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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

亀戸事件と寺社巡り-亀戸散歩②

2014年05月07日 21時46分40秒 | 東京関東散歩
 亀戸で配布している「下町ぶらりマップ」というのがあるが、そこには「伝統と下町人情溢れる街」と書いてある。でも、このマップに「亀戸事件の碑」は載っていない。亀戸事件はそれなりに知られているし、場所を知りたい人もいると思われるが。「下町人情」というのは、権力犯罪を隠ぺいするものなのだろうか。

 「亀戸事件」というのは、関東大震災時の虐殺事件である。当時、亀戸一帯は東京を代表する工場地帯で、労働争議も多かった。まだ東京市ではなく、「東京府南葛飾郡亀戸町」だった時代の話である。当時の日本でもっとも戦闘的な労働運動が盛んな地帯で、「南葛魂」と呼ばれるほどだった。震災以前から亀戸警察とは衝突する関係だったのである。特に南葛労働組合の川合義虎(1902~1923)は、日本共産青年同盟の初代委員長を務めた人物だから警察に狙われていた。また純労働者組合を結成した労働運動家で労働者演劇運動も進めた平沢計七(1889~1923)も亀戸にいた。震災後、3日になって川合、平沢らが検束され、4日亀戸警察署内で習志野騎兵第十三連隊に刺殺された。長く犠牲者数も明らかではなく、「川合、平沢ら」などと書かれてきたが、この「ら」は全部合わせて10名にものぼる大々的な権力によるテロ行為だったのである。

 亀戸事件の碑は浄心寺(亀戸4丁目17-11)にある。駅前の明治通りを天神の方に歩いて行くと、蔵前橋通りにぶつかる。今、そこに「亀戸梅屋敷」という案内所、休憩所が出来ている。(土産やマップが入手できる。)ちょうどその裏手あたりに浄心寺がある。特に解説のようなものがないので、知って行かない限り見つからない。でも亀戸に行くなら、ぜひ立ち寄りたいところではないか。碑の下にある人名は磨滅していて読めない。コントラストなどを調整して写真を修整してみた。言われてみれば、かろうじて川合義虎らの文字が読み取れるのではないか。この碑ができた段階では、中筋宇八が犠牲者数に入ってなくて、9名の名しか刻まれていない。
   
 亀戸というところは、農村から工業地帯、そして高層住宅と商業地と移り変わってきた。今、亀戸中央公園となっている場所が日立製作所の跡地。駅の周辺には、日清紡、東洋モスリン、東京モスリン、東京キャラコ、松井モスリンなどの工場が立ち並び、一大紡績工業地帯だった。日清紡跡地は現在亀戸二丁目団地になっている。この地帯には、紡績女工がいっぱいいて、日本の女性労働運動の先駆けの地だったのである。大杉榮と伊藤野枝夫婦も最初の子ども、魔子が生まれたころは亀戸に住んでいた。「日清紡績創業の地」碑が、川向こうが墨田区という横十間川沿いにある。ちょうどその前あたりに「亀戸銭座跡」の碑もある。江戸時代に「寛永通宝」を作っていたところだという。
 
 亀戸天神の近くには寺社が集中している。「亀戸七福神」になっているので、正月は賑わうのだろう。順々に歩いて写真を撮って行きたい。もっとも全部は見ない。天神から北へ5分ほど、「龍眼寺」は萩の寺として有名だという。小ぶりだが、庭がきれいで碑も多い。芭蕉の碑「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」と石田波郷の碑、庚申塔の写真。
    
 そこから少し行くと天祖神社。鯉のぼりが架かっている。「招魂碑」とあったので見に行くと、空襲犠牲者の追悼碑だった。戦後の復興の記念塔も立っている。このあたりには空襲犠牲者関係の史跡が多い。向こうにスカイツリーが見えるのも面白い。
   
 梅屋敷跡(江戸時代に有名だった梅の名所)などを見ながら、ぶらぶらと「普門院」へ。案内板によると、この寺は昔は川筋にあり、移転するときに鐘が落ちてしまった場所が「鐘ヶ淵」になったのだという。鐘ヶ淵というのは墨田区の地名で、カネボウの由来である。また将軍吉宗が鷹狩りの後で休憩したところだという。ここにも戦災犠牲者の碑があるが、それより「野菊の墓」で有名なアララギ派の歌人伊藤左千夫(1864~1913)の墓がある。左千夫は亀戸から千葉方面に一駅行った平井で乳牛の牧場をやっていたことは有名。写真の3枚目は墓地の様子、最後は寺の前面。新緑がきれいで、何となく撮ってみた。
   
 そこからまたぶらぶらと10分行くと、香取神社。香取神社は関東に非常に多い。少し行った墨田区にもある。そこで「亀戸香取神社」とも言う。参道も立派で、スポーツの神社で知られているらしい。境内の白石を拾うと勝ちにつながるとか。境内に「亀ヶ井」がある。亀戸は昔、「亀の島」という島だったそうで、やがて「亀村」となるが、「亀ヶ井」という湧水が有名だったとか。そこで「亀井戸」の地名となり、やがて「井」が落ちてしまったわけである。その実際の井戸ではないが、記念として再現したということで、近くに水をかけるといいという像がある。
  
 ここにはもう一つ面白い碑があり、「亀戸大根の碑」という。大根は亀と並んで亀戸の代名詞。江戸末期から有名だったという。小さな大根なんだけど、江戸前の深川飯に合うという。案内所の梅屋敷の隣にある有名な料理屋「升本」の前で大根を見ることができる。亀戸大根あさり飯で有名だということだが、メニューを見るとなかなか高い。サラダだけというわけにも行かないし。
  
 亀戸駅前には親亀子亀孫亀の噴水がある。これも面白い。特殊プラスティック製だという。もっとも水が出てない時間だったけど。亀戸には面白い店がいっぱいあったが、「立ち食いピッツァ」という店は初めて見た。明治通り沿いにある。天神に行く途中の交差点にある「但本いり豆店」というのも、前から不思議だと思っているんだけど。駅前には一部で知られる「亀戸餃子」。いつも満員で、餃子しかない。というか、焼き餃子と飲み物だけ。ライスも水餃子もない。しかも注文しなくても、二皿出てくる。餃子しかないんだから、最低二皿ぐらいは食べられるだろうが、もう店の決まり。中央通り商店街では、鯉のぼり祭りをやっていて、なかなか壮観だった。
   
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藤の亀戸天神-亀戸散歩①

2014年05月06日 21時58分34秒 | 東京関東散歩
 「亀戸」というのは、秋葉原から総武線で千葉に向かって4つ目の駅である。江東区の北の方の町で、「かめいど」と読む。(どこから「い」が出てくるかということは②の方で書くが、知らない人は「かめと」としか読めないだろう。でも大体の人は「かめーど」と発音していると思う。)駅前に区立のカメリアホールがあり時々行くことがあるが、大部分の人は「亀戸天神」で知ってる町だろう。それと天神前の船橋屋の葛餅。東京のあちこちでお土産で売っていて、東京では葛餅の代名詞となっている。

 天神様だから当然梅も有名だけど、何と言っても亀戸天神は藤。毎年ゴールデンウィーク頃が藤祭りで、屋台もいっぱい出て外国人の観光客も多い。久しぶりに行ってみようかと思い、4月末に訪ねた。久方ぶりなので、藤棚や太鼓橋のかなたに東京スカイツリーが見えるのが新鮮。クリックして藤を拡大してご覧ください。
   
 ちょうど満開に当たった。せっかく撮った藤の写真をもう少し。枝垂れの藤が池にかかるのももきれい。一週間してまた行ってみたら、もう大分終わっていたが、キバナ藤という黄色い藤が咲いていた。
    
 亀戸天神の創建は1662年ということで、これは日本の神社としてはそんなに古くない。東京では湯島天神もあり、こっちは458年創建と言ってるらしい。それは伝説だろうが、南北朝時代には菅原道真を祀っていたらしい。鏡花の「婦系図」でも有名で、知名度だけなら湯島が上かもしれないが、今はビルの中という感じで、亀戸の方に情緒がある。大宰府にならって作られたという太鼓橋藤の花などは江戸時代から有名で、北斎や広重の絵にも描かれている。著作権は関係ないだろうから、ここに示しておきたい。前者が葛飾北斎、後者が歌川広重
 
 入り口の鳥居を通ると、もう屋台がいっぱい。少し行くと境内の最初に太鼓橋。境内はそんなに大きくはないが、太鼓橋も男橋と女橋の二つある。さまざまの碑も立ち並び、見所が多い。太鼓橋の上から藤棚を一望することもできる。写真向きのビューポイントが多いが、「太鼓橋と藤棚とスカイツリー」3点セットがうまくそろう構図は難しい。
   
 本殿の前に「神牛殿」があり、牛の坐像がある。なでるといいらしく、さすっている人がいっぱい。本殿へ向かう途中に「菅公五歳の像」というのもある。本殿前には「文房至宝」とある文房具の碑とか、いろいろ。解説がないとから由来が判らないが、屋台の裏にずらっとある。
   
 境内のはずれの方には、国産マッチの創始者・清水誠の碑とか中江兆民の碑もある。明治期の自由民権思想家として有名な兆民の碑がどうしてここにあるのか、どうも由来が不明らしい。境内に入ってちょっと左側に行くと「筆塚」というのもある。
  
 ということで大体見てきた感じだけど、本殿の写真も最後に。天神だから受験成就を願う絵馬がいっぱいかかっている。ここの池はとにかく亀が多い。鯉より亀が多い。見てると飽きないけど、少し多すぎないか。亀戸だから亀が大事にされてるんだろうけど。祭り中は屋台がいっぱい出てたが、それより大通りに戻って右に行くと船橋屋本店がある。駅にも売店があり、その他角々に船橋屋売店がある感じだけど、食べられるのは本店だけ。でも祭り中などは並ぶこと必至。ここは昔、中学で就職担当をしていた時に、生徒を連れて工場見学に来たことがある。工場というか、裏で実際に作っているところを見せてくれた。就職すればそこで働くことになるわけだから、職場見学。その後、葛餅をごちそうになった。
   
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4月の映画日記②

2014年05月04日 23時46分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 前回書いたものに追加して書く予定だったけど、間が空いたので②として書くことにする。ジャック・タチの映画や「アデル、ブルーは熱い色」は書いたけど、その他の映画。
 山田洋次の新作「小さいおうち」をようやく見た。まあ近年の中では佳作だと思うけど、その良い部分はほとんど中島京子の原作に拠っている気がする。いや黒木華がベルリンで受賞したように、演技や演出に見るべきものがあると言われれば、その通り。でも、僕はこの原作があまり好きではなく、ほぼ忠実な映像化を見ても、話にどうも乗れない感じがした。妻夫木聡も余計だし。月末に小津の「戸田家の兄妹」を久しぶりに見直したけど、「女中」の描き方さが同時代だから自然である。山田作品は、やはり「現代の目で整理されてしまった」物語なのか。なお、「戸田家の兄妹」は、プレ「東京物語」として重要な作品だと改めて感じた。音声が悪いので、こういうのからデジタル修復して欲しい。

 続いてラピュタ阿佐ヶ谷のATG映画特集で、これも久方ぶりに井上光晴原作、熊井啓監督の「地の群れ」を見た。ATG映画を全部振り返りたい気もしたけど、ほぼ見てるし家から遠いので、これしか見なかった。熊井作品は、没後の追悼特集で大体やってたけど、この映画だけなかった。このような重層的な差別を描く「問題作」は、なかなか上映の機会がないということだろうか。少なくともテレビでは絶対無理だろう。長崎で、原爆被爆者の集落と被差別の間で対立が起こる。それを差別の思い出を抱える医者の目で描き出す。男と女という問題も突きつける。画面は暗いし主題の重さが全体のトーンを重苦しくして、相当にしんどい映画。よく作れたという感じだ。「黒部の太陽」と「忍ぶ川」の間の映画である。

 4月に見た映画で一番心に残ったのは、新文芸坐で見た昨年のキネ旬文化映画1位「標的の村」と2位の「ある精肉店のはなし」だった。「標的の村」は琉球朝日放送が製作し、沖縄の基地問題を扱うから、関心はあったけどニュース的な映画かと誤解して、最初に公開された時に見なかった。しかし、やんばるの高江で行われているヘリ・パッド反対闘争に関わる誇り高き人々の映像は、非常に感動的。小川伸介の「三里塚 第二砦の人々」や亀井文夫「流血の記録-砂川」をも超える価値のある「闘いの映画」である。「精肉店」は「祝の島」を作った纐纈彩監督の第2作だが、姓の「纐纈」を「こうけつ」だと思い込んでいたが(近代史研究者にそういう名の人がいる)、「はなぶさ」と読むと知りビックリした。ポレポレ東中野で11月29日に公開されて以来、未だにやってる大ロングランも今週で終わる。牛を飼って精肉する過程をじっくりと描き、人が肉を食べるという重みを伝えている。最近は「世界屠畜紀行」を書いた内澤旬子のような人が出てきているので、ヒットする土壌があったのだろう。ただ、僕は見ていて、やはり肉が好きなわけではないなあと感じた。見てても、特に美味しそうと感じないものな。この2作は、自主上映会も多いので、近くでやってるところがあったら、絶対見逃すべきではない。これほど心の響く映画は、最近の劇映画にもほとんどないと思う。

 もう一つ、坂上香「トークバック」も素晴らしかった。サンフランシスコで、HIV陽性者の劇団を作り、「生き直し」の試みを進める演劇活動の様子を数年間追い続けた記録。演劇であり、社会活動であり、治療行為でもある。そこで見えてくるアメリカの分断、差別の状況がすさまじい。でも人々は悲劇を乗り越えるような力も持っているのである。以上の3作は是非見て欲しい映画だが、テーマがテーマで簡単に書けないし、上映期間も限られているので、独立した記事を書かなかった。こういうのも重要な映画体験だ。

 劇団ポツドール主催の三浦大輔が岸田賞受賞の戯曲を映画化した「愛の渦」。大根仁の監督した「恋の渦」の姉妹編と言える。これはネットで募集した「乱交パーティ」に集まった男女4人ずつ計8人と主催者側の2人と10人だけの映画。これはこれで忘れられないような映画なんだけど、どうも好きになれないのは、「恋の渦」と同じ。もちろんセックス場面だらけの映画だけど、扇情的というより、あまり感じない映画ではないか。何しろ愛情と無関係の、ただのセックスだけ延々と見させられても。人間性の不思議を感じることはあるけど、これは心に冷風の吹き込む映画体験だった。

 フィルムセンターで、日本の初期カラー映画を特集している。見逃し作品が結構あるので、時間があれば見ている。4月から消費税アップで、一般520円になった。利益を目的としていない上映なのに、消費税がかかるのか。溝口の「楊貴妃」「新・平家物語」を見ていなかったので、この機会に見た。まあ、永田雅一に義理があるから「楊貴妃」なんか作るんだろうけど、やはり日本の女性映画しかダメな人である。
 稲垣浩監督の「宮本武蔵」三部作は、見てないつもりで見に行って、第一作は見ていたのにビックリした。ついこの間見たばかりなのに。武蔵はとにかく内田吐夢、中村錦之介版の5部作があるので、もうそれが決定版になってしまった。でも、この稲垣版も悪くない。第1作は米国アカデミー賞を受賞してるけど、それより第2作の「一乗寺の決闘」がいい。佐々木小次郎は鶴田浩二で、吐夢版の高倉健よりいいかも。お通の八千草薫、沢庵和尚の尾上九郎右衛門(六代目菊五郎の実子で、病気で七代目を継がず、アメリカで大学教授となり歌舞伎の世界紹介に努めた)の素晴らしい姿を永遠に残す映画でもある。

 最後に今年のアカデミー賞作品賞の「それでも世が明ける」。名作である。名作過ぎて、「アメリカン・ハッスル」や「ダラス・バイヤーズクラブ」などのような穴がある映画ではないから、ここで紹介する気が起きなかった。ただ、脚本と演出も良く出来ていて、演技も素晴らしく、ドレイの非人道的な状況が心に伝わる。どこかで必ず見るべき映画だろう。まあアカデミー作品賞という印籠があるから、映画ファンなら大体は見るだろうけど。現代の「フルートベール駅で」も興味深かったが、これは作品的にはまだまだ良くなる余地の多い映画だと思う。
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2014年4月の訃報

2014年05月04日 00時25分38秒 | 追悼
 4月30日に、僕にとっては感慨深い二人の訃報があった。一人は、昨日の新聞で報じられた「寺山修司元夫人」である九條今日子(4.30没、78歳)。去年寺山の没後30年ということで、九條の「回想・寺山修司」という本が角川文庫に入った。ちょうど去年の今ごろ、その本を読んでいた記憶がある。よりによって憲法記念日に「九條今日子」という名の人について書くのも、不思議な因縁である。

 九條今日子は昨年行われた寺山連続上映で、何回かトークをしていた。僕も篠田正浩とのトークを聞いたけれど、よく知られているように松竹の若手監督だった篠田が二人の縁結びの神だった。去年話を聞いた時は健康の不調を思わせる感じはしなかったのだが。ところで、九條はもともと映子の名前でSKDのダンサーだった。SKDといっても若い人は知らないだろうけど、浅草の国際劇場(現在の浅草ビューホテル)に本拠地を置く松竹歌劇団の略称である。宝塚と同じく、松竹はじめ各映画社の女優を輩出することになる。戦後だけでも淡路恵子、芦川いづみ、野添ひとみ、倍賞千恵子、美津子姉妹などの名があがる。九條もそのような一人で、松竹の若手女優としてデビューした。大島渚に「明日の太陽」という宣伝短編映画がある。松竹の若手俳優を紹介する映画だが、そこでも九條が取り上げられている。期待の若手の一人だったのである。

 篠田は前々から母校早稲田にいた若手歌人の鬼才として寺山に関心を持っていて、第2作の「乾いた湖」の脚本を依頼している。その時に九條のファンだということを知って、引き合わせたわけである。その後の寺山との交際、結婚に関しては前記の本に詳しいが、寺山が劇団を作り、夢のような驚きの日々が始まるが、同時に「寺山の母」という不可思議な存在の翻弄されることになる。離婚以後も寺山姓を名乗り、やがて寺山の母の養女ともなり、著作権管理者となる。寺山と付き合ったことにより、女優はやめることになるが、一生を「寺山修司」という物語のプロデュ―サーとして生きたような人生になった。

 もう一人が葛井欣士郎(くずい・きんしろう、4月30日没、88歳)である。60年代、70年代の映画、演劇を語る際には落とせない人で、映画・演劇プロデューサーという肩書で報じられているが、それよりも新宿にあった映画館、新宿文化の支配人である。ここがアートシアター(ATG)の常設館で、1962年にポーランドの「尼僧ヨアンナ」公開以来、世界の芸術映画を続々と上映した。そのうち日本映画も上映するようになり、さらに自分で製作も始めて「ATG1000万円映画」というものを生み出した。この金額は当時としても低額で、その分監督の熱意とアイディアのつまった傑作、問題作が続々と作られた。やがて、上映館支配人だった葛井も、自分でプロデュ―サーに名を連ねるようになる。大島渚の傑作「儀式」、篠田正浩の「沈黙」以後の70年代の映画にはほとんど関わっている。だから当時の映画ファンは、ベストテンに入ったような映画を何本か見れば、自然と葛井欣士郎という名前を覚えてしまったのである。

 と同時に、葛井は新宿文化を映画だけでなく、演劇公演の場にも解放、映画上映後のレイトショーとして清水邦夫作、蜷川幸雄演出の問題作を続々と上演し、熱狂的な評価を獲得した。そのことは僕も新聞で知っていたけれど、高校生の頃だからさすがに見ていない。というか、新宿文化そのものに行ったことがない。ATG映画は見ていたけれど、日劇(今の有楽町マリオン)の地下にあった「日劇文化」が最寄駅から直通で行けるので、新宿には行かなかったのである。でも新宿文化の地下に作られた「蠍座」(さそりざ)二は何回か行っている。ここは演劇の他、美輪明宏や浅川マキなどの歌、あまり他ではやらない映画の上映などをしていたところである。葛井には「遺書 アートシアター新宿文化のすべて」(河出)という大部の本があり、非常に面白い。読んだけど、今どこにあるのか出てこないのが残念。新宿文化でやった全部の映画、演劇の詳細な情報が載っている。

 僕が子供の頃は、誰か有名人が死ぬと、テレビで「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と言う中村草田男の句が紹介されていたものである。その後、90年代頃からは、「戦争を知る人がまた一人いなくなった」と言われるようになった。ところで、最近の訃報を聞くにつれ、60年代、70年代を知る人がいなくなりつつあるのである。60年安保から半世紀以上たっている。今年は東京五輪から50年。直接関わった人が少なくなっていくのは当然だ。しかし、「高度成長」の光と影60年代末の世界的な「若者の反乱」と「文化革命」。それらを知ることなく、現代を理解することはできない。そう言う意味でも、九條、葛井両氏の訃報は、とても心に響く出来事だった。

 映画関係では、鈴木晄(すずき・あきら、4月17日没、85歳)の訃報があった。日活の名編集者だった人である。編集という工程はあまり意識されないけど、映画のリズムを作る非常に重要な作業だろう。「関東無宿」「執炎」などの僕の好きな作品を担当しているが、「嵐を呼ぶ男」とか「南極物語」、「セーラー服と機関銃」「太陽を盗んだ男」などもこの人。「お葬式」「マルサの女」などの伊丹十三映画もこの人の編集だった。日本映画アカデミー賞を6回獲った技術を誇る。

 海外ではアメリカの俳優ミッキー・ルーニー(4.6没、93歳)、イギリスの俳優ボブ・ホスキンス(4.29没、71歳)などの他、俳優ではないが映画「ザ・ハリケーン」のモデル、ルビン・カーター(4.20没、76歳)の訃報もあった。無実のプロボクサーとして、19年間獄中生活を送り無罪となった。ほとんど袴田事件と同じような構図で、袴田さんの支援もした。

 元日本銀行理事の緒形四十郎(4.14没、86歳)という名前にそんなに印象はなかったけれど、この人が緒形貞子さんの夫だった人。1985年の有名な「プラザ合意」に立ち会ったのだという。吉田内閣の副総理だった緒方竹虎の三男だった。

 4月はガルシア=マルケスを除き、大きく報道された訃報がない月だった。寒い冬が終わったということだろうか。僕が名前を知っていた人では、中華料理の周富徳(4.8没、71歳)氏がいるが、よく知っているわけではない。あまり知られていない人だろうが、篠塚良雄さん(4.20没、90歳)の訃報を最後に書いておきたい。この人は、千葉県に生まれ、同郷の石井四郎の作った関東軍第731部隊の少年隊員となったのである。その仕事ななんと細菌兵器を作るという仕事だった。少年時代の残虐な出来事を忘れられず、731部隊の出来事の証言活動を続けてきた。僕は「731部隊展」に関わった時に篠塚さんの話は何回か聞いている。誠実な人柄を偲ばせる証言だったと思う。アメリカでも証言しようとしたのだが、米国は戦争犯罪に関わったとして、入国ビザを出さなかった。自国の戦争犯罪隠ぺいを暴かれるのが怖かったのだろうか。日本の細菌戦は戦犯裁判で裁かれず、情報はアメリカ軍が独占し、朝鮮戦争では実戦にも使われたという疑惑がささやかれている。
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