恒例の訃報特集だが、昨年末に亡くなった芸能人を「12月の訃報」として特別に書きたい。一人は八代亜紀で、もう一人は中村メイコ。歌手の八代亜紀が年末の12月30日に亡くなっていたと1月9日に公表された。73歳。古稀は過ぎているわけだが、平均年齢には達しない。昨年来続いている歌手の訃報がまた報じられたことに驚くしかない。熊本県八代(やつしろ)出身で、芸名はそこから付けたが「やしろ」と読ませた。この人の歌はいわゆる「演歌」だったけれど、普段演歌を聴かない僕も長年すごいと思ってきた。没後に社会貢献活動の「良い話」ばかりがどんどん出て来るのも驚きである。
中卒でバスガイドになるも、15歳で上京して歌手を目指したという話は有名である。1971年にプロデビューし、1973年の『なみだ恋』が大ヒットして歌手として成功した。「夜の新宿 裏通り 肩を寄せ合う 通り雨」という冒頭の歌詞は、まさに「ネオン街」の哀感を見事に表現している。当時のことだから、東映の夜の歌謡シリーズで映画化された。八代亜紀もちょっと出ているとのことだが見てない。『山口組三代目』の併映だった由。こういう歌を知っているのは、テレビでベストテン番組などがあるうえ、受験生の最大の情報源、娯楽がラジオだったためである。そして、1979年に『舟唄』が大ヒット、翌80年の『雨の慕情』でレコード大賞を受賞した。阿久悠の数多い作詞の中でも最高傑作と言えるのではないか。
(若い頃)
「舟唄」は「お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい」と始まるが、僕はお酒は冷やが好きだし、肴(さかな)もイカ(するめだろう)が好きなわけじゃない。続くフレーズの「女は無口なひとがいい 灯りはぼんやり灯りゃいい」に至ると、もう全然反対である。だけど八代亜紀がこの歌を歌うときに、鮮やかにそういう風に生きてきた男のイメージが起ち上がる。もしかしたら降旗康男監督の映画『駅』に影響され過ぎているのかもしれない。映画で「舟唄」が使われたため、主演した高倉健のイメージが離れなくなった面もある。だけどこの歌ほど「歌手」こそが歌を生かしていることを示す歌もない。
(八代亜紀の絵)
八代亜紀は歌と同じぐらい、絵が好きで上手だった。フランスの美術展「ル・サロン展」に連続して入選して正会員になっているという。また福祉活動に熱心で、中でも日本の女子刑務所すべてを慰問している。東日本大震災でも何度も被災地を訪れたが、その後故郷の熊本で震災が起こってそちらでも多くの活動をした。長年にわたって多くの地域振興活動にも参加してきた。歌手としては次第にジャズやブルースも多く歌うようになっていった。そっちは聞いてないのだが、あのハスキーヴォイスはブルースに合っているだろう。今度聞いてみたいなと思う。
(八代亜紀の絵)
女優、歌手であり、元祖ヴァラエティタレントというべき中村メイコが12月31日に死去、89歳。訃報が小さかったのに僕は驚いたが、もう現役新聞記者も知らないのだろう。それにしても「まだ89歳だったのか」と思った。それ以前に「まだ存命だったのか」とも思った。赤ちゃんの時から子役で活躍していたので、芸能生活86年と言っている。榎本健一、古川緑波、徳川夢声、柳家金語楼などと共演していたのだが、今じゃその人は誰ですかと言われるんだろう。
(中村メイコ)
もちろんそんな昔のことは僕も知らない。自分にとっては、「テレビによく出ていた人」という印象である。黒柳徹子と並び草創期からテレビで活躍した。二人は親友でもあり、亡くなる6日前の12月25日に最後の「徹子の部屋」収録を行ったという。1957年に作曲家神津善行(こうづ・よしゆき)と結婚し、子どものカンナ、はづき、善之介とともに芸能一家として知られていた。NHKの「連想ゲーム」の紅組初代司会者だが、Wikipediaを見ると68年から69年の1年しか出ていない。「3時のあなた」の司会も1年だが、もっと長い印象がある。本職は女優で、いろいろな映画、テレビドラマに出ていた。
(若い頃)
中村メイコは無数の映画に出たが「演技派」とは思われなかった。親しみやすい個性を生かして、途中からはヴァラエティ番組や司会(紅白歌合戦の司会も59年~61年に3回務めている)のイメージが強かった。そんな中で探してみると、森崎東監督の「喜劇・女シリーズ」の2本。新宿芸能社の森繁久彌社長の妻を演じた『喜劇・女は男のふるさとヨ』(71)、『女生きてます 盛り場渡り鳥』が浮かぶ。そしてもう一つは6歳の時の豊田四郎監督『小島の春』(1940)になる。ハンセン病患者隔離を進める女医を聖女として描いた作品で、内容的には問題をはらむが中村メイコの「演技」は有名なのである。
中卒でバスガイドになるも、15歳で上京して歌手を目指したという話は有名である。1971年にプロデビューし、1973年の『なみだ恋』が大ヒットして歌手として成功した。「夜の新宿 裏通り 肩を寄せ合う 通り雨」という冒頭の歌詞は、まさに「ネオン街」の哀感を見事に表現している。当時のことだから、東映の夜の歌謡シリーズで映画化された。八代亜紀もちょっと出ているとのことだが見てない。『山口組三代目』の併映だった由。こういう歌を知っているのは、テレビでベストテン番組などがあるうえ、受験生の最大の情報源、娯楽がラジオだったためである。そして、1979年に『舟唄』が大ヒット、翌80年の『雨の慕情』でレコード大賞を受賞した。阿久悠の数多い作詞の中でも最高傑作と言えるのではないか。
(若い頃)
「舟唄」は「お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい」と始まるが、僕はお酒は冷やが好きだし、肴(さかな)もイカ(するめだろう)が好きなわけじゃない。続くフレーズの「女は無口なひとがいい 灯りはぼんやり灯りゃいい」に至ると、もう全然反対である。だけど八代亜紀がこの歌を歌うときに、鮮やかにそういう風に生きてきた男のイメージが起ち上がる。もしかしたら降旗康男監督の映画『駅』に影響され過ぎているのかもしれない。映画で「舟唄」が使われたため、主演した高倉健のイメージが離れなくなった面もある。だけどこの歌ほど「歌手」こそが歌を生かしていることを示す歌もない。
(八代亜紀の絵)
八代亜紀は歌と同じぐらい、絵が好きで上手だった。フランスの美術展「ル・サロン展」に連続して入選して正会員になっているという。また福祉活動に熱心で、中でも日本の女子刑務所すべてを慰問している。東日本大震災でも何度も被災地を訪れたが、その後故郷の熊本で震災が起こってそちらでも多くの活動をした。長年にわたって多くの地域振興活動にも参加してきた。歌手としては次第にジャズやブルースも多く歌うようになっていった。そっちは聞いてないのだが、あのハスキーヴォイスはブルースに合っているだろう。今度聞いてみたいなと思う。
(八代亜紀の絵)
女優、歌手であり、元祖ヴァラエティタレントというべき中村メイコが12月31日に死去、89歳。訃報が小さかったのに僕は驚いたが、もう現役新聞記者も知らないのだろう。それにしても「まだ89歳だったのか」と思った。それ以前に「まだ存命だったのか」とも思った。赤ちゃんの時から子役で活躍していたので、芸能生活86年と言っている。榎本健一、古川緑波、徳川夢声、柳家金語楼などと共演していたのだが、今じゃその人は誰ですかと言われるんだろう。
(中村メイコ)
もちろんそんな昔のことは僕も知らない。自分にとっては、「テレビによく出ていた人」という印象である。黒柳徹子と並び草創期からテレビで活躍した。二人は親友でもあり、亡くなる6日前の12月25日に最後の「徹子の部屋」収録を行ったという。1957年に作曲家神津善行(こうづ・よしゆき)と結婚し、子どものカンナ、はづき、善之介とともに芸能一家として知られていた。NHKの「連想ゲーム」の紅組初代司会者だが、Wikipediaを見ると68年から69年の1年しか出ていない。「3時のあなた」の司会も1年だが、もっと長い印象がある。本職は女優で、いろいろな映画、テレビドラマに出ていた。
(若い頃)
中村メイコは無数の映画に出たが「演技派」とは思われなかった。親しみやすい個性を生かして、途中からはヴァラエティ番組や司会(紅白歌合戦の司会も59年~61年に3回務めている)のイメージが強かった。そんな中で探してみると、森崎東監督の「喜劇・女シリーズ」の2本。新宿芸能社の森繁久彌社長の妻を演じた『喜劇・女は男のふるさとヨ』(71)、『女生きてます 盛り場渡り鳥』が浮かぶ。そしてもう一つは6歳の時の豊田四郎監督『小島の春』(1940)になる。ハンセン病患者隔離を進める女医を聖女として描いた作品で、内容的には問題をはらむが中村メイコの「演技」は有名なのである。
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