壺井栄原作「二十四の瞳」(1952)を、松竹で木下恵介監督が映画化(1954)した。その年のベストワンであるのみならず、戦後日本のもっとも有名な映画であり、日本の戦争映画の代表作となった。僕の世代だと木下版の映画は映画マニア以外はあまり見ていないと思うけど、話は有名だから知ってるだろう。1987年に朝間義隆監督でリメイクされ、また何度もテレビ化されている。僕は数十年前に見て以来2度目で、デジタル・リマスター版(2007年)は初めて見た。デジタル・リマスター版の美しさは非常に優れたもので、古い映画を補修していく重要性を強く感じた。

多分1978年頃にフィルムセンターで木下恵介特集があり、ベストテン級の作品は大体見た。その時は「運命に流されていく」主人公を美しく描きあげる後期の作品群に違和感が強く、「二十四の瞳」も名作だけども不満が多かった。僕は日本の近現代史専攻で、当時盛んだった民衆史の影響を強く受けていた。闘わずに泣いているばかりの「泣きみそ先生」でいいのか、戦死した教え子の慰霊をして泣くだけでいいのか。「美しい風景の中で詠嘆する」映画を作っていていいのか。そういう「センチメンタルな反戦」で、戦争を真に批判できるのだろうか。
同じ年に木下監督は「女の園」を作っている。これは京都の古い女子大の学園紛争を描いて、ベストテン2位になった。3位が「七人の侍」、4位が山村聡「黒い潮」、5位が溝口「近松物語」。こうしてみると他は「闘う物語」だが、「二十四の瞳」が一番闘わない感じがする。その頃の歴史学では「民衆の戦争責任」や「銃後の女の戦争責任」も問題視されていた。「二十四の瞳」では戦争が自然災害みたいに、自然に起こり自然に終わる感じだ。戦争は国策で起こり、国策で終わったものであるにもかかわらず、映画の中ではどこからかやってくる災いのような感じで描かれている。

今回見直したら映画の印象がかなり違った。センチメンタルなのは確かだが、何という上品なセンチメンタリズムだろうか。涙で売ろうというような安直な描写は全くない。遠くから見つめているようなロングショットが意外なほど多い。周りでも泣いている人は多いようだったが、あまりにも過酷な生徒の人生そのものが自然と涙を誘うのである。同時代の人間が皆泣いたのは当然だろう。主人公の大石先生も、単に「泣いている先生」ではなかったように思える。
作文を使って授業をして、校長からくれぐれも注意するように言われる。1928年(昭和3年)に始まり、その年入学した1年生が卒業するとともに学校を辞めた。武張った時代に教室の自由も失われ、生徒も軍人志望が多くなる時勢にやる気を失ったのである。同時に長男を身ごもっていて、育休どころか産休もない時代だから、妊娠をきっかけに家庭に入って三人の子を産んだ。国策(「産めよ殖やせよ」)に協力したとも言えるが、反面では「戦時教育に抵抗して辞職した」という一面もある。だから戦争が終わると教壇に復帰するのである。大石先生は「国民学校」時代には教壇にはいなかったのだ。
大石先生は確かによく泣いた。感激するとすぐ泣く。自分の子どもから、戦死すれば「靖国の母」になれると言われ、そんなものになりたくないと言う。「意気地なし」と言われると「意気地なしで結構」と言い放つ。この「意気地なしの美学」のようなものが全篇を覆っている。軍事優先時代に、あくまでも「子供の気持ちに寄り添おうとした」のが大石先生だった。戦死は嫌だ、夫や子供が死ぬのは嫌だ、嫌なものを嫌だと言えないのも嫌だ。これは反戦の原点である。だから二度と戦争は嫌だという気持ちはある時点までの日本国民には言わずとも共有されていた。そういう国民的記憶が忘れられつつある現代では、この「二十四の瞳」から再出発する必要があるのではないか。
二十四の瞳だから12人。男5人のうち、戦死3人、一人は戦傷者で盲目である。女7人のうち、一人は結核で死亡、一人は村を捨て行方不明。結局大石先生が教壇に復帰した時に集まった元生徒は7人に過ぎない。なんという凄まじい犠牲だろう。戦争、貧困、病気が皆を苦しめていた時代だった。こういう「近過去」を永遠に忘れずに語り継ぐという意味で、この映画や原作の価値は今もゆるぎない。でも女には参政権も与えられていなかった時代の話である。今は泣いているだけでは済まない。声を挙げるべき時に声を挙げるのは、国民の権利であり義務である。
この映画で忘れていたこと。岬の分教場で大石先生が教えたのはたった半年だった。ずっと教えたように思い込んでいた。男先生は笠智衆で、歌ったりしている。これも忘れていた。大石先生の夫役は天本英世で、後に岡本喜八映画で怪演する印象が強いが、この役は忘れていた。教師の最大の仕事は子どもを十分にいつくしむことだという、教育の原点を知らしめるような映画だ。今も生命力があるというのはスタッフ、キャストの力であるが、今の教育が忘れているものとも言える。とりあえず、今は戦争で死ぬ生徒はいない。これが戦後の最低の達成点であり、それは大きな成果である。

多分1978年頃にフィルムセンターで木下恵介特集があり、ベストテン級の作品は大体見た。その時は「運命に流されていく」主人公を美しく描きあげる後期の作品群に違和感が強く、「二十四の瞳」も名作だけども不満が多かった。僕は日本の近現代史専攻で、当時盛んだった民衆史の影響を強く受けていた。闘わずに泣いているばかりの「泣きみそ先生」でいいのか、戦死した教え子の慰霊をして泣くだけでいいのか。「美しい風景の中で詠嘆する」映画を作っていていいのか。そういう「センチメンタルな反戦」で、戦争を真に批判できるのだろうか。
同じ年に木下監督は「女の園」を作っている。これは京都の古い女子大の学園紛争を描いて、ベストテン2位になった。3位が「七人の侍」、4位が山村聡「黒い潮」、5位が溝口「近松物語」。こうしてみると他は「闘う物語」だが、「二十四の瞳」が一番闘わない感じがする。その頃の歴史学では「民衆の戦争責任」や「銃後の女の戦争責任」も問題視されていた。「二十四の瞳」では戦争が自然災害みたいに、自然に起こり自然に終わる感じだ。戦争は国策で起こり、国策で終わったものであるにもかかわらず、映画の中ではどこからかやってくる災いのような感じで描かれている。

今回見直したら映画の印象がかなり違った。センチメンタルなのは確かだが、何という上品なセンチメンタリズムだろうか。涙で売ろうというような安直な描写は全くない。遠くから見つめているようなロングショットが意外なほど多い。周りでも泣いている人は多いようだったが、あまりにも過酷な生徒の人生そのものが自然と涙を誘うのである。同時代の人間が皆泣いたのは当然だろう。主人公の大石先生も、単に「泣いている先生」ではなかったように思える。
作文を使って授業をして、校長からくれぐれも注意するように言われる。1928年(昭和3年)に始まり、その年入学した1年生が卒業するとともに学校を辞めた。武張った時代に教室の自由も失われ、生徒も軍人志望が多くなる時勢にやる気を失ったのである。同時に長男を身ごもっていて、育休どころか産休もない時代だから、妊娠をきっかけに家庭に入って三人の子を産んだ。国策(「産めよ殖やせよ」)に協力したとも言えるが、反面では「戦時教育に抵抗して辞職した」という一面もある。だから戦争が終わると教壇に復帰するのである。大石先生は「国民学校」時代には教壇にはいなかったのだ。
大石先生は確かによく泣いた。感激するとすぐ泣く。自分の子どもから、戦死すれば「靖国の母」になれると言われ、そんなものになりたくないと言う。「意気地なし」と言われると「意気地なしで結構」と言い放つ。この「意気地なしの美学」のようなものが全篇を覆っている。軍事優先時代に、あくまでも「子供の気持ちに寄り添おうとした」のが大石先生だった。戦死は嫌だ、夫や子供が死ぬのは嫌だ、嫌なものを嫌だと言えないのも嫌だ。これは反戦の原点である。だから二度と戦争は嫌だという気持ちはある時点までの日本国民には言わずとも共有されていた。そういう国民的記憶が忘れられつつある現代では、この「二十四の瞳」から再出発する必要があるのではないか。
二十四の瞳だから12人。男5人のうち、戦死3人、一人は戦傷者で盲目である。女7人のうち、一人は結核で死亡、一人は村を捨て行方不明。結局大石先生が教壇に復帰した時に集まった元生徒は7人に過ぎない。なんという凄まじい犠牲だろう。戦争、貧困、病気が皆を苦しめていた時代だった。こういう「近過去」を永遠に忘れずに語り継ぐという意味で、この映画や原作の価値は今もゆるぎない。でも女には参政権も与えられていなかった時代の話である。今は泣いているだけでは済まない。声を挙げるべき時に声を挙げるのは、国民の権利であり義務である。
この映画で忘れていたこと。岬の分教場で大石先生が教えたのはたった半年だった。ずっと教えたように思い込んでいた。男先生は笠智衆で、歌ったりしている。これも忘れていた。大石先生の夫役は天本英世で、後に岡本喜八映画で怪演する印象が強いが、この役は忘れていた。教師の最大の仕事は子どもを十分にいつくしむことだという、教育の原点を知らしめるような映画だ。今も生命力があるというのはスタッフ、キャストの力であるが、今の教育が忘れているものとも言える。とりあえず、今は戦争で死ぬ生徒はいない。これが戦後の最低の達成点であり、それは大きな成果である。