見田宗介著作集を毎月読んでいくシリーズ、6回目は第Ⅱ巻『現代社会の比較社会学』を読んだ。しかしながら、前回の第5巻『現代化日本の精神構造』と同じく、一体自分は何しているんだろうと思う読書だった。一般的には読まなくていいと思うし、見田宗介研究を志す人以外は今ではあまり意味がないと思う。まあ僕は全巻読むと決めたので順番に読んでいくけど。
この巻には5つの文章と対談が入っている。85頁から173頁までが小阪修平との対談「現代社会批判」なので、論文は半分以下。最初にある「鏡の中の現代社会」「〈魔のない世界〉ー「近代社会」の比較社会学」は岩波新書『社会学入門』(2006)の第1章、第2章として発表されたもの。どちらも大学の社会学講義で初心者向けに語られていて、特に前者は「雑談」なので短いながら味わい深い。「現代」の中で生きる我々は、自分たちの「自明性」に囚われている。見田さんはインド、メキシコ、ブラジルなどが好きで、雑談風に読む(聞く)ものの「自明性」を突き崩していく。後者も柳田国男を手がかりにして、我々の「自明性」を揺さぶる。この2つの文章は今でも生きていて、いろんなところで使えると思う。旅が好きで「比較社会学」に進んだと書いてあった。
次の「孤独の地層学ー石牟礼道子『天の魚』覚書」は1980年に講談社文庫に収録された石牟礼道子『天の魚』の解説として書かれたもの。最初は水俣病を書くノンフィクション作家と認識されていた石牟礼道子をきちんと評価した最初期の文章だろう。でも今ではちょっと判りにくいのではないか。続いて「時の水平線。あるいは豊穣なる静止ー現代アートのトポロジー:杉本博司『海景』覚書-」は著作集刊行当時(2011年12月)には未発表で、現代アート作家の杉本博司(1948~)の代表的シリーズ『海景』を論じたものである。僕は杉本博司の名前も知らなかったが、2017年に文化功労者に選ばれている。若き日にニューヨークで出会った杉本氏のアートを簡潔に論じた論文は非常に面白い。
(杉本博司『海景』シリーズ)
5つ目の「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」は、はっきり言って全く判らない。岩波講座「現代社会学」第1巻(1997年)に発表されたものだというが、フーコーを全体としては評価しながらも「性の歴史」の叙述には問題があるという指摘をしている。フーコー自体が難しいが、それを批判的に検討している文章が僕には全く判らない。別にどうでもいいんじゃないのとしか思えない。ただ若いうちはこういう難解な論文にも接した方が良い。
そして最後に対談「現代社会批判」である。対談相手の小阪修平(1947~2007)は東大全共闘で活動した人で、有名な三島由紀夫と東大全共闘の討論にも出ていた。東大中退後、駿台予備校で教えながら、現代哲学を判りやすく論じる本を80年代から何冊も出していた。1986年に出た『現代社会批判 - 〈市民社会〉の彼方へ』という対談を圧縮して収録したと書いてある。見田氏とは16年ぶりで、東大時代に若手教員対全共闘として激論を闘わせた間柄だという。
(小阪修平、三島由紀夫と全共闘の討論)
原本の副題にあるように、「市民社会」の歴史を縦横に論じているが、難しくて全然判らない。今では僕はヘーゲルやマルクスやスピノザに全然関心がなく、というか理論的な問題設定には昔から関心が薄いけど、それでも85年という対談した時代は昔だったなあと思う。「第三世界」という言葉が頻繁に使われているが、実際には80年代後半にソ連のペレストロイカが始まり、「第二世界」がなくなってしまった。アメリカや西欧が第一、ソ連圏が第二、「発展途上国」が第三ということだった。中国は自ら「第三世界」の代表を任じていたが、今じゃどうなんだろう。中国が「第二世界」の代表になって、もっと下位の最貧困国が第三だろうか。でも、今では「第三世界への思い入れ」を持つ若者などどこにもいないだろう。
(予備校で教える小阪修平)
「圧縮」したことの関係もあるのか、この対談は非常に判りにくい。こういうのを昔は皆が読んでいたのかと思うと驚きである。たった40年ほど昔だが、「論壇考古学」の対象とでも言いたくなる感じ。まあ、読む人は限られているだろうけど、見田宗介氏の多彩な仕事ぶりが判る本でもある。しかし、次はもっと今でも生きている本を読みたいなと思った。
この巻には5つの文章と対談が入っている。85頁から173頁までが小阪修平との対談「現代社会批判」なので、論文は半分以下。最初にある「鏡の中の現代社会」「〈魔のない世界〉ー「近代社会」の比較社会学」は岩波新書『社会学入門』(2006)の第1章、第2章として発表されたもの。どちらも大学の社会学講義で初心者向けに語られていて、特に前者は「雑談」なので短いながら味わい深い。「現代」の中で生きる我々は、自分たちの「自明性」に囚われている。見田さんはインド、メキシコ、ブラジルなどが好きで、雑談風に読む(聞く)ものの「自明性」を突き崩していく。後者も柳田国男を手がかりにして、我々の「自明性」を揺さぶる。この2つの文章は今でも生きていて、いろんなところで使えると思う。旅が好きで「比較社会学」に進んだと書いてあった。
次の「孤独の地層学ー石牟礼道子『天の魚』覚書」は1980年に講談社文庫に収録された石牟礼道子『天の魚』の解説として書かれたもの。最初は水俣病を書くノンフィクション作家と認識されていた石牟礼道子をきちんと評価した最初期の文章だろう。でも今ではちょっと判りにくいのではないか。続いて「時の水平線。あるいは豊穣なる静止ー現代アートのトポロジー:杉本博司『海景』覚書-」は著作集刊行当時(2011年12月)には未発表で、現代アート作家の杉本博司(1948~)の代表的シリーズ『海景』を論じたものである。僕は杉本博司の名前も知らなかったが、2017年に文化功労者に選ばれている。若き日にニューヨークで出会った杉本氏のアートを簡潔に論じた論文は非常に面白い。
(杉本博司『海景』シリーズ)
5つ目の「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」は、はっきり言って全く判らない。岩波講座「現代社会学」第1巻(1997年)に発表されたものだというが、フーコーを全体としては評価しながらも「性の歴史」の叙述には問題があるという指摘をしている。フーコー自体が難しいが、それを批判的に検討している文章が僕には全く判らない。別にどうでもいいんじゃないのとしか思えない。ただ若いうちはこういう難解な論文にも接した方が良い。
そして最後に対談「現代社会批判」である。対談相手の小阪修平(1947~2007)は東大全共闘で活動した人で、有名な三島由紀夫と東大全共闘の討論にも出ていた。東大中退後、駿台予備校で教えながら、現代哲学を判りやすく論じる本を80年代から何冊も出していた。1986年に出た『現代社会批判 - 〈市民社会〉の彼方へ』という対談を圧縮して収録したと書いてある。見田氏とは16年ぶりで、東大時代に若手教員対全共闘として激論を闘わせた間柄だという。
(小阪修平、三島由紀夫と全共闘の討論)
原本の副題にあるように、「市民社会」の歴史を縦横に論じているが、難しくて全然判らない。今では僕はヘーゲルやマルクスやスピノザに全然関心がなく、というか理論的な問題設定には昔から関心が薄いけど、それでも85年という対談した時代は昔だったなあと思う。「第三世界」という言葉が頻繁に使われているが、実際には80年代後半にソ連のペレストロイカが始まり、「第二世界」がなくなってしまった。アメリカや西欧が第一、ソ連圏が第二、「発展途上国」が第三ということだった。中国は自ら「第三世界」の代表を任じていたが、今じゃどうなんだろう。中国が「第二世界」の代表になって、もっと下位の最貧困国が第三だろうか。でも、今では「第三世界への思い入れ」を持つ若者などどこにもいないだろう。
(予備校で教える小阪修平)
「圧縮」したことの関係もあるのか、この対談は非常に判りにくい。こういうのを昔は皆が読んでいたのかと思うと驚きである。たった40年ほど昔だが、「論壇考古学」の対象とでも言いたくなる感じ。まあ、読む人は限られているだろうけど、見田宗介氏の多彩な仕事ぶりが判る本でもある。しかし、次はもっと今でも生きている本を読みたいなと思った。
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