尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

1年前の新聞を見る

2012年03月11日 22時52分30秒 |  〃 (震災)
 大震災1年目の日。テレビはずっと特集番組が流されている。それで改めて思ったことは、津波と原発に印象が固定化される前の、揺れそのものの大きさと恐怖である。多くの個人映像が残されていて、とんでもない揺れなのだが、同時にビルや家屋の倒壊はほとんどなかった。かなり壊れたり散乱しているけれど。年末にブログに書いたんだけど、このとき福島県須賀川市の藤沼ダムが崩壊し、土石流が集落を襲い8名の犠牲者が出た。このことの続報がぜひ欲しい。全国には、海辺でも原発地区でもないけど、ダムやため池が近くにあるというところが沢山あるはずだ。

 ところで、前にも書いたことがあると思うんだけど、僕は重大な出来事があった日の新聞はそのまま(切りぬきではなく)取っておくことにしている。1976年の「田中前首相逮捕」の頃から取ってある。もう去年のは捨ててしまった人も、今日は震災特集だから、是非残しておくといいのではと思う。特に若い人。毎年取っておいて比べると、それが何より「忘れない教訓」につながるのではないか。

 で、1年前の新聞を見直してみたい。僕が取ってる朝日新聞。見出しを中心に振り返ってみたい。

12日(土)朝刊 東日本大震災 M8.8世界最大級 大津波
 ちょっと驚くのは、大見出しが「東日本大震災」となってることで、もうこの段階でこの言葉が使われていた。また、マグニチュードは当初の発表が8.8だったですね。1面下に「福島原発、放射能放出も」とある。またニュージーランド南島地震に派遣されていた日本の救助隊は奇しくも11日が最後の活動日だった。都内版では「都内で死者3人」と大見出し。11日に石原都知事が4選出馬を表明していたが、扱いが小さくなっている。

12日(土)夕刊 東北沿岸 壊滅的 陸前高田や相馬、街全体が水没
 気仙沼の船が流された写真が大きく載っている。原発は最終面(普通はテレビ欄のあるページ)で、「放射能放出 5万人避難」と1面ぶち抜き。実はもうこの時メルトダウンしていたわけだけど。僕は昼ごろようやく帰れて、家ですぐに寝た。

13日(日)朝刊 福島原発で爆発 周辺で90人被曝か 炉心溶融、建屋損傷 
 水素爆発で原発が1面トップに。後には、「東京電力福島第一原発」とちゃんと言うようになるが、地元は別にして東京では最初「福島原発」と呼んでいた。しかし、「炉心溶融」と大見出しにあった。3面に「危機管理ちぐはぐ」、4面に「原発対応 くすぶる不満」、5面に「原発で爆発 世界緊張」と原発事故対応への批判的な印象である。裏面は「救援阻む泥の海」。社会面は2面ぶち抜きで「人も 町も 消えた ここにいる 助けて」と大きな見出し。ようやく現地入りした記者の報道が載りはじめた。この段階では「死者686 行方不明642」とされている。

13日(日)特別号外 3号機も冷却不全
 忘れていたが、日曜日に「特別号外」が出ている。「被曝の不安 刻々拡散」「1万人どこに」「生きてる 声よ届け」。写真も大きく出ている。

14日(月)朝刊 「死者は万人単位」 宮城県知事、見通し
 この知事発言は、地元紙河北新報の本を読むと、「死者」と表現することにためらいがあり「犠牲」と表現したとあった。中央紙は「死者」と書いてるけど。「きょうから輪番停電」と1面下に。(ちなみに、このころは1面に広告がない。)

14日(月)夕刊 3号機も水素爆発 福島原発 建屋損壊
 原発事故も拡大。計画停電も始まり、この頃から数日が一番恐怖に満ちたころだったと思う。

15日(火)朝刊 高濃度放射能 放出 2号機 炉心溶融 
 2面に「放射能 高まる緊張」、最終面に「濁流1分 町をのむ」という大見出しで南三陸町の津波の連続写真が掲載されている。今では知られているように、この日に大量の放射性物質が排出された。新聞もその緊張を伝えていた。同時にこの頃から、経済への影響の記事が多くなっている。

15日(火)夕刊 福島第一 制御困難 2号機圧力抑制室損壊か
 1面下部には「最悪の事態に備えを」という編集委員の記事が載っている。2面に「危うい危機管理」「首相自ら、東電入り」。いよいよ、あの日である。最終面には「放射線 身を守るには」という解説がある。

16日(水)朝刊 高濃度放射能 復旧阻む 4号機燃料に近づけず
 1面下部には「東証暴落 1015円安 世界株安の様相」とある。「死亡 4851人以上」「安否不明 14428人以上」となっている。紙面には放射能とか原発自体の解説が多く載っている。スポーツ欄にはプロ野球開始時期をめぐる問題も出ている。この時期は「セ・リーグ 先行か」という観測も。

16日(水)夕刊 3号機から白煙 正門近く高い放射線 
 最終面は「原発避難 福島8万人」。この日、死者・行方不明が9000名を超え、阪神大震災を超えたと出ている。 

 僕が取っておいたのはこの日までである。時々見直してみる必要があるなと思った。
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Tommy and Tuppence by Agatha Christie

2012年03月10日 00時01分16秒 | 〃 (ミステリー)
 「3.11」1周年が近づき、読んだり見たりもしてるので書きたい気持ちもあるけど、ちょっと違うものに触れたい気持ちもあって。それでこの一年断続的に読んできたアガサ・クリスティ「トミー&タペンス」ものの最終、「運命の裏木戸」を読んでます。

 アガサ・クリスティはミステリーを読まない人でも少しは読んでる、ミステリー初心者が最初に読むような人ですね。僕も若い時にいくつか読んでます。有名な探偵である「灰色の脳細胞」を持つベルギー人、エルキュール・ポアロはテレビドラマにもなってるから見た人も多いでしょう。ポアロものはハヤカワのクリスティ文庫で34冊もあります。しかし、「アクロイド殺し」や「オリエント急行の殺人」とか、あまりにも有名で若い時に読んだけど、この誰にも真似できない「一発芸」にちょっと驚き、はっきり言うとフェアではない感じもして、なんかあまり読んでないまま今まできました。

 クリスティの名探偵にはもう一人、イギリスの村の編み物とゴシップ好きの老婦人が村の難事件を解決する「ミス・マープル」がいます。元祖「おひとりさま」の「アームチェア探偵」として、今はこの人の方が人気があるかも。そして案外知らない人が多いと思うけど、もう一組シリーズ・キャラクターがあって、それが「トミーとタペンス」です。でも長編4冊と短編集1冊しかないというミニ・シリーズです。ただ、それらの5作品はクリスティの31歳から83歳まで書き継がれました。主人公の二人も50年近く一緒に年を取って行きました。

 トミーは「トマス・ペレスフォード」、タペンスは愛称で「プルーデンス・カウリー」。第一次世界大戦に従軍したトミーは復員して求職中。牧師の娘で戦争中は病室メイドをしていたタペンス。二人の幼なじみが地下鉄で再会、お金に困っていた二人は「青年冒険家商会」を結成することに。そして謎に満ちた事件に巻き込まれていく。これがクリスティ第2作の「秘密機関」(1922)。若い時期のユーモア青春スパイ小説という感じ。

 この事件を機に二人は結婚、探偵事務所を開くとあやしげな事件が続々と。これを様々な名探偵の方法を生かして解決していくという短編集「おしどり探偵」(1929)。これはパロディ・ミステリーです。「事務所」の受付係アルバートも事件解決に一役買い、以後ずっと協力していきます。

 その後はしばらく書かれず、二人はどうしてますというファンの声も寄せられたそうですが、第二次世界大戦とともに、この二人にも役割が与えられます。ドイツのスパイを探りだすという国家の要請にこたえる「NかMか」(1941)。これはクリスティのスパイ小説の最高傑作です。ミステリーとしても面白いけど、最初はトミーだけの仕事に子供二人がいるタペンスがいかに関わっていくか、そこが最高に面白い。このシリーズでは、女性のタペンスが常に積極的に謎の中に飛び込んでいくという趣向になっています。

 ここで終わらず、老境に達した二人が老人ホームや村の生活で謎にぶつかる「親指のうずき」(1968)、「運命の裏木戸」(1973)が書かれます。二人は最後には75歳。それでも謎があると駆けずりまわるという高齢化時代先取りの小説です。40年ほど前のイギリスですが、福祉や暮らしに対するボヤキや意見が面白いです。最後の作品には「ハンニバル」という愛犬が登場して重要な役を演じます。(いや、「羊たちの沈黙」以来、ハンニバルはレクター博士ばかり思い出させるネーミングになってしまったけど、それ以前にクリスティは犬の名前にしてたわけ。)どこでも犬は同じだなと感じる描写が面白いです。掃除機を「不倶戴天の敵」と思ってほえかかるとか。(これは昔うちで飼ってた愛犬も全く同じ。)

 ということで、どっちかというと、若い時は戦争を背景にした「愛国的ユーモア小説」の感じが強いですね。でも最後は老夫婦小説の趣で、ミス・マープルものと並び今後受けるんじゃないかと思います。いくつになっても好奇心旺盛で謎に立ち向かうタペンスという女性。最初は懐疑的ながら、結局妻を支えて一緒に解決していくトミー。ミステリーとしては大味な所が多く、なんだか能天気な小説なんですが、謎の解決やスリリングな展開ではなく、主人公カップルと一緒に謎に悩み、一緒に年取っていく小説。こんなのもいいのではないかと思う今日この頃。いや、純文学やお勉強本ばかりでは疲れる時は、こういうミステリーもあるといいなと思うわけ。

 なお、クリスティにはノン・シリーズに傑作があって、もちろん有名な「そして誰もいなくなった」が最高傑作。あと「ゼロ時間へ」という小説がとてもいいと思います。映画にもなった「ナイルに死す」はミステリーファンだとトリックが判るかもしれないけど、小説としての読みごたえはあります。
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東住吉冤罪事件の再審開始決定!

2012年03月09日 00時55分38秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 旅行中のラジオで、「大阪の女児放火殺人事件」で、「再審開始の決定が出た」というニュースを聞いた。え、もうそんな段階に来てたのか、それは知らなかった。先ほど確認したら、支援関係のサイトにはこの日に決定があるという告示が緊急に出てたけど、裁判所からの通知も一週間前の2月28日だったということで僕は確認してなかった。この「事件」は再審どころか、原審、いや「事件」そのものが東京の報道機関ではほとんど報じられてきていない。多分ほとんどの人は知らなかったと思うし、東京のマスコミ関係者もよく知らないのではないか。(関西では違うかもしれない。)

 だからだと思うんだけど、報道の仕方について困った点が多い。そこを指摘するために簡単に書いておきたい。まず、報道する側が知らないから、「事件の名前」がない。各紙は「大阪の放火殺人」と書いている。そうじゃない、でしょ。「放火殺人じゃない」っていうことで再審開始決定が出たのである。「放火殺人事件」自体がなかった。「放火殺人」は起こっているけど、犯人が違うという事件ではない。それなのに「放火殺人」とカギカッコもつけずに見出しで報じる。これでは本質を間違って伝えることになる。せめて「女児焼死事件」というのなら、まだましかもしれない。しかし、そもそもは「事故」であり、「事件」ではないという「事件性そのものが争われている」というケースなのである。

 ではなんと呼ぶべきか。はっきりしている。10年以上も前、2000年という控訴審段階から支援のウェブサイトがあって、「東住吉冤罪事件」と自ら表現しているのである。「冤罪」というのは主張の部分だからマスコミ的には取ってもいいかもしれないが、明らかに事件名としては「東住吉事件」と呼ぶべきなのではないかと思う。10年以上も前からウェブ上で活発に更新されていたし、国民救援会系の「再審・えん罪事件全国連絡会」にも参加している。冤罪問題に関心を持つ人には、知られている事件だった。

 この再審開始決定の意義は大きい。その理由の第一は、再審請求人が現在服役中だからだ。今まで服役中に再審開始決定が出た重大事件はないはずである。もちろん死刑再審の4事件は、拘禁中の請求人が判決によって釈放されたというケースである。でも、死刑という刑罰は「絞首」が刑の執行であり、それまでの拘禁は刑の執行そのものではない。また、足利事件の菅家さんは無期懲役刑の執行中に、検察側によるDNA鑑定で無実の新証拠が出たため検察官によって刑の執行が停止されて釈放されて、その後に再審が決まった。昨年の布川事件の他、戦前発生事件の吉田岩窟王事件や加藤老事件、戦後に起きた梅田事件など無期懲役刑の再審開始もあるが、「仮釈放」以後に再審開始決定が出たというケースである。死刑や無期の事件でも再審はありうるけど、長い長い時間を経たのちに出るものだという、今までの通念を破る決定である。これは東電OL殺人事件、筋弛緩剤えん罪事件などに希望を与える決定である。

 理由の第二。今までともすると、冤罪は「昔の事件」で、科学的捜査が弱かった60年代頃までの話だということが多かった。富山県の氷見事件を見るだけでもそれは間違いなのだが、1995年の事件で再審開始決定が出たということは、冤罪は過去の問題ではないことをはっきり示すものである。

 理由の第三。最高裁で確定したのが2006年。11年裁判で争った。しかし、確定からはまだ5年ちょっとしか経ってない。こんなに最高裁での確定から早い再審開始決定も聞いたことがない。担当した裁判官は退官しているようだけど、これは最高裁のあり方を考えさせる事例であると思う。

 理由の第四。「自白」に頼る捜査、それを追認する裁判という、日本の刑事司法の「悪弊」を科学的鑑定で打ち破るという、刑事司法の流れを加速するのは間違いない。

 だからこそ、検察側は直ちに即時抗告して争う姿勢を見せている。これはおかしい。そして、すでに16年拘束されている二人の請求人はただちに「仮釈放」するべきである。(争う「法的権利」が検察に与えられている現在の法制度では、「刑の執行停止」をせよと言っても実現しないだろう。しかし、拘束されて16年。刑の確定は2006年で、そこだけ考えると「まだ早い」かもしれないが、時間の長さはもう仮釈放に十分ではないか。)
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房総旅行

2012年03月08日 23時32分17秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 突然、房総の鴨川方面へ旅行。1月にも館山へ行ったけど、特に千葉県を極めようと思ってるわけではなく、北関東や福島の温泉へ支援の意味も込めて行きたい気持ちがあるんだけど、某プランで格安で泊まれる旅館を発見したもので。

 しかし、外房に泊まるのは久しぶりだな。南房の館山、白浜、千倉などに泊まることは結構あったけど、鴨川や勝浦へはだいぶ行ってない。この地域は花の季節に訪れることが多く、(夏は山へドライブすることが多いため)、どうしても南房フラワーラインの方に気持ちが行ってしまう。で、鴨川で行ったことがない所として、「大山千枚田」が残ってた。ここは農水省認定の「棚田100選」に選ばれているところ。関東では栃木の二つとここだけ。東京に一番近い棚田100選。100選を見てみると、長野県が一番多い。次いで、熊本、宮崎。当たり前だけど、山がなければ棚田にならない。しかも山間部は本来畑作に向いた土地が多く、土質、水、集落など条件が整わなければ「棚田」にならない。で、千葉、それも南の方の鴨川にどれほどの棚田があるのか。そこらへんは海に生きる地域で、水田じゃないでしょ。と思うと大間違いで、房総半島は幅広で太平洋と東京湾に面する海辺を除くと、中央はほとんどみんな山。ただし、高くても300か400m程度の低山が多いのであまり意識しないけど、山がちの地帯なのです。それに「長狭(ながさ)米」というブランドを誇りとする地域。

 いや、大山千枚田は素晴らしかったです。今は水を張りはじめた時期で、緑は全くないわけだけど、地形の広々感はむしろ今の方がわかるかも。人間の力強さと言うか、城の石垣とか写真で見るマチュピチュみたいというか、壮大な感じ。写真ではあまり伝わらないけど。ここは別の季節にまた再訪したいと思います。現地には「大山千枚田保存会」による「棚田倶楽部」という施設もできています。(なお、調べても行き方がよく判らなかったんだけど、東京から車で行く場合、館山道を鋸南保田ICで降りて、長狭街道を鴨川方面へしばらく行くと案内が出てくるので右折。下の駐車場に停めて上まで歩く。)
  

 2日目は、朝方に雨の降る寒い日に逆戻り。まだ見てない「仁右衛門島」(にえもんじま)に行こうかと思ったけど、寒くてやめ。カステラ工房なんかで油を売って、久方ぶりの清澄寺へ。日蓮が出家得度したところというお寺。その頃は天台宗だったけど、衰微して戦後に日蓮宗になったとある。ここらは日蓮生誕の地「誕生寺」があるところで、有名な「鯛の浦」もある。船で行って手を叩くと鯛が海面に近寄ってくる不思議な所ですね。どちらも前に見てる。誕生寺は見直してもいいなと思って一日目に行ってみたけど、駐車場が有料だけなのでいいやと思って、ずっと車で行き過ぎたら海際のヘリを通るすごい道路に通じてた。で、清澄寺はそこらから山へどんどん登って行く。昔千葉県市川市に住んでいた時があって、確か電車とバスでお寺から高原ハイキングをした記憶がある。その頃はけっこう「巨樹めぐり」をしていて、清澄寺は国の天然記念物の大杉が有名なんです。写真では全然伝わらないけど。でも、ほとんど杉が続く地帯で、花粉が飛んでそうな感じ。自分は全然影響ないんですが、観光客、参拝客は少ない状態でした。そこから養老温泉、大多喜城をへて、内陸部を通って帰る。そこらへんは初めて。まあ、海辺の方が面白いですね。
 

 宿は天津小湊の「宿 中屋」。小湊駅前に天保時代からあったそうですが、74年に海岸べりに移転、10年前に温泉が出て、最近リニューアルしたばかりという。部屋もきれいで、対応もていねい。なによりアワビが一人一匹おどり焼き、イセエビ二人で一匹のお造り、鯛のかぶと煮、蟹の味噌汁とついて、1万円を割るプラン。某テレビ番組サイトでの紹介だけど、これは完全に値段以上のプランです。ただし、温泉が「源泉掛け流し」とうたうけど、基本は循環で一部放流というのはちょっと残念。千葉の温泉というのは低温で加温は仕方ないけど、加水はしてないという。アルカリ性で肌がツルツルする泉質はいいんですけど。
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イスラエルとアメリカ-緊迫!イラン情勢⑧

2012年03月06日 21時50分01秒 |  〃  (国際問題)
 イラン情勢も長くなってきたので、今日でいったん終わりたい。ここでいくら書いていても結論は出ない問題だから。この間、イランで国会議員選挙が行われ、一方イスラエルのネタニヤフ首相がアメリカを訪問してオバマ大統領と会談した

 ニュースによれば(毎日新聞)、
 「イランの核開発問題でオバマ大統領が外交的解決を優先させたいと訴えたのに対し、ネタニヤフ首相は「イスラエルは自衛権を保持せねばならない」と強調し、イラン核関連施設への軍事攻撃の可能性を取り下げようとしなかった。冒頭のみ報道陣に公開された。オバマ大統領は「まだ外交的解決の余地はある」と言い、「首相も私も外交的に解決することを望んでいる。我々は軍事行動の代償を理解している」と語った。一方で「イランの核兵器獲得を防ぐためには、すべての選択肢が机上にある」とも言い、武力行使の可能性にも含みを残した。」冒頭のみ公開されたあと、2時間会談が続いたとある。

 ネタニヤフ首相はそのあとで、「イスラエル系ロビー団体「アメリカ・イスラエル広報委員会(AIPAC)」の会合で演説し、イランの核武装化について「イスラエルは根気よく国際社会による外交的解決を待っていたが、これ以上は待てない」と語った。」という。ここには13,000人が出席した。

 今年はスーパー選挙イヤー。ロシア大統領選が予想通りプーチンが勝利したが、最大の選挙はもちろん11月の米大統領選挙である。ここでオバマ再選がなるか、どうか。まだ対立の構図もはっきりしていないが、経済指標の好転が見られオバマ陣営に追い風となりつつある。しかし、この経済再建は思ったほど「チェンジ」するのが難しかった。何かあれば一転して一期目の経済政策を問われる場面もありうる。そういう中で、「ユダヤ票を失うわけにはいかない」「新しい戦争を始めるわけにはいかない」という、綱渡り外交を強いられることになる。イスラエルはオバマ再選を有力と見て、選挙まではオバマの要請を受け入れる形で「イラン攻撃を自制」して、イランの姿勢が替わらない場合は2013年初めにも攻撃に踏み切るのではないか、というのが一番ありそうな想定だと思う。

 当面オバマ政権が早期のイラン攻撃を止めたいのは本心だろう。イラク戦争終結と言う「公約」を一応果たした形となっていて、ビン=ラディンも「仕留めた」ところに、絶対に泥沼になるに決まってるイラン攻撃に足を取られたくないだろう。イスラエルのイラン攻撃は、中東大動乱に結びつく可能性が相当に高い。しかし、イランの核開発は止められず、従ってイスラエルのイラン攻撃は「時期の問題」である(つまり「止めることができない」)という観測が強い

 イランの選挙は、ハメネイ師支持の候補が多数当選したと伝えられている。一昨年来、最高指導者のハメネイ師とアフマディネジャド大統領(革命防衛隊を支持基盤とする)が隠微な形で対立を続けている。これをどう見るかだが、これは支配層内部の指導権をめぐる対立であって、体制自体が揺らぐような問題ではないと思われる。聖職者ではない大統領が政争に勝つことは、本来ありえない。核問題に対しては、どちらの勢力も「欧米に屈するな。イランの核開発の権利を守れ」の立場であって、イランから折れて出ることは考えにくい。イランの場合、大統領や国会はさておき、最高指導者のハメネイ体制が変わらない限り政策の転換は難しい。経済制裁の効果は薄いとしても、他に打つ手がない。

 イスラエルの特殊な政治情勢も考えておかなければいけないが、今回は省略。1967年の第3次中東戦争で占領したままのヨルダン川西岸やゴラン高原の問題の解決、つまりパレスティナ和平がならなければ、他の問題も残り続ける。しかし、イスラエル国内の政局はヨルダン川西岸の入植地からの引き揚げができる状況ではない。パレスティナ内部でも、選挙をやればガザ地区で強硬派のハマスが勝利したわけで、妙案がない。

 アメリカも手の打ちようがない状態が続いているから、日本が何か言っても仕方ないと言えばその通り。でも日本にとってこれほど死活的な利害がからむ地域もないのだから、両者に向けもっときちんと平和の価値を発信するべきだと思う。インドネシアやトルコとともにイランに働きかけるべきというのは先に書いた。それとともに、この問題はイスラエルが核兵器を持つと言われ、イランも核開発を目指しているらしいという問題である。ここは「唯一の被爆国」である日本が発言する権利と義務がある。イランとイスラエルの有力者を「広島」「長崎」「福島」に招く活動をすべきである。

 またイランのノーベル平和賞受賞者、人権派の女性弁護士シーリーン・エバディを招き、イランの人権状況を学ぶことも考えられる。4月にもアウン・サン・スー・チーが国会議員に当選し、国外活動もできるようになる可能性が高い。昨年のノーベル平和賞、リベリアのサーリーフ大統領も含め、「ノーベル平和賞女性受賞者シンポジウム」を日本で開催する試みをどこかで進められないか。などなど、いろいろ知恵をしぼり、内外に平和を訴える場を作ることを考えて欲しい。「北朝鮮」の核問題は一応の進展を見せた。(完全に信用できる段階ではないが。)イランもIAEAの査察を拒否してはいけないというのは基本線である。そこは「国際的圧力」以外に方法がない。日本もイランからの原油輸入を削減するのも、(アメリカとの関係を別にしても)やむをえないと考える。しかし、文化的関係などは続けて行って、イラン国民に働きかける場を確保しておく必要もある。ま、そんなところで。イラン映画は是非見ましょうね。イラン理解は大切だから。
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「物語 近現代ギリシャの歴史」

2012年03月06日 00時39分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 2月の中公新書新刊。村田奈々子「物語 近現代ギリシャの歴史」。ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスが1月に交通事故で逝去して、ここでも追悼を書いておいた。(「追悼テオ・アンゲロプロス」)その「アンゲロプロスの訃報に接した日に」とある「おわりに」を持つ本。これでギリシャ現代史について大体わかると言う本である。アンゲロプロスの追悼上映も池袋・新文芸坐で企画されている。まずはこの本で勉強しておきたいなと思った。

 読んで思ったのは、19世紀初頭のギリシャ独立というのは、まったく列強の都合で成立した出来事だったということ。19世紀ヨーロッパの歴史は、国民国家の発展、帝国主義化という道筋で、イギリスやフランスを中心に語られる。ドイツやイタリアは統一が遅れ「遅れてきた帝国主義国」になる。そういう中で、19世紀初めにオスマン帝国に対するギリシャ独立運動が起こり、いろいろあったあげく1830年に一応の独立を認められる。だから、なんとなく「ギリシャという国民国家」がここに「復活」したかに思ってしまう。今まで実は僕もそう思っていたのである。

 でも、よく考えて見れば、確かにギリシャという国はそれまで歴史上にただの一回もなかった。古代にあったのはアテネやスパルタと言う都市国家(ポリス)だし、その後はアレクサンドロス大王の支配からローマ帝国へ、そしてローマ帝国分裂で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の千年間、そしてオスマン帝国である。であるならば、ギリシャ人にとっては、復活すべきは「古代の栄光」なんかではなく、正教にもとづく「ビザンツ帝国の復活」だという考えも多かったとしても不思議ではない。今では、ギリシャの首都と言えば、第1回のオリンピックを1896年に開いたアテネに決まってると世界中が思ってるだろう。でも当時は、ギリシャ人の真の首都は「コンスタンティノープル」(イスタンブール)であるべきだ、と考えていたギリシャ人が多かった。そういう「大ギリシャの建設」をめざす「メガリ・イデア」が20世紀前半までのギリシャ人の夢だった。

 この夢はある程度は実現し、テッサロニキなどマケドニアやクレタ島などは獲得するが、結局はコンスタンティノープルの奪還とエーゲ海東岸(イズミルなど)獲得はあきらめなくてはならなかった。最終的には第一次世界大戦後の話となる。その間、オスマン帝国をめぐってはバルカン半島で何度も戦争があった。その時代を首相としてギリシャ近代化を目指した大政治家が、エレフテリオス・ヴェニゼロス(1864~1936)という人である。パリの空港が「シャルル・ドゴール空港」であるように、アテネの国際空港は「ヴェニゼロス国際空港」というのである。1910年に首相になって以来、都合9回首相をつとめ、行政、教育、司法などの近代化をはかった。この本でも第4章全体が「闘う政治家ヴェニゼロスの時代」となっている。でも、この人の名前知ってた人、ほとんどいないでしょう。

 ヴェニゼロスはもともとクレタ島の生まれで、クレタ島がまだギリシャ領になっていない時代に本国に招かれて首相となったと言う人である。本国の伝統的支配層の人ではなく、近代化政策が抵抗を買うことも多かった。第一次世界大戦にあたっては、国王が中立を主張し、ヴェニゼロスが連合国側での参戦を主張した。それ以後、ずっとヴェニゼロス派と王党派にギリシャ政界は二分され政争が絶えなかったという。そういう政治風土を作ってしまったとも言える。(なお、ギリシャ独立にあたっては、列強によって王政が選択され、ヴィスコンティの映画にもなって有名なバイエルン国王ヴィルヘルム1世の次男オトンが初代国王に招かれた。しかし失政が多くクーデタがおこり1863年に廃位され、17歳のデンマーク王子が国王に就いた。ゲオルギウス1世。以後、数代続いていくが、1974年軍事政権崩壊後に国民投票で王制廃止。)

 第二次世界大戦では、まずイタリアに侵攻され、続いてナチス・ドイツに占領された。王室と政府はカイロに亡命政府をつくるが、国内では共産党系のゲリラ組織が勢力を広げていた。ティトーを中心に自力で解放したユーゴスラヴィアと同じく、自ら解放することもありえなくはなかった。しかし、ギリシャの地理的重要性からイギリスはギリシャの共産化を認めず、スターリンもギリシャをイギリス勢力圏と認める。こうして、国内で「兄弟殺し」の内戦が始まるのである。そして軍による「白色テロ」が横行し、政治犯があふれ多くの人々が銃殺されていった。隣国ユーゴスラヴィアがソ連と対立するようになって、ギリシャ共産党はソ連を支持したためにユーゴの支援がとまり、ついに展望がなくなった左翼勢力は壊滅し、10万人近くが亡命したという。こうした事情は、台湾で1947年に起こった「二・二八事件」後の情勢、あるいは1948年に韓国済州島で起こった「四・三事件」などを思い起こさせる。どちらも数万人の犠牲者が出たという。

 その後1967年に軍事政権が成立し数多くの人権侵害が起こった。1974年にキプロス問題で行き詰り軍事政権が崩壊して、ようやく安定した民主主義の時代がやってくる。しかし、その後もなかなか大変である。軍事政権崩壊後、王制廃止、EU(当初はEC)参加を主導したのは、保守派のカラマンリスで首相、大統領を務めた。右派の新民主主義党は甥のコスタス・カラマンリスが継いでいる。2004年~2009年に首相。一方、左派の方では、ゲオルギオス、アンドレアス、ゲオルギウス=アンドレアスと三代のパパンドレウ一族が首相を務めている。なんだかインドのガンディー家みたいな政治状況である。

 1981年、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が勝利して、アンドレアス・パパンドレウが首相に就いた。野党時代はNATOやECからの脱退もありうるような主張を掲げてナショナリズムを主張していたようだが、政権についたら野党時代の主張は引っ込めてしまったという。一方、内政では女性の地位向上などを進めるとともに「特権なき人々」のための政策を推進した。しかし、それは国民の中に「パトロン・クライアント関係」を拡大してしまい、年金、保険、賃金などの充実を続けて行ってしまう。そこに現在の経済危機にいたる直接のきっかけがある。(しかし、もっと長い目でみれば、産業なき辺境地域が「古代の栄光」という神話によって「国民国家」の地位を与えられたという歴史的事情が前提にある。)しかし、この外交と内政の問題は、「政権交代」後の民主党を見てみると他人ごとではないなあと思った

(なお、追悼文では「ギリシア」と書いた。ギリシアとかペルシアというのは「教科書的書き方」なのである。どっちでもいいと思うけど、今回は書名にあわせてギリシャと書く。)
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円丈ゲノム

2012年03月05日 00時14分17秒 | 落語(講談・浪曲)
 毎日新聞落語会「渋谷に福来たるSPECIAL~落語フェスティバル的な~」という催し、渋谷区文化総合センターで2日~4日まで。僕は3日の「円丈ゲノム」に行ってきた。ホントは2日の「師匠噺 四派饗宴」に行きたかったんだけど、チケットが取れなかった。でも、新作派の実力者4人の「円丈ゲノム」も行きたかったからまあいいでしょう。「ゲノム」は「遺伝子」ですね。円丈師匠は「ゲーム」だと間違えていたとホームページで書いてるけど。

 まず最初に幕が上がると、春風亭昇太林家彦いち三遊亭白鳥の三人が出てきて、鼎談会。これが抜群に面白い。新作落語は差別されてきたと「待ってました!」(吉川潮)の本の中でいっぱい出てくるが、この四半世紀の新作落語をリードしてきたのが円丈師匠。渋谷ジャンジャン(公園通りの山手教会地下にあった小劇場、ライブハウス)で80年代にやっていた「実験落語の会」がいかにすごかったか。重要だったか。僕はジャンジャンは何度も行ってるけど、この頃は落語を聞いていない。残念。

 円丈師匠は足立区在住で、そのことは弟子の白鳥がどうやって弟子入りしようとしたかで語っていたけど、なんと「イエローページ」(電話帳)に載っていたそうだ。ただし「足立区六」としか載ってなかった。足立区には六が付く地名がいくつもあるので行きつかない。そのうち他の電話帳を見たら旧住所が載っていた…。今は「つくばエキスプレス」というのができて「六町」という駅名もあるわけだが、円丈師の家はそこ。昔は「陸の孤島」。そのあたりの事情は「悲しみは埼玉に向けて」とか「一つ家公園ラブストーリー」とかで語られる。まだ僕が落語をほとんど聞かなかった90年代半ば、足立区の高校に勤めていて卒業近くに卒業生向け落語会を企画した。その時に来たのが、円丈師匠。この時の面白さは格別だった。以来、同じ足立区ということで印象に残り、最近も割と聞いてる。

 3人の語りの中で、昇太が「最近、市馬兄さんが歌歌ったりしているけど、実はそれも円丈師匠が昔やってる。これは知らない人が多いでしょう。」と言って、音源が見つかったといって、「悲しみのホアンホアン」とかいう歌が場内に流れる。爆笑。アイドルソングみたいな歌。そこに、突然うどん屋ののぼりを掲げた自転車に乗って、円丈師匠が3人の前を通り過ぎる。何も言わずに、もう一回戻ってくる。もう、ありえないほどおかしい。場内爆笑。

 僕が落語を少し聞くようになったころ、足立区のホールでやった春風亭柳昇の会にまだ知名度のなかった時代の昇太が出ていた。昇太の新作の面白さは群を抜いていた。以後しばらく追っかけ的に聞いていた。「伊東四朗一座」に出ていたのまで見ている。(伊東四朗が見たかったんだけど。)昇太は師匠選びの話をよくしているけど、やはり柳昇師匠で良かったんでしょう。「笑点」に出るようになってから、少しおとなしいように思えたのだけど、最近聞くとやはり面白いですねえ。今回は「新作落語傑作読本1」(白夜書房)に掲載されている「オヤジの王国」。読むより語りの方が面白い。それは「体技」としかいいようがない、全身の演技が面白いんですね。膝をついて半立ちになって熱演するというのが昇太のスタイルだけど、このネタは横になるのもある。

 今回は、まず円丈の弟子、白鳥が「悲しみは日本海に向けて」、昇太の「オヤジの王国」、仲入り後に林家彦いち「二月下旬」、そしてトリで円丈「悲しみの大須」という名古屋の大須演芸場の芸人列伝。かなり大きな会場が満員で、熱演、爆笑。新作落語の面白さを堪能できた会だった。でも、足立区(ずっと住んでる)や新潟(妻の実家)が出てくることもあり、最後の円丈師匠も出身の名古屋ネタだったから、なんとなく日本の中の居住地にまつわる「差違」というか、もっと言えば「差別」がいかに笑いの源泉になるか、複雑な感じもしたなあ。そういうホンネの部分が芸能の本質なんだろうけど。
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映画「おとなのけんか」

2012年03月02日 21時52分57秒 |  〃  (新作外国映画)
 ロマン・ポランスキー監督がヤスミナ・レザの舞台劇を映画化した「おとなのけんか」。これが滅法面白い、大人の映画になっていて、見落とさないようにお勧め。時間が短いのもいいですね。1時間19分。

 セリフのある俳優はたった4人。二組の夫婦のみ。場所も一方の夫婦のマンション。ほぼそこに限定された映画である。いかにも舞台劇の映画化で、そういう時にはセリフの応酬は面白いが、時空を超えていける映画の特性が生かされないで終わる場合も多い。でもこの映画は、カメラが始終動き回り、細かいカット割りをして、クローズアップをうまく生かすなど監督の才気が生きて、映画化が成功している。

 この戯曲は「大人は、かく戦えり」の題名で日本でも昨年上演された。僕は見ていないが、評価は大変高かった。日本のキャストは大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実の4人。映画では、ジョディ・フォスター、ジョン・C・ライリー、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツの4人になる。どちらも最初の二人が「被害児童の親」、後者が「加害児童の親」。ジョディ・フォスターはもちろん「羊たちの沈黙」でオスカー。(「告発の行方」と2回受賞。)ケイト・ウィンスレットは「愛を読む人」(「朗読者」の映画化)でオスカーだが、「タイタニック」の彼女と言う方が判りやすいか。クリストフ・ヴァルツと言う人はオーストリアの俳優だけど、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」のナチス将校役が抜群で、カンヌ映画祭男優賞、アカデミー賞助演男優賞と言う人。ジョン・C・ライリーと言う俳優は受賞はしていないが「シカゴ」で助演男優賞にノミネートされている。そういう芸達者が応酬を繰り広げるさまは、まさに圧巻

 ことは「子供のケンカ」である。一方が公園で棒でなぐってもう一方の歯を二本折った。ということであるらしい。せりふでしか説明されないけど。で、加害児童の親がそろって謝罪に訪れる。初めはおとなしく良識的に始まったかに思われるのだが、ハムスターだのなんだのいろいろからんできて、つい長居してしまい、だんだん収拾がつかなくなる。ヴァルツにはひっきりなしに携帯電話がかかってくるが、弁護士で薬害問題を抱える製薬会社に悪知恵をつける仕事らしい。これが皆をいらつかせ、ついには妻が切れてしまうあたりでケンカも最高潮に達する。夫婦のケンカのはずがが、夫どうし、妻どうしの結託も起こり、それぞれの本性が丸裸になっていく。みなインテリで良識的だったはずが、その仮面の下が見えてくる。

 映画ならではのシーンが連発して場内は笑いが絶えない。なんだ、これと言う感じだが、不思議に後味は悪くない。取り繕ったタテマエの話より、ホンネは常に面白いと言うことか。人間の生の姿は、美しいだけではないが、それでもどこか可愛らしいということか。

 ロマン・ポランスキー監督は、去年公開の「ゴーストライター」がキネマ旬報ベストワンになった。僕はそれほど優れているかなあと疑問もあるが、「戦場のピアニスト」と並んで21世紀に2度のベストワン監督になった。ポーランド生まれのユダヤ人、母はアウシュヴィッツで死亡。共産党治下のポーランドで評価されず、イギリスに渡るがハリウッドに呼ばれ、女優シャロン・テートと結婚するも、1969年カルト殺人者のチャールズ・マンソンに妊娠中の妻を殺される。1977年にジャック・ニコルソン邸で13歳の少女と性関係を持ったとして逮捕、起訴。保釈中に映画撮影と称してヨーロッパに出国し、未だにアメリカに帰れない。2009年にはスイスで身柄拘束されるなど、アメリカからは逃亡犯扱いを受けているという、波乱万丈すぎる人生を送っている監督である。普通の人生の何十倍も濃い。

 僕個人の好みを言えば、70年代の「マクベス」「チャイナタウン」「テス」あたりが最高傑作ではないかと思うのだが、最近の映画も演出や編集のうまさにはうならされる。小品だが傑作。
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イスラム教の基礎理解②-緊迫!イラン情勢⑦

2012年03月02日 00時44分24秒 |  〃  (国際問題)
 仏教とかキリスト教がいつ成立したか、正確な年代は不明なわけだけど、イスラム教に関しては西暦622年成立とはっきり決まっている。610年ごろに、メッカ(これも最近は「マッカ」という表記が多くなってきた)の商人ムハンマドが天使ジブリール(ガブリエル)から神の啓示を受けた。しかし、メッカでは従来の多神教的な伝統が強くて、迫害されたムハンマドらは622年に北方のメディナに本拠地を移した。これが「ヒジュラ」(聖遷)。この年をイスラム暦元年とする。イスラム暦は「月のカレンダー」(太陰暦)で、現在は1433年。

 ということで、イスラム教は他の大宗教に比べて成立が新しい。イスラム教に対して「危険な感じ」を持っている人も世界には多いんだろうけど、それもこの成立の新しさ、つまりまだ生き生きとして拡大期にあるという事情が大きいのではないか。仏教やキリスト教は、もちろん個人的に新しく信者になる人はいるけど、イスラム教のように今もどんどん増えている感じはしないだろう。(アフリカ大陸では、今までの北アフリカだけではなく、中部の黒人国家でもイスラム教が広まっている。ナイジェリアでは南部のキリスト教徒との間でテロが続いている。)

 宗教と言うのは「信じる」という行為だから、他人からすれば「よくわからない」部分はあるし、その教義を社会全体に適用されると「迷惑」「危険」な場合がある。アメリカ合衆国では、「キリスト教原理主義者」が相当に政治的な影響力を持っていて、「宗教右派」と呼ばれている。(妊娠中絶に大反対、死刑制度に大賛成で、矛盾があるんじゃないかと僕には感じられるんだけど。)それに対して「イスラム原理主義」という言い方もあるが、これは本来はおかしい表現である。なぜならキリスト教には、聖書の中で現代人から見ると「何だかなあ」という部分(復活とか処女懐胎とか)は別にしてしまって、それ以外を信じるみたいな考え方もあったから「聖書に帰れ」という一派が出てくる。しかし、イスラム教では「神の言葉そのもの」である「クルアーン」を人間がいじり回すことはできない。解釈をめぐって法学者に対立が起こることはあっても、「クルアーンに帰れ」などと言う発想が出てくるはずがない。

 だから「クルアーン」が人間に課した戒律をきちんと守り、助け合い、義務である礼拝、断食、巡礼、喜捨を果たして生きている、そういう穏やかなイスラム教徒(ムスリム)が大部分。人間だから完全な人はいないにしても、世界で10億人以上が信じていて、そのほとんどは特に政治的でも思想的でもない平和な人々に決まっている。日本だとお寺に行ったことがない人はいないだろうし、キリスト教の教会に行ったことがある人も多いだろう。でも、イスラム教の礼拝施設(モスク)に実際に行ったことのある人は少ないだろう。モスクは東京にもある。新宿の近くの代々木上原というところにある「東京ジャーミイ」である。誰でも見学ができる。とても敬虔な空間で、落ち着いた心を取り戻せるような場所である。建築美術的にも美しい。ミニスカートなどではダメで、上から長いスカートを履くように求められる。(用意されている。)女性はスカーフの用意もある。

 さて、ヒジュラ以後イスラム教は拡大を続け、630年にはメッカを奪回する。632年のムハンマド死後、イスラム共同体内の協議で「預言者の後継者」(カリフ)が選ばれることになるが、第4代カリフのアリーが661年に暗殺されると、シリア総督だったムアーウィヤが実力でカリフを名乗り、世襲王朝を開始する。これを認めるかどうかが、イスラム教の二派の違いとなる。あくまでもアリーの系譜だけを認めるとするのが「アリーの党派(シーア)」という意味で「シーア派」と呼ばれるが少数派。やはり実力者を認めてしまうのが世の常と言うべきか、多数派は「慣行」(スンナ)に従う人々という意味で「スンナ派」。スンナに従う人々をスン二と言って「スンニ派」とも言う。マスコミは大体そっちだけど、これも教科書ではスンナ派が多くなってきている。

 その少数派のシーア派を国を挙げて信仰しているのが、イランである。そして、イランの隣国のイラクやバーレーンではシーア派の方が多いという。サウジアラビアなど湾岸諸国にも比較的シーア派が存在する。イランがイスラム革命で宗教国家となると、イラクやサウジアラビアなどでは、「革命の輸出」によって自国の政治体制に影響が及ぶのを恐れた。イラクはスンナ派のフセイン体制を米英が打倒して、選挙によって政府を作ることになって実際にシーア派勢力が最大勢力になっている。(首相をシーア派、大統領をスンナ派のクルド人という体制で一応の「国家的まとまり」をつけている。)だから、イラン対イスラエルというと、全イスラム教国がイランを支援するわけではないだろう。
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