている。
(大木毅氏)
さらに帯の裏には『歴史の興趣は、醒めた史料批判にもとづく事実、「つまらなさの向こう側」にしかない』『歴史「に」学ぶためには、歴史「を」学ばなければならない。』『イデオロギーによる戦争指導は、妥協による和平締結の可能性を奪い、敵国国民の物理的なせん滅を求める絶滅戦争に行きつく傾向がある。』『戦争、とりわけ総力戦は、体制の「負荷試験」である。われわれー日本を含む自由主義国もまた、ウクライナを支援し続けられるかどうかという「負荷試験」に参加しているのである。」と書かれている。(赤字にしたところは、原文の通り。)特に「つまらなさのむこう側」という言葉は金言だ。
(『独ソ戦』)
「独ソ戦」がいま改めて注目されるというのは、常識では想像出来なかった事態である。しかし、プーチンのロシアがウクライナに対して「古典的な戦争」を仕掛けるという常識外の事態が実際に起きている。独ソ戦の主要な戦場だったウクライナで、80年経って再び起こった戦争を考える時にかつての戦争理解が大切になる。特にロシアが「イデオロギー」的な動機付け(ウクライナ指導部を「ネオナチ」と決めつけるなど)を行っていることで、「絶滅戦争」的な妥協の余地がない争いになる可能性があるという著者の理解は重大だ。実際に虐殺、児童連れ去りなどが起きているのは、その恐れを否定出来ないということなのだろうか。
(『「砂漠の狐」ロンメル』)
また、この本にはロンメルを中心に多くの軍人に関する論考がある。僕が知ってるのはロンメルぐらいだけど、ナチス時代のドイツ軍人に関する「歴史修正主義」を実証的に批判する筆致は鋭い。僕は全く知らなかったのだが、日本でもナチスの軍人を史料を無視して英雄視する傾向があるというのである。世界の軍事史的研究の紹介が少なく、最新の研究に学ぶことなくすでに否定されている「歴史修正主義」に安易に拠る人が多いのだという。僕が全く知らなかった本の紹介が多いのも役に立つ。まあ、実際に読むかどうかは判らないけれど、いろいろな立場の本があるんだなあと知ることが出来る。
大木氏は大学院時代に中央公論社の雑誌『歴史と人物』で働いていたことがあるという。夏冬の年2回、『歴史と人物』は戦争特集を出していたという。そのためにアルバイトが必要で、ドイツ現代史を専攻していた著者が関わったらしい。そのことから、数多くの旧軍関係者と知り合ったことが書かれている。それも面白いんだけど、昔の文章を読みすぎたからか、この人には古風な表現が多い。「さはさりながら」「かような」「かかる」などで、特に「さはさりながら」は現代ではやりすぎじゃないか。「そうではあるけれど」程度の意味だが、もう少し「やさしい日本語」を心がけても良いと思う。僕とは少し立場が違うところもあるんだけど、知らないことを割と気軽に読めるという点で貴重な本だ。
(『歴史・戦史・現代史』)
平山氏と同じく、大木毅氏も立教大学大学院の出身である。大木氏は1961年生まれ、平山氏は1964年生まれなので、お互いが同時期に学んでいたかどうかは知らない。大木氏は軍事史的アプローチで歴史を考える人で、僕にはない視角から第二次大戦を見ていて教えられるところが多い。帯の裏には「軍事・戦争はファンタジーではない。」「戦争を拒否、もしくは回避するためにも戦争を知らなければならない」「軍事は理屈で進むが、戦争は理屈では動かない」「軍事理論を恣意的に引いてきて、一件もっともらしい主張をなすことは、かえって事態の本質を誤認させる可能性が大きい」と書かれている。
(大木毅氏)
さらに帯の裏には『歴史の興趣は、醒めた史料批判にもとづく事実、「つまらなさの向こう側」にしかない』『歴史「に」学ぶためには、歴史「を」学ばなければならない。』『イデオロギーによる戦争指導は、妥協による和平締結の可能性を奪い、敵国国民の物理的なせん滅を求める絶滅戦争に行きつく傾向がある。』『戦争、とりわけ総力戦は、体制の「負荷試験」である。われわれー日本を含む自由主義国もまた、ウクライナを支援し続けられるかどうかという「負荷試験」に参加しているのである。」と書かれている。(赤字にしたところは、原文の通り。)特に「つまらなさのむこう側」という言葉は金言だ。
(『独ソ戦』)
「独ソ戦」がいま改めて注目されるというのは、常識では想像出来なかった事態である。しかし、プーチンのロシアがウクライナに対して「古典的な戦争」を仕掛けるという常識外の事態が実際に起きている。独ソ戦の主要な戦場だったウクライナで、80年経って再び起こった戦争を考える時にかつての戦争理解が大切になる。特にロシアが「イデオロギー」的な動機付け(ウクライナ指導部を「ネオナチ」と決めつけるなど)を行っていることで、「絶滅戦争」的な妥協の余地がない争いになる可能性があるという著者の理解は重大だ。実際に虐殺、児童連れ去りなどが起きているのは、その恐れを否定出来ないということなのだろうか。
(『「砂漠の狐」ロンメル』)
また、この本にはロンメルを中心に多くの軍人に関する論考がある。僕が知ってるのはロンメルぐらいだけど、ナチス時代のドイツ軍人に関する「歴史修正主義」を実証的に批判する筆致は鋭い。僕は全く知らなかったのだが、日本でもナチスの軍人を史料を無視して英雄視する傾向があるというのである。世界の軍事史的研究の紹介が少なく、最新の研究に学ぶことなくすでに否定されている「歴史修正主義」に安易に拠る人が多いのだという。僕が全く知らなかった本の紹介が多いのも役に立つ。まあ、実際に読むかどうかは判らないけれど、いろいろな立場の本があるんだなあと知ることが出来る。
大木氏は大学院時代に中央公論社の雑誌『歴史と人物』で働いていたことがあるという。夏冬の年2回、『歴史と人物』は戦争特集を出していたという。そのためにアルバイトが必要で、ドイツ現代史を専攻していた著者が関わったらしい。そのことから、数多くの旧軍関係者と知り合ったことが書かれている。それも面白いんだけど、昔の文章を読みすぎたからか、この人には古風な表現が多い。「さはさりながら」「かような」「かかる」などで、特に「さはさりながら」は現代ではやりすぎじゃないか。「そうではあるけれど」程度の意味だが、もう少し「やさしい日本語」を心がけても良いと思う。僕とは少し立場が違うところもあるんだけど、知らないことを割と気軽に読めるという点で貴重な本だ。