尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

戦争と結核ー父母の世代に見る「一家の中の現代史」

2022年12月23日 22時57分12秒 | 自分の話&日記
 朝日新聞12月21日朝刊に川本三郎さんの寄稿が載っていた。「思い出して生きること」と題された文章には、妻に先立たれてからの14年間の感慨が記されていて心に沁みる。今年で78歳だそうである。映画化もされた『マイ・バック・ページ』に描かれた事件で朝日新聞を去ってから、ちょうど50年になる。本人の言葉によれば「私がある公安事件で逮捕され、勤務していた朝日新聞を辞めさせられたのも1972年の1月」と書かれている。

 全面を使った長い文章の最後の方に、このように書かれている。「昭和19年に生まれた。大仰にいえば最後の戦中派である。戦後の平和な時代に育った。近代日本の歴史のなかでも幸せな世代だと思う。われわれの世代は幸いに徴兵を知らない。もう一つ、結核が死病にでなくなったことも大きい。「二つの大きな死」と無縁だったことは幸運だった。」

 「昭和19年」は西暦では1944年。敗戦の前年である。僕は昔から小説をよく読んでいたので、作家の生年で世代を考える癖がある。三島由紀夫が1925年、大江健三郎が1935年の生まれで、その間に石原慎太郎(1932年)や井上ひさし(1934年)がいる。そして、僕の父親は1923年母親は1927年の生まれになる。元号でいえば、大正12年昭和2年である。元号で見ると、ずいぶん離れているように見えるが4年違いだったのか。

 1923年生まれの父親は1991年に亡くなっているが、生きていれば来年で100歳になるわけである。この父母の世代になると、川本さんから20歳ぐらい上になるから、「戦争」と「結核」は避けて通れなかった。父方の曾祖父は元群馬県館林藩の下級武士だったらしく、秋元氏が山形藩から移封されたときに付いてきたんだと聞いたことがある。調べてみると、1845年のことになる。しかし、祖父の代に東京に出て、同郷の正田家が設立した日清製粉に勤めた。

 従って父親は東京で生まれて、0歳の時に(当時は数え年だから1歳だが)関東大震災にあった。母親が幼児を抱えて上野公園に逃げたんだという。そして、文科系大学生の徴兵猶予がなくなった時に、繰り上げ卒業となって召集された。戦争に関する映像でよく目にする神宮外苑競技場で行われた「出陣学徒壮行会」の中に父の姿もあったはずである。幸いにして内地の気象部隊に配属され、外地に出ることはなかった。しかし、父の兄(伯父)は関東軍だったためシベリア抑留で亡くなることになった。

 一方、母方の方は栃木、福島から東京に出てきたらしい。福島では浜通り、原発事故で大きな影響を受けた富岡である。母方の祖父は最初の妻、そして生まれた長男、次男をともに結核で失った。今回整理していて、その兄(長男か次男か判らない)から父に充てたハガキがまとまって出て来た。それを見ると、徴兵されて三重県鈴鹿市にいる間に結核が見つかり入院して亡くなったらしい。祖父は先妻の死後に再婚し、生まれたのが母とその弟だった。その母方の祖母も戦後少しして結核で亡くなったという。それは結婚前のことで、従って僕は祖父母の中で母方の祖母だけ全く知らない。

 この世代はかくも戦争結核に痛めつけられたのである。母も幼時は病弱だったようで、祖父は心配だっただろう。今の住所と近い足立区北部に住んでいたのだが、勉強は出来たので本当は第七高女に行きたかったらしい。今の小松川高校である。ここは中学教員時代にずいぶん生徒を送ったところだが、江戸川区だから足立区からはちょっと離れている。そこで東武線一本で行ける「東京都立浅草高等実践女学校」商業科に進学した。今回同窓会名簿を見つけたが、昭和19年(1944年)に卒業している。東京都制は1943年からだから、入学したときは「東京市立浅草高等実践女学校」だったのだと思う。

 ここは戦後になって他の学校とともに都立台東商業高校になった。以前勤務していた墨田川高校定時課程などと統廃合されて、現在は「都立浅草高校」という三部制高校になっている。僕はその立ち上げに少し関与したのだが、由来を調べると母の通った学校につながるので驚いた。このように自分の教員人生もところどころで親の世代とクロスしていきたのである。ところで、戦時中の女学校のことだから、当然のごとく学業よりも勤労動員である。下町の学校として、動員された工場は鐘淵紡績だった。21世紀になって破綻し、今では化粧品母ランドとして花王グループになったカネボウの前身である。
(昔の鐘紡工場)
 1945年3月10日未明、東京東部地区は米空軍の絨毯爆撃を受けた。鐘紡工場も焼失した。もちろん真夜中のことだから、家に帰っていた母親は無事である。しかし、下町一帯に住む友人の中には犠牲になった人もいた。空襲後に手紙が届いたという「死者からの手紙」もあったらしい。東京大空襲の恐怖と悲劇の記憶は何度も聞かされた。僕の世代も、川本さんの世代も経験しなかった「戦争と結核」はかくも母の人生に影響してきたのである。

 詩人茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた」とうたった。1926年生まれと母より一つ年上である。しかし、母親に関してはむしろ「敗北を抱きしめて」(byジョン・ダワー)戦後を生きたのではないか。もともと文学少女的気質だったので、気兼ねなく外国文学を読めて、外国映画(特にフランス映画)を見られるというのは「解放」だったと思う。そして地元の東武鉄道に勤めるようになって、組合の同僚と一緒に新劇を見に行ったり、ハイキングに行ったりした。そういうことが可能な戦後になったわけである。
(結核死者の移り変わり)
 川本さんの文を読んで、病床にある母の世代のことを書いておきたいと思った。関東大震災から福島第一原発事故まで、一家の中に日本の近現代史が見え隠れする。その中でも特に母の一家における「結核」の恐ろしさはちょっと言葉にならない。戦争は時々まだマスコミで報道されるが、結核がこれほど恐ろしい死病だったことは、今の若い人は知らないのではないか。僕が戦争に関して考える最初のきっかけも、このような両親の体験とは無関係ではなさそうである。そして出来るだけ次の世代にもこの記憶をつなげて行ければと思うのである。
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