尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「味園ユニバース」

2015年03月11日 23時39分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 山下敦弘監督、渋谷(しぶたに)すばる、二階堂ふみ主演の「味園ユニバース」。またまた山下監督の不可思議な魅力に魅了される映画の登場。題名が関西以外の人には意味不明なので、そこから書く。「味園ユニバース」というのは大阪・ミナミの千日前に実在する総合レジャービル、味園ビルにある貸しホール(元キャバレー)。味園ビルは1956年に建設され、宴会場、サウナ、スナック、キャバレー、ダンスホールなどが集まった施設として有名だったらしい。テレビCMが有名だったらしいが、もちろん関東圏では全く知らない。キャバレーは2011年3月15日に営業を終え、今は貸しホールになってるという話。

 そういう大阪「土着」文化を代表するような場所で、「赤犬」という実在のバンドが活躍している。ある日、ある野外コンサートで、ライブ中にわけの判らぬ男がフラフラ入ってきて歌を絶唱する。この男は映画の冒頭で、刑務所を出所した後で、街中を歩いていたらなぜか襲われた。そのまま記憶喪失になってしまったらしいが、歌だけは覚えている。赤犬のマネージャー、カスミは彼の歌にひかれるものを感じ、音楽スタジオをやってる実家に連れてきて、「ポチ男」と名付けて面倒を見始める。

 ポチ男が渋谷すばるで、「関ジャニ∞」のメンバーだというけど知らない。記憶喪失の謎は次第に解明されるけど、そうすると魅力も失せていく。歌だけが残った設定の冒頭のシーンが圧倒的な印象で、どうしようもない焦燥と孤独を生きる切実さが伝わってくる。カスミが最近の日本映画を支える女優、二階堂ふみ。親が死んで高校にも行かず、認知症の祖父の面倒を見ながら、スタジオやカラオケの小さな場所を守っている。その過去に縛られた青春と、過去を失った男。その男にも実はしょうもない過去があったわけで、そんなドラマが歌と大阪の町を通して展開していく。二階堂ふみは、いつもと少し違って、ほとんどはむっつりしたまま進行するのが心に刺さる。

 山下敦弘(のぶひろ)監督(1976~)は、愛知県出身で大阪芸大出身だから、大阪はなじみの深い土地のはずだが、映画に出てくるのは初めてだろう。「リンダ リンダ リンダ」や「天然コケッコー」といった忘れがたい青春映画の作り手だが、それよりも「何だろうなあ?」みたいな作品がけっこうある。「松ヶ根乱射事件」「もらとりあむタマ子」が代表的で、ストーリイ的にも技法的にも引っかかるところはどこにもないんだけど、見た後に「何、これ?どうして?」みたいな感じが残り、でも忘れがたい感触を残す映画なのである。前作の「超能力研究部の3人」になると、「何が何だかわからん」感も出てくるが、今回の「味園ユニバース」は判らないところはない。でも、何だろうなあみたいな感触は今までの作品に似ている。安易に感動も絶望もさせずに、ちょっとした「何か」が起こったところで映画を終わらせてしまうからかもしれない。映画自体が難しいということはないんだけど、一種の「異文化」探訪映画的な面がある。大阪にこういうとこがあるということ。赤犬や渋谷すばるの歌。何だかそういうことが全部心に引っ掛かりを残している。
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阿奈井文彦さんの思い出

2015年03月09日 21時48分29秒 | 追悼
 ノンフィクション作家の阿奈井文彦(あない・ふみひこ 本名・穴井典彦)さんが亡くなったと東京新聞の朝刊に載っていた。3月7日、誤嚥性肺炎のため死去、76歳。

 阿奈井さんは、1980年の韓国キャンプ以来の知人である。もっとも20年ぐらい会ってないと思うけど。フレンズ国際ワークキャンプ(FIWC)関西委員会主催の日韓合同ワークキャンプで、僕は初めて韓国へいき、またハンセン病回復者定着村に行ってハンセン病回復者の人々に会った。そのキャンプは夏休みに10日間近く行われたと思うが、大多数は奈良のハンセン病者の交流施設・交流(むすび)の家で行われた事前キャンプから参加していた。でも、毎年「あないさん」というおじさんが後から来て少し参加するんだということだった。この「あないさん」というのが、阿奈井文彦というライターだったわけである。僕は阿奈井文彦という名前は知っていた。しかし、ちゃんと本を読んだことはなかった。

 そして、確かに阿奈井さんは途中で現れて、少しワークには参加したものの、肝心の作業は手伝わないで、ノンビリ過ごしていたように見えた。阿奈井さんは韓国生まれで、もう10年近く続いていたワークキャンプに毎年少しでも参加するんだということだった。そして、韓国側の常連女性キャンパーから「アジョシ」「アジョシ」(おじさん)と呼ばれて、親しそうに話し込んでいた。何だかとても「オトナ」に見えたものである。今どこに行ったか見つからないのだが、阿奈井さんの最後の本、「サランヘ 夏の光よ」(2009、文藝春秋)という本に、韓国との関わり、そして韓国キャンプの話が感動的に出てくる。

 その頃は、僕は20代半ばで、まだ「大人」というものをあまり判っていなかった。それにイマドキと違って、阿奈井さんは、べ平連に参加し、南ベトナムに行くなどしていた。その前には大学を出てからクズ屋をしたり、年季が入った「自由人」だった。当時の自分は大学院生で、大学の先生以外には「著述業」の人などは身の回りに存在しなかった。例えば、帰国後のりユニオンの後で新宿のゴールデン街に連れて行ってくれるような人を知らなかったわけである。

 もう一つ、早稲田奉仕園での思い出もある。僕は1979年に早稲田奉仕園主催の東南アジアセミナーの旅行に参加して、初めて海外に出た。マレーシアで民泊したり、タイで日系企業を訪ねたり充実した旅行だった。その後も早稲田奉仕園の行事に時々参加していたのだが、月に一回、土曜の夜に「コーヒーブレイク」という集まりがあった。アジア・アフリカ(AA)作家会議主催で、早稲田奉仕園のロビーでゲストの話を聞きながら談論風発するという催しである。AA作家会議の若手会員でもあった阿奈井さんは、同じく吉岡忍さん、有光健さん、山口文憲さんなどのそうそうたる顔ぶれの人たちとともに、大体毎回顔を出して、二次会まで残って話をしていった。ずいぶんいろんな人の話を聞いたと思うけど、やがて僕も常連みたいな扱いになって企画会議に出させてもらい、竹内敏晴さんや栗原彬さんを推薦して実現したように覚えている。こうして、80年代半ばころまで、毎月のように会っては飲むことがあったわけである。

 阿奈井さんの本もずいぶん読んだ。初期にはアホウドリと自称してエッセイや聞き書きを書いていた。「仕事」関係の本では「アホウドリの仕事大全」など、あるいは「アホウドリ、葬式に行く」など。韓国が軍事政権から民主化へ向かうソウル五輪直前の韓国旅行のノートをまとめた「アホウドリの韓国ノート」などがある。闘病もあり、90年以降は本が少なくなるが、最後からひとつ前に「名画座時代 消えた映画館を求めて」(2006、岩波書店)は中身は題名そのもので、これは自分でも書きたいような本だった。この本も今はどこにあるのか、見当たらない。そして文春新書「べ平連と脱走兵」(2000)。これは今も入手できると思う。米兵がベトナム派兵を拒否して、脱走しべ平連に救援を求めた出来事を書いた本である。事実自体は当時明らかになっているが、具体的な様子は阿奈井さんの本などによって紹介されている。(もっと本格的な本では、思想の科学「隣に脱走兵がいた時代」という大著がある。)これこそ日本人が忘れずに語り継ぐべき戦後の歴史だと思うのだが、なんというか「青春」と「世界」がつながっていた時代がほんのちょっと前にあったということがうらやましいというか、無性に懐かしい思いもしてくる本である。こうして、阿奈井さんのことを思い出していると、「青春」に触れあった人々が去っていくことが悲しくなってくる。
 
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坂東三津五郎、栄久庵憲司、眞鍋理一郎他ー2015年2月の訃報

2015年03月08日 23時41分28秒 | 追悼
 2月の訃報より。大きく伝えられたのは、坂東三津五郎(10代目)(2.21没、59歳)である。僕は歌舞伎に暗いのだが、この人は新劇、テレビ、映画に出ていたので名前は知っている。芸風を語るほどの知識はないのだけど。山田洋次映画の「武士の一分」や「母べえ」に出ていた人と言えば、思い浮かぶ。中村勘三郎(18代目)を若くして失い、また市川團十郎(12代目)を失い、三津五郎を失う。しかし、「型の文化」として歌舞伎は続いて行くのだろう。三津五郎という名跡は、1975年にフグに当たって亡くなった人間国宝の8代目を思い出してしまう。9代は娘婿で、10代目は実子。
(10代目坂東三津五郎)
 栄久庵憲司(えくあん・けんじ 2.8没、85歳)は、工業デザイナーとして非常に著名な人物だった。僕も名前は聞いたことがある。今回検索してみると、ヤマハのオートバイのデザインが大量にヒットする。ロゴではコスモ石油やJRA(中央競馬会)など、誰もがどこかで見ているものがある。だけど、なんといってもキッコーマンのしょうゆ卓上ビンが有名。4億本が生産されたという。これも言われてみないと、誰かがデザインしたと気付かないぐらい、誰にも見慣れてしまっているのではないだろうか。その背景には「モノの民主化」「美の民主化」という持論があったという。
 (栄久庵憲司とキッコーマンしょうゆ瓶)
 映画音楽の作曲家として著名な眞鍋理一郎(1.29没、90歳)は、大島渚の初期作品を手掛けているので、名前はずいぶん昔から知っている。「青春残酷物語」や「日本の夜と霧」などが今も代表作として出ているが、ウィキペディアには膨大な作品名が出ている。管弦楽なども出ているが、映画音楽としては、川島雄三「洲崎パラダイス 赤信号」や増村保造「妻は告白する」、浦山桐郎「青春の門」や「太陽の子」などもこの人と出ている。山口清一郎監督の日活ロマンポルノ「恋の狩人 ラブハンター」(警察に摘発された)や小川紳介「日本解放戦線三里塚」まで担当していた。そうだったかという思いがする。芸大声楽科から作曲科に転じ、伊福部昭の弟子。
(眞鍋理一郎)
 フランスのピアニスト、アルド・チッコリーニ(2.1没、89歳)は昔聞きに行った思い出がある。エリック・サティを早くから弾いていて、サティのコンサートに行ったのは、もう35年ぐらい前のことだろう。詳しいことは忘れてしまったけど。「スタートレック」のスポック役のレナード・ニモイ(2.27没、83歳)はちゃんと見てなかったから判らない。「宇宙大作戦」の頃である。

 他に、がんとウィルスの関係を研究した文化勲章受章者、日沼頼夫(2.4没、90歳)、児童文化研究家の上笙一郎(かみ・しょういちろう 1.29没、81歳、アジア女性交流史のノンフィクション作家、山崎朋子の夫)、横溝亮一(2.17没、84歳、音楽評論家、横溝正史の長男)、シーナ(2.14没、61歳、「シーナ&ロケッツ」のボーカル)、宮崎総子(2.24没、71歳、フリーキャスター)、火坂雅志(2.26没、58歳、大河ドラマの「天地人の原作者)などの訃報が伝えられた。
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ブリジストン美術館の「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展

2015年03月07日 23時55分08秒 | アート
 東京・京橋にあるブリジストン美術館が本社ビル建て替えに伴い長期休館するということで、その前に「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展を開催している。3月31日からは展示替えがあり、青木繁「海の幸」なども公開される。(5月17日まで。)3月17日から31日は、学生無料ウィークと銘打ち、大学生、高校生が何度でも無料で入れるとのことである。フランスや日本の近代美術を中心に、魅力的なコレクションを誇っていて、今までにも見た絵が多いんだけど、数年間休館するなら見ておこうかと思った。フィルムセンターの近くなので、最近ずっとアジア映画特集に通ってるので、その前に寄るのに好都合。
 
 まず、最初の部屋にブリジストン美術館の開館(1952年)以来の歩みが展示されている。その前には彫刻の数々。あまり触れられないのだが、ここにはブールデルやロダンなどの近代彫刻、さらにエジプトやギリシャなどの古代彫刻がかなり多い。絵を見てると疲れてしまって、彫刻は通り過ぎてしまったりするが、すごくもったいない。さて、絵の展示室に入ると、モネシスレーセザンヌ等の素晴らしい絵が並んでいて、さらに名を知る画家の作品が続々と出てくる。名前は誰かなと心で思い出しつつ見ていくと、ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、アンリ・ルソー、ルオー、マティス、ピカソ、クレー、モンドリアン等々、僕らが何となく知ってる画家の特徴に合うような絵が並んでる。逆に石橋の選択が、日本人好みを選んでいて画家の印象を作ってきた側面もあるのかもしれない。

 先に載せた最初のチラシはピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》(1923)という作品で、ピカソの新古典主義時代の代表作だという。これは1980年の収蔵品だという。それより印象派やポスト印象派の作品群が強い印象を残す。特にセザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904~1906年頃)は、前にも何度か見てるけど非常に力強くて、またいかにもセザンヌ作品というイメージ。

 1987年に購入したルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(1876)が絵葉書の売り上げダントツ1位だという。35歳のルノワールが出版業者のシャルパンティエに頼まれて描いた。ジョルジェットは当時4歳。父親は当時ゾラやモーパッサンの小説を出していたという。確かに実に愛らしい。一体、この子は近衛の後、どのような人生を歩んだのだろうと夢想を誘われる。1876年の絵で4歳だから、1872年生まれ。1914年の第一次世界大戦時には、42歳ということになるわけだが。

 その後、日本近代絵画、特に藤島武二、安井曽太郎、藤田嗣治、岡鹿之助等の名品が続々と出てくる。最後に現代美術の部屋もあって、ついじっくり見なくなってしまうのだが、これももったいない。

 ブリジストンというのは、もちろん世界的タイヤメーカーを作り上げた初代・石橋正二郎のコレクションに始まる美術館である。石橋は福岡県久留米の出身で、青木繁、坂本繁二郎と同郷である。若くして亡くなった青木作品の散逸を恐れる坂本のすすめで、青木作品を集め始めたのが始まりという。青木繁の絵は久留米の石橋美術館に収蔵されていたが、2016年9月をもって石橋財団から離れて収蔵品は東京に移るとされている。地方の名だたる美術館の役割をめぐって議論されているが、その是非はともかく、一度は見ておきたい絵ばっかりの展覧会。(チラシに割引券が付いてるが、ホームページにも100円引き券がある。)
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マニラトナムの映画-現代アジアの監督⑤

2015年03月07日 00時51分27秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターのアジア映画特集、順番がショエーブ・マンスールと逆になったけど、インドの巨匠マニラトナムの映画を取り上げる。インドととパキスタンと言えば、今はもう別の国というイメージが強くなってしまったが、もちろん1947年の分離独立までは同じ国である。それまでは大英帝国統治下のインド帝国(英国王を皇帝とする)だった。しかし、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒を完全に分離できるわけもなく、分離独立したパキスタンとバングラディシュ(1971年までは東パキスタン)だけでなく、インド国内にも1億6千万人ほどのイスラム教徒がいる。ムスリム人口の多さでは、インドネシア、パキスタンに続いて世界第3位である。(ちなみに4位はバングラディシュ。)分離独立時には、相互に住民移動が行われた。ショエーブ・マンスール「BOL」の父親はデリーから、パキスタンのカラチ、さらにラホールに逃れた。一方、最近公開の「ミルカ」の主人公は、シーク教徒の少年だが、パキスタンからインドに難民として逃れてきた。その後も印パの対立、宗教紛争が常に起こってきた。

 マニラトナム(1956~)はインド南部、チェンナイ(旧マドラス)を中心とするタミル映画の巨匠である。「ムトゥ 踊るマハラジャ」「ロボット」などで知られるラジニカーントもタミル語映画の大スター。彼らの映画はタミル語で作られ、他の地域ではヒンドゥー語など他の言語に吹きかえられて公開される。「大地のうた」三部作などで有名な巨匠サタジット・レイはベンガル語映画。インドは巨大な世界で、映画もいくつもの言語で作られている。マニラトナムはヒンドゥー語やマラヤラム語などでも作っているが、ほとんどはタミル語映画。しかし、描くテーマはインド全体に及んでいる。今回上映された「ロージャー」(1992)から、音楽をA.R.ラフマーン(1966)が担当している。「スラムドッグ$ミリオネア」で米国アカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を受賞した人である。

 マニラトナムの映画は何本か公開されているが、どれも長いし、歌と踊り入りである。昨年公開された「めぐり逢わせのお弁当」など最近は踊りなしのインド映画もあるが、マニラトナム映画はA・R・ラフマーンの華麗なる音楽に乗せた素晴らしいダンスシーンが忘れがたい。大自然の中で踊るシーンも多い。水と光の映像美に歌とダンスがあいまって、躍動感あふれる映像に心を奪われ、時間を忘れる。しかし、それだけではない。テーマは「愛と平和」をストレートに歌い上げ、戦争を憎み、憎しみをあおる狂信的指導者やテロに怒りをぶつける。そのストレートさは日本だったらウソに見えかねないが、彼はインドという矛盾の塊のような世界で自分の命をかけて作っている。世界の映画界で一番、戦争やテロで罪なき子供が苦しむ現実に怒り、愛の素晴らしさを訴える映画を作ってきた監督だと思う。

 僕は昔「ボンベイ」に深い感銘を受け、自分のインド映画ベストワンと思ってきた。まあ、サタジット・レイ「大地のうた」やグル・ダッド「渇き」より本当に上かと突っ込まれると困ってしまうが。今回見た中では、改めて見た「ボンベイ」がやはり素晴らしいと思う。「ザ・デュオ」も見ごたえがあった。「ロージャー」と「頬にキス」も悪いわけではなく、見ごたえがある作品には違いないが、作中に出てくる時事的な側面が前面に出て、テーマ主義的というか「国策的」「愛国的」という面が映画を弱めている感じがする。また、女優の「美形度」という観点でも「ザ・デュオ」や「ボンベイ」が圧倒的に素晴らしい。

 「ロージャー」(1992)は、マドラスで軍に頼まれ暗号解読を仕事にしている技師リシ(チラシにインド軍兵士とあるのは誤りで、民間人)の物語。妻には田舎の娘がいいと思い、ロージャーの姉と見合いするが、姉は実はいとこが好きで見合いを断ってくれと頼まれ、妹のロージャーと結婚したいと言ってしまう。この姉妹との結婚ドタバタの後で、誤解も解けたころ、内戦の続くカシミールに出張することになる。ロージャーも是非連れて行ってほしいというので夫婦でカシミールに行くが、厳しい現地の情勢の中、リシは反体制派に誘拐され首領との人質交換を要求される。政府はいったん交換を拒絶し、ロージャーの孤軍奮闘が続く。その間、誘拐された夫はテロ集団の中で苦しみながら希望を捨てず脱出の機会をうかがっている。インド国旗が燃やされると全身で焼けるのを阻止するシーンが典型だが、全体的に愛国主義的な側面が強く、反パキスタン感情が支配している。そのような「国策」的な作りには違和感を覚えるが、美しい自然の中で愛をうたいあげるダンスシーンは素晴らしい。また「テロリストに夫を誘拐された妻の苦悩」というテーマが、今の情勢から非常に共感して見てしまうことになる。

 「ボンベイ」(1995)は、1992年末と1993年初めに実際にインド各地で荒れ狂ったヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で発生した暴動を背景にした作品である。暴動はボンベイ(現ムンバイ)で一番激しく、映画もそこで住んでいる夫婦の物語とされている。大学を出てジャーナリストとして働くシェーカルは実家に帰った時に、風がヴェールを一瞬まくり上げた時にシャイラの顔を見て一目ぼれしてしまう。彼の家は村の名家で、彼女の家はムスリムのレンガ屋。宗教的に絶対に相容れない間柄で、双方の親は頑強に反対するが、彼は思いを募らせ彼女も心を寄せる。彼はボンベイに帰るが、その後もひそかに文通を続け、父にばれた後で彼女は家を出てボンベイに向かう。二人はボンベイで結婚し、双子も生まれて幸福に暮らしていた。この妻を演じるのが、実際はヒンドゥー教徒のマニーシャ・コイララでネパールのコイララ元首相の姪という名家の育ち。この映画でスカウトされデビューしたが、素晴らしい魅力。

 後半はその彼らを襲うボンベイの宗教暴動のシーンの連続。カンボジアのポル・ポト政権を描く「キリング・フィールド」やルワンダ紛争を描く「ホテル・ルワンダ」を思い出させる圧倒的な恐怖感である。火をつけられ街は燃え上がり、人々は殺し合い、宗教指導者は扇動を続ける。シェーカルは子どもを探しながら、この愚行を止めようと全力を尽くすのだが。この暴動を聞き、両家の親は勘当したはずの子どもたちの安否を尋ねにボンベイにやってくる。このシーンは双方の張り合いが笑いを呼びながらも、親が子を思う心は万国共通、宗教の違いで引き裂かれるものではないと力強く観客に訴える。暴動シーンのあまりの迫力に言葉を失う思いがするが、このような悲劇を二度と繰り返してはいけないと見る者すべての心に沁み通る。宗教の名のもとに怒りを扇動する者への怒りが映画にみなぎっている。と同時に、最初の方の海辺の城塞での愛をうたいあげるシーンなど、歌と踊りの素晴らしさも忘れがたい。この映画は日本語字幕のDVDやビデオが出ているので、探せば見ることができる。

 「ザ・デュオ」(1997)は166分と一番長いが、政治そのものをテーマに二人の男の盛衰を長年月にわたって描く大河ドラマ。1970年代に実際に州知事を務めた大スターがいたというが、その話にインスパイアされた映画。脇役俳優のアーナンダンは母が危篤の電報で急いで帰ると真っ赤なウソ。結婚式が準備されていて、見たこともない嫁を貰えと言われ反発するが、実際に見たら一目ぼれ。愛妻プシュケとともに大スターを目指すが、妻は急死してしまう。そのころ脚本家で詩人のセルヴァムはアーナンダンを主役に映画を作り、大ヒットしてアーナンダンは一躍大スターになる。セルヴァムは腐敗した政界に怒りを持ち、親しく従ってきた師を代表に新しい政党を起ち上げ政治の刷新を訴えるようになる。大スターのアーナンダンも党員となり協力し党勢は上り調子。ついに州議会選で過半数を獲得し、セルヴァムが州首相となる。その後数年、スターの妻を持つアーナンダンは、次の相手役を探していて、一瞬目を疑う。まさに死んだ前妻にそっくりの美女がいたのである。(一人二役だから当たり前だが。)初めは警戒しながら、どうしても惹かれてしまう。その一方、自分も権力を欲しくなり大臣の地位を望むが俳優を辞めないとだめだと拒絶される。そしてセルヴァムを批判して党を除名。新党を起ち上げて彼も政界入りをめざす。そして選挙に勝って、今やアーナンダンが州首相となるのだが…。

 彼の「ファム・ファタール」(運命の女)を演じるのが、アイシュワリヤー・ラーイ(1973~)である。1994年のミス・ワールドで、たくさんの出演依頼の中から、「ゼ・デュオ」をデビュー作に選んだ。出てくると目を奪われてしまう圧倒的な超絶美人で、近年日本公開された「ロボット」でも今も衰えない美貌を披露していた。単なる美貌だけではなく、とにかくセクシーなダンスシーンも素晴らしいし、知性も感じさせる演技力もある。(大学で建築学を学んだという。)母語が南部のドラヴィダ系トゥル語という少数派出身だが、英語、ヒンドゥー語、タミル語など話せるという。(上の写真は最近のもの。)映画としては、とかく唐突感のあるミュージカルシーンが、この映画の場合ミュージカル映画を作っている大スターと美人スターという設定だから、違和感なく見られる。肝心の政界シーンは、成り上がって堕ちていくという定型だが、かつての友情が政敵に代わっていく迫力は出ている。彼の映画によく出てくる「360度パン」(多分円形レールにカメラを乗せてグルグル撮るんだと思う)が、非常に生かされていると思う。長い話で何だという終わり方でもあるし、せっかくのアイシュワリヤー・ラーイももっと使い道があるのではと思う。不満も多い映画だが、ポピュリズムと腐敗批判、映画界を舞台にした映画の魅力、歌の素晴らしさなど魅力も多い。

 「頬にキス」(2002)は、作家の父の娘アムダは9歳の女の子。実はスリランカ難民の子としてインドに生まれ、幼女として育てられてきた。いつか言うべきと思い打ち明けるが、アムダは実の母に会いたいとかつての難民キャンプを訪ねるなど、心が揺れてしまう。父と母はスリランカに行って実母を探そうと、内戦下のスリランカを訪れて、タミル人ゲリラが激しく闘う地域に向かうのだが…。最後の母子再会シーンなど、この映画が一番泣かせる映画ではないかと思う。親が子を思う心、子が親を思う心、そして戦争が親子を引き裂く悲劇への怒り。非常にストレートに伝わるが、どうも納得できない面もある。内戦下スリランカを舞台にするという、これも勇気ある企画だが、9歳の娘に真実を伝え、一緒に戦時下の村まで行くのは無茶である。普通はそうしないと思うが、現実の時間的制約から、9年前という設定になるんだと思う。その結果、どうしても無理やりテーマに当てはめた物語という感じがしてくる。またスリランカでロケしてる以上政府側で描く感じがしてしまう。しかし、タミル映画界のマニラトナムがタミル人独立運動をどう思っているかがよく判らない。彼は一貫して、自分の所属する民族であれ、過激な暴力的テロ集団を否定するのかもしれないが。親子の絆だけで泣かせる感じがしてしまう。(スリランカ北部には、インドから移住したタミル人が多く、タミル人地域独立運動が激しかった。インドにも支援する動きがあった。インドの介入に反対するテロリストによって、ラジブ・ガンジー元首相が暗殺された。)
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ショエーブ・マンスールの映画-現代アジアの監督④

2015年03月06日 00時02分19秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターの現代アジア映画特集、第3週目はインドとパキスタンである。インドのマニラトナム監督作品を先に4つ見たけど、マニラトナムの映画の素晴らしさはインド映画を見ようかという人にはかなり知られていると思うので、順番を入れ替えて書きたい。パキスタンショエーブ・マンスール監督(1952~)の2作品である。「神に誓って」(2007、168分)と「BOL~声をあげる~」(2011、153分)とどちらも非常に長い映画だけど、圧倒的な迫力と面白さ、テーマの重大性に時間を忘れて見入ってしまう。パキスタンとしてはタブーに挑戦するような映画で、このような映画が世界に存在することを喜びたいような映画である。女性の人権問題に関心のある人、イスラム教の諸問題に関心がある人、マララさんを授業の題材に取り上げたい教師…是非、見ておかないといけない映画だと思う。

 ショエーブ・マンスールはパキスタン芸能界で成功したプロデューサーだというが、パキスタンの現実を世界に訴えたいという思いで監督に乗り出した。何度も殺害予告や命の危機に見舞われながら作った作品だということである。2作ともアジアフォーカス・福岡国際映画祭で観客賞を受賞した。今回まで名前も知らなかったし、東京では初上映になる。この2作品しかまだ作っていないらしいが、非常に重大な作品で、是非正式に公開されて日本各地で公開されて欲しいと思う。

 「神に誓って」は、ある家族に起こった悲劇を追う作品。パキスタンに住む兄弟はロック音楽で成功をめざしている。しかし、弟は次第に過激なイスラム思想に近づくようになり、音楽は禁止されているというようになる。一方、兄は音楽での成功を目指して米国に留学し、白人のガールフレンドもできる。その兄弟のいとこの女性がロンドンにいる。父はパキスタンを離れ、結婚せずに英国女性と同棲している。娘をイスラム教徒と結婚させなければならないと信じているが、彼女には大学で結婚を約束した男性がいる。この父親は英国籍を持つ娘を、結婚を許すから一度パキスタンの祖母にあうようにと誘い、パキスタンに連れてくる。そして、辺境部の見学に誘い、そこでいとこと結婚することを強要する。こうして強制結婚させられた女性の運命がどうなるか。結婚相手の弟の方はだんだん過激化し、タリバンに参加する。そのころ、2001年の同時多発テロが起こり、留学中の兄はテロリストと疑われて逮捕され…。こうして信じがたい運命に引き裂かれていく家族の運命はいかに。

 最後の頃に「脱出」に成功した女性は裁判に訴える。その場での、イスラム教義問答が非常に興味深い。深い宗教知識と人間性への理解がなければ、宗教は人を争わせ世界を不幸にしてしまうことが非常によく理解できる。一方、「狂信者」はどこにもいるわけで、米国ではたわいない「証拠」をタテに大物テロリストと信じ込む捜査官のバカらしさが兄を悲劇に追い込んで行く。この映画を見ると、パキスタンの人権状況とともに、アメリカの人権状況がいかにひどいかと実感することになる。とにかく、見ている間は目が登場人物の運命に釘付けとなる映画で、非常に心揺さぶられる作品だった。映画技法的には何か新しいものがあるわけではなく、ごく普通によく出来たエンターテインメント映画の手法で作られているわけだが、突きつけているテーマが重い。世界中の「狂信に囚われている」人々(日本にもかなりいる)に是非見せたい映画

 「BOL~声をあげる~」は女性の人権問題に絞って作られた映画。題名はウルドゥー語(パキスタンの言語)で「話せ」という意味だという。ある女性死刑囚が、裁判段階では一切口をつぐんでいたのに執行の前に、世界に語りたいと望みマスコミ陣を前に自分の人生を語り始める。その驚くべき人生とは…という映画。父親が強権的で女子には教育を受けさせないという家で、よりによって女の子ばかり生まれる。14人ぐらい生まれて男も生まれたけど、それは「男と女の両方の性質を持つ」セクシャル・マイノリティに生まれてきて父親の迫害を受けて育つことになる。その子の運命が哀れである。一方、薬草医の父はだんだん仕事が無くなり、外で稼げない女ばかりの家はどんどん貧困化していく。事実上、女ばかりが幽閉されている家で育った女性たちと金に困った父親の運命は…。

 この父はスンナ派だが、隣の家はシーア派らしく、また歓楽街の怪しい仕事の家はシーア派が多いらしい。両派の違いもいろいろ出てきて興味深い。この作品もタブーに挑んだ作品で、波瀾に富んだストーリイに一気に見られる。両作とも時間が長いが、見ている間は時間を感じないと思う。よりによって女子ばかり生まれる設定がちょっとどうかと思うところもあるが、ラホールという都市の話であるにも関わらず、女子に教育を受けさせなくてもいいらしいことにビックリする。高等教育を受けさせないというならともかく、初等教育も受けさせないのか。マララさんのような地方の場合だけではないのである。悲しみと怒りを糧に、素晴らしい娯楽映画を作り上げた監督に敬意を表したい。世界はこの2本の映画を見ておくべきである。両方の映画とも、音楽の力を感じさせる映画でもある。そして、人間はどんな悲惨な境遇にあっても、気高く生きることもできると教えてくれる映画でもある。簡単だけどまずは紹介。3月8日(日)の0時、4時に上映される。
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シリアはどうなるか-IS問題⑥

2015年03月04日 23時35分48秒 |  〃  (国際問題)
 次にシリアについて書きたいが、シリアの今後ほど見通せない問題も珍しい。当面どうにもならないのではないか。シリア内戦に関しては、今までに2回書いている。「シリア情勢の混迷を読む」と「緊迫!シリア情勢」で、2012年、13年段階の話である。シリアという国、地域の歴史的問題はそこで大体書いておいた。そのときの情勢分析としては、アサド政権はしばらく崩壊しないだろうという予測を書いた。その当時にはアサド政権が今にも崩壊するという予測が多かった。アメリカもアサド政権の退陣を求めていたし、それに追随したのだと思うが、安倍政権もアサド政権の退陣を求めていた。(それがシリア大使館のヨルダン撤退につながり、「イスラム国」情報が不十分な原因となったかと思う。)

 中東ニュースを何十年も見続けてくれば、アサド政権がそう簡単に崩壊しそうもないということは予測できる。現に今もアサド政権が続いているわけだが、しかし、今のアサド政権はシリア全土を支配する中央政権とは言えない。アサド政権がシリア東部から「撤退」してしまい、ダマスカスを中心とするシリア南部に勢力を集中させ、事実上の「地方政権」になっている。その空白地区に「イスラム国」が出現したわけである。アサド政権はそれを一応は非難するわけだが、では「イスラム国」を攻撃して支配権を回復しようという力はない。当面はこのまま推移しそうである。要するに、アサド政権は戦国時代の室町幕府みたいな存在になって存続していく可能性が高い。つまり、タテマエ上は「正統政権」として残ることになる。反体制派がまとまって「臨時政府」を樹立するのは、どう考えても無理。だから「政府」を名乗るのはアサド政権だけで、首都近辺を押さえ続けていくと思われる。

 少し前に書いたけど、ある時期までアラブ諸国は「ソ連寄り」の国が多かった。アメリカがイスラエルを支援しているのだから当たり前である。ソ連の軍事支援を受けてイスラエルに対峙していたわけである。湾岸の保守王政諸国を除くと、70年頃のアラブ諸国には民族主義的、左派的な政権が多く、そのような国(エジプト、シリアなど)では最大の反体制派はイスラム勢力、特にムスリム同胞団だった。それに対してシリアなどは、パレスティナの解放闘争に連帯する世界各地の反体制革命集団を受け入れていた。70年前後の「アラブの大地」は「世界革命の聖地」とも思われていたのである。「日本赤軍」はその時代のアラブに向った集団の一つである。今思うと、民衆のほとんどが敬虔なイスラム教徒である地域で、どうして無神論の「共産主義者」が革命を夢想できたのか、実に不思議に思えるが。

 エジプトが親米に転向した後も、最後まで反米的、左派的だったのがリビアとシリアである。リビアのカダフィ政権が崩壊した後は、シリアは唯一残ったロシアや「北朝鮮」に近い国家である。(国連安保理ではシリア関連の問題はいつもロシアが拒否権を使う。)シリア内戦が始まった数年前は、エジプトのムバラク政権が崩壊し、選挙でムスリム同胞団のムルシ政権が誕生するような情勢だった。サウジアラビアやカタールなどの親米スンナ派勢力からすれば、シーア派に近いアラウィ派のアサド政権が支配するシリアでも、政権を打倒してムスリム同胞団系のスンナ派政権を樹立したいと考えても当然だろう。

 アサド政権が反体制派を弾圧するシリアに自由がなかったのは確かである。だから「アラブの春」の時期に、反体制のデモなどが起こったのも当然だし、そのときの政権の対応が褒められたものではないのも間違いない。アサド政権は政治犯を釈放するなどの措置も取ったけど、基本的には権力を手放すことを固く拒否して首都という塹壕に立てこもった。アラウィ派という確固たる基盤があり、シリアが完全に崩壊することを懸念する首都周辺のスンナ派などの「弱い支持」もあるからである。今アサド政権が崩壊したりすれば、宗派主義を前面に出しシーア派をも敵視する「イスラム国」がアラウィ派住民を虐殺する恐れが高い。それを恐れるアラウィ派住民のアサド政権防衛の戦意は高いと言われている。わざわざ「イスラム国」根絶するほどの意欲はなさそうだけど。

 シリアの反体制派は当初から完全にバラバラだった。何度も会合が開かれているが、そして形式的には反アサド政権でまとまったような時期もあるが、結局は一緒にはなれない。西欧的な自由主義勢力、穏健なイスラム勢力に加え、次第に各国から義勇軍を受け入れる過激な勢力、アル・カイダ系の勢力が力を蓄えていき、反体制派どうしの衝突、反体制派による住民虐殺もひんぱんにおこるようになった。こうして、アサド政権が支配する首都周辺を除くシリア北部などは、「戦国時代」になってしまったのである。トルコやカタールがムスリム同胞団系反体制派に資金、武器の援助をしてきたと思われるが、それは「イスラム国」に流れてしまった。今ではシリア反体制派がまとまって首都を攻撃するような事態は考えられない。だから、シリア北部からイラクにかけての一帯は「戦国時代」が続くという予測しかできない。一時的に退潮に追い込むことは不可能ではないだろうが、数年後に外国の関心が薄れ中央政府が弱体化すると盛り返してくる。つまり、アフガニスタンの「タリバン」である。

 IS問題というテーマでイラクとシリアの情勢を検討したが、要するに「どうにもならない」可能性が高いという結論になる。短期的には政府の力が強まる時期もあるだろうが、中期的には根絶は難しい。長期的な視野に立って、中東の問題を一つ一つ着実に解決していくしかないのだろうと思う。ただ、一部にイラクとシリアの国境は第一次大戦後の英仏がサイクス・ピコ協定で「列強が勝手に決めた」ものだというような主張を取り上げているものがある。その問題は昨年に第一次世界大戦100年をめぐる記事で論究しておいたが、「勝手に決めた」最大の問題点は、「独立を与えずに、英仏の委任統治領とした」ことにある。国境線も英仏で決めただろうが、歴史的にイラクとシリアは別の領域だったと考えるべきだろう。大体「イスラム国」(IS)そのものが、それ以前は「イラクとシャームのイスラム国」(ISIS)と称していたわけで、そのこと自体がイラクとシリア(シャームというのはシリアからパレスティナ一帯を呼ぶ用語。歴史的シリア)は別のものだという証明である。

 シリアはローマ帝国の総督が置かれた地中海沿岸地域であり、イラクは古代の昔のイスラム帝国の前はペルシャに支配された時期が長い。イスラム帝国でも、最初のウマイヤ朝はシリアのダマスカスを首都とし、次のアッバース朝はイラクのバグダードを首都とした。歴史的に対抗関係が長く、それはフセイン政権とアサド政権でも同じ。だから、「イスラム国」がイラクとシリアの両方を征服して支配すると言った展開まではありえない。
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イラクはどうなるか-IS問題⑤

2015年03月02日 23時40分45秒 |  〃  (国際問題)
 映画の記事が続いていたが、ちょっとISの問題に戻って。「イスラム過激派」という思想の問題を書くつもりだったけど、地域の情勢を先に書いておきたい。まずはイラクで、次はシリア。シリア東部からイラク北部にかけてのけっこう広大な地域が、現在「イスラム国」なる存在が支配している土地である。従って、「イスラム国」問題の解決というのは、イラクとシリアの中央政府が国土全体を安定的に支配することを意味する。それは中期的に見てみると、かなり難しいのではないだろうか。アフガニスタンの中央政府がタリバン勢力を完全に制圧することが当面難しいのと同じである。

 イラクを見ていて痛感するのは、「国民国家」ではない場所で「民主主義は可能か」という大問題である。イラクはサダム・フセイン政権のもとで長く独裁状態が続いてきた。(というか、それ以前からだが。)米英軍の攻撃でフセイン政権が崩壊し(2003年)、細かい話は省略するが、2005年10月に新憲法が承認され、12月に国政選挙が行われた。それだけを取ってみると、選挙で政治が決まる体制が出来たんだから、それ以前に比べてずっと良くなったように思える。戦争に訴えるという手段はともかくとして、一応の結果として民主主義がもたらされたというわけである。

 ところで、イラクは三つの大きな社会勢力が存在する。アラブ民族(シーア派)アラブ民族(スンナ派)クルド民族(スンナ派)である。国会議員選挙は、2005年と2010年の2回行われたが、その結果改めてはっきりしたことは、シーア派はシーア派政党にしか投票しないし、クルド人はクルド政党(クルディスタン愛国同盟)にしか投票しない。だから、選挙しても、主義主張の争いではなく、宗派間、民族間の勢力争いにしかならない。そして、それは基本的に固定されている。フセイン政権時代の体制派だったスンナ派アラブ人は、特に政権を支えたバアス党(アラブ復興党)勢力がパージされたこともあって、新体制では全く重要な地位を得ることができないのである。(形式的には多少は権力の分与がある。)バアス党旧党員は、現在「イスラム国」に参加し過去の行政経験を「活用」しているらしい。

 もう少し細かく数字を見ておくと、民族的にはアラブ人が79%クルド人が16%という。これで95%だが、他にアッシリア人(キリスト教)3%、トルコマン人(トルコ系、イスラム教スンナ派、シーア派)2%が存在する。宗教で見ると、イスラム教徒では、シーア派が65%、スンナ派が35%で、アラブ世界では圧倒的に多数派のスンナ派が、ここでは少数派である。ある程度大きなアラブ国家では、シーア派が多数なのはイラクだけである。イラク南部にはシーア派の聖地がたくさんあり、隣国のイランからも巡礼に訪れる。イランはペルシャ民族(イラン民族=アーリア系)だが、民族の違い以上に宗派の共通性による親近感があるようだ。他にアッシリア人等のキリスト教が4%、ヤジディ教、マンダ教などの少数宗教もある。このように、シーア派はイラク国家の絶対多数を占めていて、フセイン政権時代は圧政の下で苦しんでいたが、「民主主義」という制度により、国の権力を握る勢力となった。

 まさに、それこそが民主主義であり、選挙というものだとも言えるけど、その選挙の結果成立したマリキ政権(前首相)の政治は、スンナ派を懐柔するのではなく、権力をシーア派で独占するような「宗派政治」の側面が強かった。米軍がいたころはまだしも、米軍撤退後の「自立」によりイラク情勢が悪化したのはマリキ政権の宗派性に大きな責任があると思う。クルド人は、イラク新体制で大統領(国家元首)の地位を与えられ、タラバニが大統領に就任した。クルド人地域は「自治」というタテマエの下、中央政府から離れた「事実上の独立」の状態にあって、イラク新体制から利益を享受してきた。「シーア派」+「クルド人」の「同盟関係」が揺るがない限り、スンナ派住民には「居場所がない」わけである。。(「イスラーム国の衝撃」に詳しいが、この憲法を承認するかどうかの国民投票で、もともとスンナ派地域の州では、軒並み否定されていたのである。)

 イラクの状況が一時的に「好転」することはあるだろう。場合によっては、イラク軍が(米軍地上軍なしに)モスルを奪還するということも起こりうる。「イスラム国」はもちろん自分で武器を生産する能力もないし、表立って武器を輸出する国もない。だから、「有志連合」が支援するイラク政府軍が大攻勢をかけると、一挙に敗走することもないとは言えない。しかし、シリア内戦が続く限り、いったんシリア領内に「待避」してしまえばいい。もともとゲリラだったんだから、またしばらくゲリラに戻ればいいわけである。そして、イラク軍が攻勢をかければかけるほど、イラク軍内部がまとまっていない限り、かえって武器が「イスラム国」側に流れてしまうことも起こりうる。大攻撃をするということは、それだけスンナ派住民に犠牲が出ることを意味するので、抜本的体制改革なしに完全な「解決」にはならない。

 イラクは人工国家性が高い地域で、もともと「国民国家」ではないという特性から起こってくる問題が根本にあるのである。そして、そのことをイラク戦争を始める前にアメリカ政府は判っていなかったのだろうかと疑問に思う。政権中枢はどうもホントに判っていなかったのではないかと思えるが、「専門家」には容易に推測できたはずである。これはどうすればいいのか、誰にも完全な解はないだろう。アフリカ諸国の多くの国も同じで、植民地政府が勝手に引いた国境線で人々が分断されている。しかし、だからといって、「戦争」で解決するというのが正しいわけではない。その国家に所属していることが、その地域住民に利益があるのでなかったら、誰も国家を維持しようと思わないだろう。イラクのスンナ派地域に起こったことは、その大問題を突き付けている。
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映画「アメリカン・スナイパー」

2015年03月01日 23時09分29秒 |  〃  (新作外国映画)
 クリント・イーストウッド監督がイラク戦争時の伝説的スナイパーを描いた「アメリカン・スナイパー」を見た。イーストウッドだから、いずれ見るんだけど、IS問題にも関わるし早く見ておいた方がいいかなと思ったわけである。でも、正直言って、こういう映画は書きにくい。出来は非常に良い。まあ、今のクリント・イーストウッドは何でも撮れるということである。どこにも淀みがない。内容は戦争映画だから、戦争そのものの問題、あるいは主人公の性格付けなどには議論があるだろうが、映画の流れそのものは非常にうまく出来ていて、冒頭からラストまで一気に見られる。ファンタジーではないから見る者に緊張感は強いられるが、「すごい映画を見た」という感じは十分に伝わる。でも、映画(に限らずアート全般)はどこか不器用で淀む部分があった方がいいのではないかと思ったりするのである。

 この映画は、実在のクリス・カイルという海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)員を描いている。彼は4回イラクに派遣され、160人を超える狙撃に成功した。帰還後に自伝を書きベストセラーになった。それが原作で邦訳もある。帰国後、PTSDの症状にも苦しむが、傷痍軍人との交流活動を続けて回復して行った。だが、退役軍人の射撃訓練に付き合っているときに、その相手に銃撃され2013年に38歳で死亡した。犯人の裁判は先月行われて、仮釈放なしの終身刑になったとの報道があった。彼の遺族などに綿密な取材をし、ジェイソン・ホールという脚本家がシナリオを書いた。この出来がいい。(アカデミー賞脚色賞ノミネート。)主人公はブラッドリー・クーパーが入魂の演技で、アカデミー賞主演男優賞ノミネート。「世界でひとつのプレイブック」「アメリカン・ハッスル」に続き、3年連続の主演男優賞ノミネート。

 イラク戦争に関しては、2010年にアカデミー賞作品賞を受賞した「ハート・ロッカー」が緊迫感に満ちた傑作だったと思う。「アメリカン・スナイパー」(ちなみに、原題には「The」も「An」もつかない)は、スナイパーという職務の特殊性と実話ということから、緊迫感は多少薄くなる。むしろ家庭生活がうまくいくかどうかの方がスリリングである。主人公は戦争で敵を殺したことには、何の自責も感じていない。女性や子どもを撃った経験もあるが、この映画で見る限りでは、明らかに米軍を攻撃する意思を持って武器を所持している事例である。兵士は戦争そのものを自分で判断するべき存在ではないから、主人公が自己の戦闘体験を肯定するのは当然で、僕もそこをどうこう言う気はない。イラクの反体制組織(ザルカウィの作ったアル・カイダ系の組織)にも、優れたスナイパーがいて、彼はシリアの元五輪選手だというのだが、この敵スナイパーを仕留められるかが後半の見所となる。この映画を見て思い出すのは、ジャン・ジャック・アノー監督の2001年作品「スターリングラード」だろう。

 最近のクリント・イーストウッドは本当に何でも自在に撮れてしまう感じである。硫黄島2部作の後は、「チェンジリング」「グラン・トリノ」「インビクタス」「ヒアアフター」「J・エドガー」「ジャージー・ボーイズ」と続いているのだから、その幅広さには驚くばかり。自分で脚本を書くわけではないので、企画のどの段階で加わるかは映画次第だと思うが、長い映画人生で会得してきた映画のリズムが備わっている。今回もクローズアップとカット割りの妙には感心させられた。時々相手側の描写も加えながら、心理描写は行わず、ひたすら戦場の現場に密着する。その意味では、この映画で「イラク戦争を考える」ということはできない。むしろ「兵士とは何か」を考える映画だろう。先にイーストウッドはなんでも撮れると書いたけど、ではすべての映画が素晴らしいかは別の問題である。「ヒアアフター」は津波の後の超常現象のところが付いてけない。「ジャージー・ボーイズ」は楽しかったからいいんだけど、ではベストワンなのかと思ってしまう。「アメリカン・スナイパー」も後味はあまり良くないと思う。

 それはイラク戦争の意味付けにあるのではない。イーストウッドはハリウッドでは少数派の共和党支持だけど、イラク戦争には反対である。しかし、そういう政治的な問題をこの映画では持ち出さない。あくまでも「現場主義」に徹していて、その意味では参考になる部分はある。(ちなみに、都市景観のシーンはモロッコの首都ラバトで撮影し、戦闘シーンはカリフォルニアに作った大規模なイラク市街地のセットで撮影したという。)むしろ、この映画を見て考えさせられるのは、小さなころから銃に接し、「やられたら、やり返せ」的な教えを叩き込まれた主人公の生き方である。テキサスでロデオに熱中していたクリスは、ケニアとタンザニアの米大使館爆破事件をきっかけにして海軍に志願する。そこから米軍屈指のスナイパーとなったのは、もともとの射撃能力の高さ、情勢判断の的確さと何よりも幸運に恵まれたことなどだと思う。戦場ではほんの小さな出来事が死につながる。実際、仲間たちが死んでいき、彼が死ななかったのは偶然とも言える。しかし、その時彼は自分がもっと多くの敵を狙撃していれば仲間は助かったのに…と思うのである。その「自責」が彼を苦しめる。

 小さなころに、弟がいじめにあい、兄のクリスが反撃したことがある。その後で父親が「世の中には三つの存在がある」と教える。「羊」と「狼」と「番犬」だという。羊が野蛮な狼に襲われたら、闘って撃退する番犬になれというのである。しかし、このたとえはどうなんだろうか。羊は野生動物ではない。牧場で飼われている存在ではないか。だから、世の中には「牧場主」という存在があって、その後に「羊」「狼」「番犬」があるわけである。しかし、父親は子どもに、牧場主になれと教えるのではなく、番犬になれと教えるのである。だから、クリスは軍人となると言えば短絡かもしれないが。でも、命令に従って行動する軍人ではなく、軍人に命令できる大統領を目指せと子どもには教えた方がいいのではないか。実際になれるかどうかはともかく。僕が一番感じたのはそのことで、軍人が国を守っていると信じていても、世の中には「間違った戦争」というものもある。その部分を自分で判断することを切り捨ててしまったら、自分が苦しむだけだと思うのである。
コメント (2)
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