尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「北のミサイル」より「オスプレイ」が危ない-北朝鮮問題②

2017年08月15日 23時13分14秒 |  〃  (国際問題)
 「北朝鮮のミサイル」というと、今にも頭上に落ちてくるんじゃないかと本気だか何だか異様に心配する人がいる。そう心配していたら、交通事故にあう確率の方がずっと高いに決まってるんだから、おちおち外出もできない。じゃあ自宅に引きこもっていたとしても、隕石が落ちてくるかもしれない。一体、隕石が自宅に落ちる確率とミサイルが自宅に落ちる確率はどっちが高いだろうか

 まあ、それでも「万が一」ということは否定できないというようなことを言う人もいる。万が一というか、億が一というか、それは無論ないとは言えない。それは以下のような場合である。
①「日本が直接ミサイルの目標になる
②「日本上空を通るミサイルが途中で空中分解する
③「一段目のロケットの切り離しが遅れて、日本の領海内に落ちる

 ①はありえないが、それは後で考える。②と③も考えにくいだろう。技術的な確かさを担保できない場合は、なんだかんだ理由を付けて発射を見送るに決まってる。恩恵的に自分たちが実験を中止するならメンツは保てる。でも4発発射すると豪語して、多少着水地点がずれる程度ならともかく、大きな失敗を起こしてしまえば内外の信用失墜は計り知れない。(③の一段目ロケットが日本の領土内に落下した場合、その確率は非常に低いだろうが、直撃されたら大被害を出すのは間違いない。)

 だから、もし発射されたなら、それは「何ごともなく日本上空を通り過ぎて行く」可能性が圧倒的に高いはずである。ただ問題があるとすれば、日本海で米艦による迎撃作戦が行われて、それが中途半端に「成功」してバラバラになった部品が日本領土に落下するという事態である。もし迎撃作戦を行う場合は太平洋でやってもらいたいもんだと思う。

 日本政府は「国民の生命を守る」と意気込んで、ミサイル発射とともに避難するようなことを言っているわけだけど、それは無理だろうって。数分で通り過ぎて行くというのに。大地震による大津波は、何十分かの余裕があるとされる。集中豪雨による土砂崩れの場合でも、完全に避難するのは難しいではないか。「ミサイル発射で避難」って、一体マジメに国民の避難を求めているのか。

 日本国民の生命を守るというなら、どうして日本政府はオスプレイの訓練を認めているんだろうか? オスプレイ(垂直離着陸機V22=オスプレイは猛禽類のミサゴを意味する英語)だって、米軍の正式装備品なんだから、そうむやみに事故ばかり起こすというもんでもないだろう。でも今までの経緯から、相当の事故歴があるのは間違いない。昨年は沖縄で、つい最近はオーストラリアで事故が落ちた。ミサイルが来るなどと騒ぐ前に、オスプレイ事故対策の方もやらないとおかしい。

 もちろん、ミサイルやオスプレイよりも、大地震や集中豪雨の方がはるかに危険。さらに、住んでいる場所にもよるけど、日本国民大多数という意味では、事故や事件や災害で死ぬよりも、ガンや心臓病や脳血管障害や肝臓や腎臓などの疾病で亡くなる場合が多いに決まってる。ミサイルを心配する前に、自分の生活習慣を見直さないと生命を守れないという人の方が圧倒的に多いだろう。

 日本周辺で「大陸間弾道ミサイル」を持っている国は北朝鮮だけではない。ロシアも中国も持ってる。もちろんアメリカ軍にも装備されている。米軍は「日本を守る」側かもしれないけど、反中国的なことを言う人はかなりいるんだから、どうして北朝鮮のミサイルだけ心配するんだろうか。中ロは安保理常任理事国だから、「一応理性的に行動する」とあまり理由なく前提にしてるんだろうか。

 それに対して「北朝鮮は何をするか判らない恐ろしい国」ということなんだと思う。昔の「キューバ危機」の際は、キューバにソ連の核ミサイルが持ち込まれた。それにアメリカは猛反発したけど、米軍のミサイルはキューバに展開可能なんだから、アメリカは「自分でやっても、やられるのは嫌」という意識なんだと思うしかない。北朝鮮の場合も、その気になれば米軍はずっと前から北を攻撃可能である。それにいら立つ北側が自分で大量破壊兵器を開発してしまった。

 それは国際的に認められないけれど、一応「防衛的反応」として理解は可能なんじゃないだろうか。それは「容認できる」ということではなく、「道筋を理解はできる」ということである。これは大きく違うし、ちゃんと弁別しないといけない。だから「北朝鮮が日本をむやみやたらに攻撃する」という事態も起きない。そりゃあ、ものすごくたくさんの核兵器と長距離弾道ミサイルが余るぐらいあれば、「行き掛けの駄賃」的にやたらに発射する誘惑にかられるかもしれない。

 でも、北朝鮮は国力的に米軍に対抗できる軍事力を持つことはできない。「やられたら、やり返せるぞ」「核兵器も持ったんだぞ」を抑止力にできると思ってるけど、米軍を完全に撃破することはできない。確かに「大量破壊兵器」を開発はしてるけど、それは現在も将来も「米軍の先制攻撃に対する抑止力」以上のものにはならない。「虎の子」のミサイルを日本なんかに撃ち込んで、「自滅」するわけがないじゃないか。攻撃力を持ってるのは米軍なんだから、米軍を攻撃する方が優先である。

 つまり、北朝鮮は「恐ろしい国」かもしれないけど、「何をするか判らない」というわけではない。「拉致問題」もあって、日本では北朝鮮は日本を敵国としていると思っている人が多いのかもしれない。だが、「拉致」も韓国への浸透を狙った作戦の一環だった。(キム・ヒョンヒは日本人のパスポートを持ち日本人に成りすました。)非人道的で許しがたい出来事だが、独裁者からすれば「理解可能な作戦」だということになるだろう。むやみに「北のミサイルが怖い」なんて思ってるだけだと、国際問題の理解がずれてしまうのではないだろうか。
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「北朝鮮危機」か、「トランプ危機」か-北朝鮮情勢①

2017年08月14日 23時31分05秒 |  〃  (国際問題)
 「北朝鮮」=朝鮮民主主義人民共和国=Democratic People's Republic of Korea (D.P.R.K)をめぐる情勢が緊迫している。前から一度考えたいと思っていたけど、この機会に少しまとめておきたい。「かの国」に関しては様々な観点があり得るが、まず名前の問題。ここでは、とりあえず「北朝鮮」と表記したい。正式国名は長すぎるし、自称にしても「民主主義」はどうなんだ的な問題がある。それ以上にマスコミがほぼ「北朝鮮情勢」と書くから、脳内にそうインプットされてしまった。

 さて、「北朝鮮の挑発的行動」というものが今年に入ってどんどんエスカレートしている。というか、核実験に関しては今年に入ってからはないんだけど。(2016年は2回あった。)2016年9月が6回目の実験。当時のアメリカはオバマ政権だった。トランプ政権になってからは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実験が続いている。これはどういう意味があるのだろうか。

 8月10日には、ついにグアム島周辺向け4発のミサイル発射実験の作戦計画を発表した。日本の島根県、広島県、高知県の上空を通ると明言され、日本でも大騒動になっている。もちろん、この3県しか通らずに飛ぶことはできない。何故だか愛媛県が抜かされてしまったけど、愛媛県の上空も飛ばないといけない。グアム島は1998年の米西戦争でスペインからアメリカに譲渡された島で、現在はアメリカ合衆国の準州。島の3分の1を米軍基地が占めている。

 ところで、なんだか「グアム島攻撃」を予告したかのような騒ぎだけど、もちろんそんなことはない。戦争になっていないのに、国連加盟国が他の加盟国を攻撃したら、すぐに国連安保理で大問題になる。安保理決議で「大量破壊兵器の開発」は禁止されているから、発射予告もおかしい。だけど、今回の事態は「ミサイル発射実験」の予告であり、日本の「存続危機事態」にはならない

 今回の「予告」に対して、トランプ大統領もかつてなく激しい言葉で応酬を繰り広げている。北のマスコミ論調とトランプのツイッターだけ見れば、もう「戦争前夜」と思えてくる。こういう事態は4月頃にもあった、当時は米韓合同演習があり、米艦も周辺海域に派遣されていた。気の早い向きは攻撃も近いと触れ回っていた。そういう時は株価も大きく下げてしまう。今回もそうだけど、裏で様々な憶測が飛び交うが、表面的な言葉だけで判断しないように注意しないといけない。

 4月に関しては、僕は「トランプ危機」だったと判断している。トランプ政権は前任のオバマ政権の政策を完全否定することにエネルギーを注いでいる。医療保険問題やパリ協定だけでなく、北朝鮮問題でもオバマ時代の「戦略的忍耐」を批判して、何の効果もなかったと言った。確かにオバマ政権時代を通して、「北朝鮮の挑発」に歯止めをかけることはできなかった。でもアメリカはイラク戦争やアフガン戦争を抱えていて、東アジアで新しい方針を打ち出す余裕はなかった。

 基本的にはそれは今も同じなんだと思うが、トランプ大統領は自分への批判を回避するために新しい戦争を起こすかもしれない。皆が心配しているのはそういうことで、トランプ政権の思惑に基づいて北攻撃が起こらないとは誰も断言できないだろう。アメリカと言えども、北朝鮮の軍事施設をすべて先制攻撃することは難しく、非常に重大な人的、経済的打撃がアメリカそのものにおよびかねない。だから、自分は民主的に選出されたリーダーだと信じていたら、普通は北朝鮮攻撃に踏み切れない。

 でもトランプ大統領がどういう行動を取るか、誰もまだ完全には予測できない。そこで、「北朝鮮の挑発」が続いている。どこまで行けば、アメリカが本気で交渉してくるかを測っているんだと思う。オバマ政権はまず北側が核開発の中止などを打ち出さない限り相手にしないと思われた。トランプ政権は北の挑発に乗ってくれる。それが北朝鮮のねらいで、トランプ政権はうまくはまってしまった。

 戦争の危機が近づけば近づくほど、世界の各国、特に中国は本気で調停しないといけない。もし本当に戦争になってしまえば、最終的には北朝鮮の現体制は崩壊せざるを得ない。それは北朝鮮当局を含め、誰もが判っている。だから、北朝鮮は「瀬戸際外交」を繰り返してアメリカを交渉に引きずり出さないといけない。韓国とだけ和平しても意味がなく、アメリカ軍を撤退させない限り、北朝鮮の心配は終わらない。もっともっと「挑発」は続くだろう。そうじゃないとアメリカが出てこない。

 でも、ここまで核兵器やICBMの開発を進めてしまえば、日本軍の歴史などを思いおこしても途中で止められるのだろうか。開発をやめると言っても信じられる人はいないのではないか。この核兵器やミサイルの技術を欲しい国は世界にものすごくたくさんあるだろう。「北朝鮮問題」の最大の焦点は、アメリカとの戦争や日本に被害が及ぶかなどではない。北朝鮮が開発した大量破壊兵器の「すぐれた技術」が世界中に拡散されてしまうことである。それをどうやって止められるのだろうか。
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これは凄い!「謎の独立国家ソマリランド」

2017年08月13日 00時05分02秒 |  〃 (歴史・地理)
 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド」(2012)が6月に集英社文庫に入ったので読んでみた。2013年の講談社ノンフィクション賞受賞作で、いやあ、ビックリのことだらけ。かなり長いなあと思ったけど、これは読んでおくべき本だ。「国家」や「平和」という概念について、なるほどそうだったかという発見に満ちている。ソマリランド畏るべし、ソマリ人畏るべし。

 高野秀行(1966~)という人は早稲田大学探検部出身で、学生時代から世界の辺境を歩き回ってきた。「」「未知」を追い続けているが、大自然の辺境地帯よりもミャンマー奥地の少数民族とか、民族的、政治的な意味のある辺境が多い。その高野氏が目指したのは、アフリカ東北部、「アフリカの角」と呼ばれるソマリアである。このソマリアはもう中央政府が20年もなくて、イスラム過激派勢力が実力で支配しているような無政府地帯である。ある意味、世界で一番行けない国である。

 でもそんなソマリアの中で、北西部だけは「ソマリランド」という国として独立宣言をしている。そしてもう20年にわたって平和を保っている。ソマリア南部は戦国時代だけど、ソマリランドだけは平和。そんなことがホントにあるのか? もしホントだったら、もっと世界的に注目され、報道されてもいいんじゃないか。でも誰も知らないではないか? じゃあ、自分で見に行こう。

 でも、そもそもどうやって行けばいいんだ。「独立」しているというのなら、独自のヴィザはいるのか。どこで取れるのか。外国から入れるのだろうか。なんて調べて行ったら、結構連絡事務所がある国はあって、最初はエチオピアから行くことになった。そうしたら、そこは本当に「平和」そのもので、銃を持っている人などどこにもいない。「ソマリランド・シリング」なる独自通貨もちゃんと通用しているではないか。れっきとした「独立国」でも、通貨が安定しない国はたくさんあるのに。

 という驚きをいちいち書いていては終わらない。一回目はソマリランドを旅したが、それだけでは満足できず、高野氏はついにソマリアの他の地域にも出かけることにする。「海賊国家」プントランド、「戦国時代」のソマリア南部である。ソマリアは1991年に当時のバーレ政権が崩壊して以来、世界に認められた中央政府がない。アメリカが介入して大打撃を受けて以来、手を付けられない。

 そんな国、というか地域に果たして行けるのか。というと、ちゃんと飛行機も出ている。すごい飛行機もあるが。そして「首都」モガディショはちゃんと「都」で、人々がオシャレなのだ。どうして旅行が可能か、その内実もすごく面白いけど、ここでは「氏族社会」と「カート」のことだけ取り上げたい。

 高野氏はだんだんソマリ人社会に入り込み、独特なソマリ人になじんでいく。僕なんかとてもやってけないような、深い深い付き合いをする中で、ソマリ社会、ソマリランドのあり方を知っていくのである。そのためには「カート」宴会にもどんどん出る。カートって何かというと、日本名アラビアチャノキという植物の葉っぱで興奮性物質が含まれる。禁止されている国もあるけど、エチオピア、ソマリア、ジブチ、ケニア、イエメンなどでは、合法という以上に必須のし好品らしい。ソマリアやイエメンはほぼ全員がムスリムでアルコール厳禁だから、人々は「とりあえずカート」で宴会している。

 それを高野氏はムシャムシャ食べながら、(そう、葉っぱそのものを食べてしまうのである)、日本だったらビールや日本酒片手にホンネと聞きだすような取材を重ねる。だんだん取材の手段ではなく、ほぼ中毒化しているようで、副作用の便秘も激しくなる。それに「カートの二日酔い」もあるけど、そのために朝から「迎えカート」するぐらいカートに入れ込んでいる。そんな社会があるのか。というか「カート」なる物質をまったく知らなかったので驚くしかない。

 ソマリアというけど、ソマリ人と書いている。ソマリア南部はイタリアが支配し、そのイタリアの「ア」、ヴェネツィアの「ア」が土地という意味なんだという。一方、ソマリランドはイギリスが支配した。一時は別に独立したが、同じソマリ人ということで5日後に合併したという。言葉はほとんど同じ。ただ、イギリスは間接統治で現地の氏族社会が残った。イタリアは直接支配で現地の支配システムを壊してしまった。それが今に影響したという。(なお、イタリア統治の名残りで、ソマリア各地では美味しいスパゲティやピザが食べられるらしい。)

 「氏族社会」というのが判りにくい。そもそもわかりにくいけど、特にソマリアでは氏族の分家の分分家、分分分家、分分分分家…、いやもっともっと続くのだが、面倒だから止める。そういう一族意識が今も生きている。戦争をやって、仕返し、仕返しの仕返し…というのも氏族社会では起こり得る。だから、そういう場合は「賠償」で解決するルールができる。一族の誰かが何かをしでかすと、一族皆で賠償金支払いだから、非常に強い規制となる。だけど、それで本当に戦争をやめられたのか。

 その時に行われた長い長い時間をかけた「話し合い」の伝統、それにもビックリ。そのためにソマリランドは憲法のある民主主義国となり、選挙で政権交代が起こる国となった。これこそ驚き。アフリカでそんな国が他にいくつあるだろう。でも本当なんだとこの本で判る。

 だが、それでも「氏族」って判らないなあ。ということで、著者は奥の手を出してくる。ソマリランドの中心的氏族、「イサック」は思い切って「奥州藤原氏」と呼んでしまおう。バーレ元大統領を出した「ダロッド」は平氏。一時は絶大な権力をふるいながらも追い落とされたバーレは、「バーレ清盛」と呼んじゃおう。そののちのソマリア南部の中心、「ハウィエ」は、そうなると当然「源氏」である。そこにも「義経」と「頼朝」がいる。てな具合で叙述が進むのである。

 最初は何じゃい、これという感じの違和感も強いんだけど、そのうち「ハウィエ源氏」とか「バーレ清盛」に慣れてきてしまう。「イサック奥州藤原氏」と言われると、そうか北の方で事実上の独立をしているソマリランドのことかと判りやすくなってくる。ソマリランドそのものにもすごく驚いたけど、カートをムシャクシャかじりながら、ダロッド平氏とハウィエ源氏などと言ってる著者そのものにも驚く。そこまで入れ込むとどうなるか。他者は立ち入れないかと思われる氏族社会で、もう高野氏は氏族の一員扱いされるに至る。そうなればなったでまた大変という、続編が続く大変なノンフィクションなのであった。
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2025年、香港はどうなるか-映画「十年」

2017年08月11日 22時56分51秒 |  〃  (新作外国映画)
 香港映画「十年」が公開されている。(新宿のケイズ・シネマで、25日まで。) 製作費750万円、たった1館から上映が始まり、興行収入9500万円、香港のアカデミー賞にあたる金像奨作品賞を受賞した。「十年」というのは、つまりは製作時から10年後の2025年の香港を指している。香港返還協定で約束された「50年間の高度の自治」が危うくなっている。そういう「予感」を正面から描いた映画。

 僕がこういう映画を見るのは、はっきり言って「テーマ主義」である。国際情勢、特に日本の近隣のアジア諸国の情勢には無関心ではいられない。特に「中国」をどのように考えるか、誰もが関心を持つべきテーマだと思う。だから、監督はほぼ無名、5話で作られたオムニバス映画をテーマの関心で見た。でも、映画として十分面白かった。単に香港人だけの映画ではない。だから紹介する。

 映画の作りは5つとも全部違っている。第1話「エキストラ」は香港政府をあやつる謀略による「テロ事件」を描く。第2話「冬のセミ」は失われゆく記憶を「標本」として残そうとする男女の物語。僕が思うに、これは小川洋子にインスピレーションを得ていると思われる。第3話「方言」は広東語が「方言」視され、「普通話」が幅を利かす様子を描いている。タクシー運転手には普通話試験があり、不合格だと「普」に斜線が引かれたマークを付けさせられ、は空港や港で客待ちを禁止される。

 第4話「焼身自殺者」は、焼身自殺者をめぐってドキュメンタリータッチで香港の状況を追求する。若い世代にイギリスに抗議する運動(中国は返還協定に違反しているから抗議せよという運動)が起こりリーダーの学生が獄中でハンストで死亡する。それ以後の状況を描くという形で、香港の政治状況を語る。第5話「地元産の卵」は、「地元」という言葉が禁止され、地元産の卵をウリにしていた養鶏場や商店が圧迫される。ヒトラー・ユーゲントか紅衛兵みたいな「少年団」の活動も恐ろしい。

 香港では陰に陽に中国政府の圧力が強まっていると言われる。2015年の銅鑼湾書店事件(書店主5人が謎の失踪をとげ、中国側に拉致されていた事件)などは日本でもかなり報道された。「香港の自治」といっても、中国の「主権」に抵触することは許さない。香港では次第に息苦しい感じが強まっているとよく言われる。2025年、ここで描かれたような状況になっているかどうかは判らないけど、少なくとも今はこのような映画が製作、上映できる「自由」はあるということも判る。

 ただ、見ているうちに、この映画に描かれる「息苦しさ」は決して他人ごとではないと感じてきた。日本だって、多くの人がだんだん「自由に物事を言えなくなってきている」と感じている。あるいは世界の多くの人々が、「フェイクニュース」に囲まれていることにいら立っている。描いていいことと触れてはいけないことの境目があいまいな社会。その中で、だんだん口をつぐむ人々。タクシー運転手を描く第3話では、同じタクシー運転手でも、もはや「仲間意識」が失われている様子が身に沁みる。

 こういう映画は娯楽的な面白さを求める人は見ない。監督や俳優もほぼ無名で、アート映画的な完成度というよりも、どうしてもジャーナリスティックな関心が先に立ってしまう。そういう映画なんだけど、この若い香港映画人の「暗い予測」は日本でも共有できる。僕はまるで2025年の日本を見ているかの気持ちにだんだんなってしまった。
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驚くべき傑作、インド映画「裁き」

2017年08月10日 23時00分43秒 |  〃  (新作外国映画)
 2014年に作られたインド映画「裁き」が渋谷のユーロスペースで公開されている。もう上映も最終段階(12日からはユーロライブでモーニングショーだけとなる)なんだけど、時間がうまく合わなくて今日になってやっと見に行った。これは製作当時27歳だった若き監督チャイタニヤ・タームハネー(1987~、Chaitanya Tamhane)の驚くべき傑作である。ビックリするほど完成度が高い。

 いろいろと内容的に驚くことも多いんだけど、そのようなインドの社会的状況とは別に映画としてよく出来ている。カメラはほとんど動かずに画面の中を見つめている。最近は手持ちカメラで臨場感をリアルに描き出すような映画が多い。それに対して、「裁き」という映画はひたすら見つめる中でインド社会を描いている。画面の構図的安定もあって、じっくり考え込んでしまうシーンが多い。

 「裁き」(COURT)という映画は、一言で言えば題名通り「裁判映画」なんだけど、事件の推移をミステリー的に追うのではなく、裁判に関わる人々の点描を通してインド社会の構造を描いている。どこが舞台かと思って見たが、インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)の郊外。ムンバイ中心部の高層ビルなどは全く出てこない。インド社会の知識がないとよく判らないところが多いけど、それでも監督・脚本のチャイタニヤ・タームハネーが何を目的として映画を作っているのかは伝わるだろう。

 この映画は日本で言えば、周防正行監督の「それでもボクはやってない」と同じような動機で作られている。監督自身が自国の裁判を傍聴して、実際の裁判はこんなものなのかという驚きがある。「それボク」は「痴漢冤罪」をテーマに日本の「人質司法」を告発しているが、冤罪支援運動に関わって40年もたつから僕には何の驚きもなかった。むしろこの程度の微温的な描き方で驚いている人がいるのにビックリした。でも「裁き」の方は、ある歌手の歌を聞いて「自殺」した人がいるということで、その歌手が「自殺ほう助」で逮捕起訴されている。これにはさすがに驚いた。

 近代的な法概念からすると実体的な犯罪行為になってないじゃないか。それに女性検事が同僚に「懲役20年がふさわしい」なんて雑談している。日本では自殺ほう助罪は最高刑でも懲役7年(6カ月以上)である。(ところで「自殺ほう助」と字幕に出ているが、「自殺教唆」というべきだろう。「ほう助」は具体的に手助けしていないと成立しない。)それにそもそも「自殺」だったのか。弁護士が追及していくと、だんだん自殺ではなく事故だったという真相が見えてくる。 

 なんでこんな裁判が起こされたのか。そうすると、映画では「表面上は隠されていること」があることが判る。それはインドの身分制度(ヴァルナ制度、日本ではよく「カースト制度)と言われる)の問題である。起訴された歌手、ナーラーヤン・カンブレが過去に関わった政治運動で「ダリット」という言葉が出てきたのでやっと僕にも判った。冒頭の歌の集会でカンブレが歌っているとき、後ろで大きな肖像写真がある。誰だったかなと思いつつ判らなかったけど、プログラムを見てアンベードカルだと判った。「インド憲法の父」と言われた「不可触民」(ダリット)解放運動の政治家である。
 (ビームラーオ・アンベードカル)
 インド人だったら当然すぐに判ったことだろう。もともとカンブレは反体制運動の中で歌を武器にしてきた人で、ずっと弾圧されてきたことが判る。そもそも歌の集会そのものが違法で、それは「演劇法」で規制されているという。そんな法律がインドにはあるのか。人権派弁護士が付いて保釈を要求するが、こんな程度の事件で保釈すら認められない。審理は遅々として進まず、一回の法廷はあっという間に終わる。(他の事件だけど、証人の女性がノーブラで来たら法廷侮辱で審理中止になった。)

 弁護士の家庭では両親が過干渉である。検事の家庭では、一家で演劇を見に行くがそれは「移民を認めるな」というヘイトスピーチみたいなコメディである。ここでいう「移民」とは外国からの難民ではなく、ムンバイに流れ込む他州の移民を追い出せと言う主張で、ヒンドゥー至上主義的な政党が言っているんだろう。また裁判長は事件を置いといて夏のバカンスを取ってしまうが、旅先で孫が「発達障害」(落ち着いて座ってられないというからADHDである)だと聞き、婿が療法士を付けたというのに対し、それもいいけど「名前を変えた方がいい」「パワーストーンの指輪をさせろ」などと言っている。

 日本だって、最高裁判所長官を務めた「法の番人」が、退職後は「憲法改正運動の代表」になるという「伝統」がある国だから、他国をあれこれ言う資格もないだろう。でも、これがインドの司法なんだなと思わせる恐ろしさがある。インドと言えば、ちょっと前まで中国、ロシア、ブラジル(及び南アフリカ)と並んで「BRICS」と呼ばれて経済的発展が注目された。でも今ではどこの国も、大きな問題があることがはっきりしてきた。インドも独自の法慣習が「障壁」になっている国である。

 この映画は僕が初めて見た「マラーティ語」の映画である。マラーティ語というのは、ムンバイがあるマハーラーシュトラ州の公用語。7千万以上の話者がいる。弁護士は英語かヒンディー語でやってくれと要求したが却下されている。インドの公用語は英語とヒンディー語だが、州の裁判所は州の公用語でいいんだろう。弁護士は他州からムンバイの大学へ来た人だからマラーティ語は不得意なんだということだと思う。ムンバイはインド映画界の中心だから、今までヒンディー語の映画が多い。

 ヒンディー語の映画に限らず、ラジニカーントらの超絶アクションが有名なタミル語映画、サタジット・レイのアート映画はベンガル語、あるいは巨匠アラヴィンダンのいたケララ州のマラヤラム語。それらの言語の映画はもういくつも見ている。他にも各地方で作られた映画も何本かは見ているかもしれない。でもムンバイはヒンディー語が多いので、民衆は違う言葉だったのかと驚く。まあ、聞いただけでは英語か、英語じゃないか程度しか僕には判らないけれど。
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中公新書「観応の擾乱」を読む

2017年08月08日 23時16分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書で出た呉座勇一氏の「応仁の乱」が昨年来ずっと売れている。僕もとっくに読んでいるんだけど、ここまで大ベストセラーになるとも思わず、ここでは書評を書かなかった。この本は判りにくい応仁の乱を相当に判りやすく書いているけれど、それでも一般には難しいだろう。歴史専門の人ならともかく、ここまでの記述は煩わしいんじゃないかと思ったのである。

 で、今度は亀田俊和観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)が出た。これも判りにくい出来事を判りやすく書いたものである。こっちは書いておこうかと思う。でも、多くの人には「観応の擾乱」と言われても何だか知らない言葉だろう。応仁の乱と違って、高校段階の日本史では大きく取り上げない。だから僕もよく知らない。もちろん、何だったかは知っている。南北朝時代に足利幕府内部で、将軍足利尊氏と弟の足利直義(ただよし)が争って全日本に波及した動乱である。

 もともと足利氏の執事を務めて大きな権勢を誇った高師直(こうのもろなお)など高一族と直義の対立が激しくなったことが争乱の始まりである。そこからオセロゲームのように白と黒があっという間に変わるような激動の戦乱が続いた。そこに吉野の奥で存続していた南朝も絡んで、全日本に戦乱が広がった。一時は直義が南朝と結んだこともあれば、その後逆に尊氏が南朝と結んだこともある。自分たちで擁立した北朝をうっちゃって、勝手に南朝と手を結ぶなど「禁じ手」の連続である。

 その推移は誰もちゃんと覚えていられないぐらい激しい。結局は足利尊氏が勝利し義詮、義滿と続き、天皇家も北朝が続く。それをみんな知ってるから、観応の擾乱? そういえばそんなのあったよね程度で済まされてしまいがちである。それを細かく丁寧に史料を読み込んで、なるほどという歴史叙述にまとめ上げる。著者の亀田俊和氏(1973~)は、僕は知らなかったが、ここ数年『高師直』や『足利直義』などの著作があり、このテーマをずっと追いかけて来たことが判る。なお、今月から国立台湾大学日本語文学系助理教授という肩書が書いてある。

 中世史という分野は、史料の整備が格段に進んだうえ、細かな制度史の研究が進んできた。そうなると、いくらでも不思議なことが出てきて、どうも簡単な決めつけが出来なくなる。通説的理解では、高師直は典型的な「バサラ大名」で革新的、一方直義は旧来の秩序を重んじる保守派だとされてきた。高師直は「太平記」で大変な極悪非道に描かれているから、そういう「悪人」と正道をゆく政治家の対立のようにも言われたりする。でも、どうもそう簡単には割り切れないようだ。

 鎌倉時代には、源氏将軍が絶えた後に皇族や藤原氏を名目的将軍に仰ぎ、北条氏執権として実権を握った。だが、後には執権も名目化し、北条氏の「惣領」である「得宗」(とくそう)が実権を持ち、さらに得宗家の家政を担当する「御内人」(みうちびと)が権力を持つようになる。そういう「表に立つ人」と「裏で実権を持つ人」が分裂するのは今もよくあることだ。さらに、権力というのは、どうしても「身内」(御内)を優先する「お友達政権」になっていくということが判る。

 足利氏はもともと源義家の4男、義国に発する源氏の名門御家人で、源氏将軍が滅亡した後も北条氏に従い、有力一族と認められていた。高一族はそういう有力一族の家政を担う「御内人」のような存在だったのだという。一方、尊氏、直義兄弟の母が出た上杉氏も関東で大きな力を持っていた。後に関東管領となり、戦国時代に長尾氏に上杉姓を譲り、戦国を生き抜いて米沢で幕末まで続いたあの一族である。(幕末まで続いたから中世史料も相当に残った。)高氏と上杉氏も対立した。

 そこに足利直冬(ただふゆ)が登場する。尊氏の実子だが、庶子でなかなか認められなかった。後継者がいなかった直義が養子とし、中央政界で武将としてデビューした。だが尊氏はずっと冷たくて、この父子対立が大きな影を落とす。争乱当初、直義・直冬側が圧倒するのも、武将としての才能があった直冬を認めない尊氏に対して多くの御家人の反感あったからではないかという。

 争乱の経過はめまぐるしいが、高師直が大軍でクーデタを起こし、直義も一時は出家に追いやられる。だが反転攻勢に転じると、直義側に転じる武士が続出し、直義も南朝に降伏し…。その後高師直らは敗れ惨殺される。尊氏・直義のトップ会談でいったん和平が実現するが、それはすぐに破れ今度は直義が関東に落ち延びる。そういう経過をいちいち書いていても面倒くさいだけ。本書を読んでいても、あっという間に形勢が逆転するから、はっきり言って訳が分からない。

 そのもとにあるのは、「恩賞充行権」(おんしょう・あておこない)だったという。もともと後醍醐天皇に背く気もなかった尊氏に対し、北朝を積極的に擁立したのは直義の方だった。だから将軍の地位にはありながら、尊氏はあまり政治にやる気を見せず、直義にかなり実務をゆだねていた。軍事指揮権も直義にあったのである。(だからこそ、直義と師直が対立することになる。)だけど、そんな時期でも「恩賞充行権」だけは尊氏が握っていたという。

 戦争で功を挙げても、それだけでは所領は増えない。どこどこの領地を与えるという実際的なお墨付きがないといけない。でも、もともと荘園は皇族・貴族・大寺社の所領であり、武士が勝手に横領してはいけない。裁判になると証拠のはっきりした領主に軍配が上がることが多く、だから直義が「保守派」とか「正義派」と言われることにもなる。そこではっきりした「恩賞」を力で充てることができるのが、武家政権の最高権力者である。

 直義は勝った時にも多くの武将に恩賞を充てることがなかった。一方、尊氏はどんどんやる気を見せていき、ついには足利幕府の骨格を築くことに成功する。もっとも、直義や直冬もずいぶん戦闘には消極的である。もっと先頭に立って戦っていればば局面は変わったかもしれない。この本によれば「実兄」「実父」への遠慮がどうしてもあったという。それがこの骨肉の戦いを少しは救っている。具体的な制度のあり方と同時に、人間どうしの相性も大きな影響を持つ。今の時代の政争も同じだろう。
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上値重い内閣支持率-安倍改造内閣をどう見るか②

2017年08月07日 22時53分01秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍改造内閣の支持率調査が出てきた。聞いた日や聞き方に若干違いがあるが、まあ大体の傾向は似ている。
NHKの調査では、支持39%(前月は35%)、不支持が43%(前月は48%)だった。
読売新聞の調査では、支持が42%(前月は36%)、不支持が48%(前月は52%)だった。
朝日新聞の調査では、支持が35%(前月は33%)、不支持が45%(前月は47%)だった。

 読売新聞調査の支持率が一番高いけど、これは別に読売新聞の論調を「忖度」して国民が答えているわけではない。読売は、答えない人に「重ね聞き」をして、「あえて言えば」と問いかける。だから、支持も不支持も一番高くなる傾向がある。内閣改造には、やっただけで数%の支持率回復効果があるとされる。大きく報道されるし、首相の記者会見などで今後の展望が語られる。それに対して「野党各党の反応」も必ず出るけれど、どうしても印象が薄いのは当然だろう。

 今回はそういう意味では、「予想された範囲」の数字だと言えるのではないか。これを「下げ止まった」または「反転攻勢が始まった」と捉えるか、「支持・不支持が拮抗している」と捉えるか、それとも「不支持がかなり上回っている」または「改造の支持率回復効果は弱かった」と捉えるか。現段階では決め手となる解はない。今後の推移を見ていくしかない。

 ただ、今回は野田、河野の入閣など「ある程度のサプライズ」があった。だから、本来首相サイドからすれば、最低でも支持・不支持が並ぶぐらいの数字を期待していたのではないだろうか。だが、今もなお、不支持が多い。「他の人より良さそう」が今も支持理由のトップで、それなのに「首相の人柄が信用できない」が不支持の理由となるわけだから、なかなか支持が回復しない。

 今後の支持率の推移を予測してみると、やはり「上値が重い」展開が続くのではないかと僕は思う。理由はいくつか考えられる。首相は加計学園問題で「加計学園の申請を知ったのは、今年の1月20日」とそれまでの答弁を修正した。これは到底信じられないと思うし、世論調査でも納得できないという答えが圧倒的である。もしそれが本当だったら、確かに首相には問題がないことになる。だが「国家戦略特区」という、本来首相がトップで推進する取り組みがいい加減だったことにもなる。

 もう一つ、首相が「共謀罪」などで今まで強行して決めることが多かった。もういい加減国民も目が覚めたのかもしれないが、それよりも「憲法改正」でなお「強行」が進みつつある。いや、憲法改正は「スケジュールありきではない」と語り「ていねいな議論」を約束してはいる。だけど、「安倍一強」が続いていたとしても「スケジュール優先で進める」などと言うわけがない。改憲自体をやめるとは言わないんだから、今後も重要局面になれば「強行」するに決まってる。唐突な改憲論議も不支持増大の理由だろうから、「改憲先送り」を表明しない限り支持率は元に戻らないのではないか。

 そして最大の問題がある。それは2018年9月の「自民党総裁選」である。自民党はルールを変更し、任期3年の総裁を3回連続してできることとして、現職総裁から適用するとした。ルールを変えるのは、政党は私的結社だから構わないけど、普通は「次期総裁から適用」だろう。現職から3選可能では、どこかの独裁国家みたいな感じじゃないか。自分が総裁の時にルールを変えて自分に適用するというのは、民主的な感覚からは違和感が強い。

 実際問題、2012年12月に政権復帰して以来、最長で2021年9月まで首相を務めるというのは、あまりにも長いのではないか。自民党を支持し、アベノミクスに期待を持ち、憲法改正に賛成の立場の人にとっても、かなり問題なんじゃないだろうか。この「総裁3選問題」が実は一番大きいのではないかと思う。良い評価をする人にとっても相当長い。何しろ中曽根、小泉両政権は5年しかなかったのである。戦後の長期政権と言えば、吉田茂佐藤栄作だけど、どっちも最後の頃は国民も飽きてしまって「もういい加減辞めてくれ」という感じだった。

 中曽根、小泉両氏が辞任後も一定の政治的存在感を保ち続けているのも、政治的余力を残して退陣したからだろう。早く辞めれば後継者にも影響力を持てる。それに対して超長期政権になれば、もう後継に対して影響力を持てないことが多い。それは安倍氏も判っているだろうと思う。だが、2018年で辞めてはできないことが「総裁3選」で経験できる

 一つは現天皇の退位と新天皇の即位。それに伴う大嘗祭等の皇室諸行事。もう一つは東京五輪時に首相として世界各国の首脳を迎えること。そして三つ目として、もしかしたら実現できるかもしれない「憲法改正」をわが手で公布すること。これらを自分で手掛けるという誘惑に、保守政治家・安倍晋三が抵抗できるとは思えない。総裁選規定を変えたのは、二階幹事長の「功績」である。せっかく変えた決まりを首相が生かさないとなれば、二階氏も面白くないだろう。

 だから、今のところ、「安倍首相(総裁)は自民党総裁選に出馬する」と見ている。だが、これが世論には受けが悪い。反対の方がずっと多い。そりゃあそうだろう。どんな人だって、最初に1年、その後に5年半もやれば十分だし、それで成果がないというなら、もう辞めた方がいいというのが普通の感覚だ。もともと安倍反対派からすれば、もう十二分に長すぎて早く辞めて欲しいだけであり、それが2021年まで続くなんてなったら、外国へ移民しようかという感じである。

 改憲だって何も安倍内閣じゃなくてもいいんだし、長すぎる安倍政権で強引に進めればかえって選挙に負けかねない。そういう声も今後強くなると思う。そうなると、保守支持層の中でも、安倍氏は2018年で勇退し後進に道を譲るのが「保守政治家」らしいという声も多くなるだろう。そういう意味で、安倍総裁3選をめぐって、今後「支持率の上値が重い」状況が続いていくのではないかと思う。
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安倍改造内閣をどう見るか①-岸田外相の処遇問題

2017年08月05日 22時43分14秒 |  〃  (安倍政権論)
 8月3日に内閣改造が行われた。最近いちいち政局の動きを書く余裕がなかったけれど、そろそろ今後の政治のゆくえを考えてみたいと思う。都議選で自民が惨敗し、森友・加計問題や自衛隊PKO日報問題などで内閣支持率が下がり不支持の方が多くなった。そういう中での改造で、僕が今まで何回も書いてきた「お友達内閣」がある程度封印して、野田聖子を総務相に、河野太郎を外相に登用するなどの人事を行った。今回の内閣改造をどのように見るべきか?

 今回の改造の最大の焦点は、「岸田外相の処遇」だった。それを理解していないといけない。岸田文雄外相は、第2次安倍内閣発足以来、第3次内閣を通じて、約4年半にわたって外務大臣を務めてきた。外相は重要ポストだから、これは「有力政治家」の証明ではある。でも長すぎた。岸田氏は宏池会の会長で、その由来は後で説明するけれど、名門派閥の長だから「総裁を目指す」立場にある。

 でも外相である限り、一年のうちの数か月を海外出張せざるを得ない。しかも最近は世界的に「首脳外交」の方が重要で、日本でもアメリカやロシアにひんぱんに出かける安倍外交に隠れてしまう。昔なら超重要ポストだった外相だけど、世界的にリーダーの部下的なイメージが強くなった。

 昔から自民党内では、「政務」と「党務」の双方に精通することがリーダーのあり方とされてきた。首相を目指すんだったら、財務、外務、経済産業、官房長官などの経験が求められるが、それだけでは自民党は動かない。自民党内の人脈、金脈、地方組織、選挙情勢等に通じるためにも、幹事長などの「党3役」(幹事長、政調会長、総務会長。現在は選対委員長を加えて4役ともいう)を務めることが望ましいわけである。だから、岸田氏も今回は外相ではなく、党3役を希望していた。

 はっきり言って、今回も外相に留まるようなら、単なる「安倍首相のイエスマン」イメージが強くなり、総裁候補から脱落しかねない段階にあったのである。ところが、都議選後に安倍・岸田会談が行われ、一部報道では「外相留任を受け入れた」という。朝日新聞などは、2日の朝刊になっても、一面トップの記事で「首相が『骨格』と考える麻生太郎副首相兼財務相、菅義偉官房長官、岸田文雄外相の留任が固まっている」と報じている。じゃあ、僕は岸田留任と見ていたのかというと実は違う。

 同日の東京新聞では、「首相は政権の骨格を維持する考えで、麻生太郎副首相兼財務相や菅義偉官房長官を留任させる考え」と書いていて、岸田外相留任とは伝えていないのである。全紙を読み比べているわけではないけれど、岸田氏はなお外相留任を受け入れていないのだろうと僕は思っていた。ところで、改造前日になっても、「外相留任」と伝える朝日の情報源と情勢判断はどうなっているのだろうか。加計問題を先頭に立って追及した朝日には「フェイクニュース」が伝わったのか。

 稲田防衛相が改造に先立ち辞任し、後任の防衛相を一時岸田外相が兼任していた。稲田氏の責任問題や外務・防衛兼務の問題などはさておき、僕はこのニュースを聞いたとき、岸田氏は今回外相を下りるんじゃないかと思った。だから「一週間ほど頼みます」「一週間だけなら頑張ります」と口には出さないだろうけど、そういう暗黙の合意に基づく兼務じゃないかと思ったわけである。(稲田後任は首相本人の兼務か、小野寺、中谷氏などを改造に先がけて任命すると考えていた。)

 さて、今回の改造では、岸田外相は政調会長に転じ、かねて希望の党3役になった。一方、今まで岸田派は必ずしも優遇されてはいなかった。いっぱい入閣した時もあるけど、岸田氏しかいなかったときもある。直前では、山本幸三地方創生相が岸田派の入閣者。岸田氏がずっと入閣しているから、他の部下に回らなかったのである。ところが、今回は上川陽子法相林芳正文科相小野寺五典防衛相の3人が再任、参院から松山政司一億総活躍担当相と党3役を含めて、岸田派が5人もいる。

 安倍首相もなかなかやるもんだ。岸田派冷遇の訴えを逆手に取って、「優遇しすぎ」である。宏池会(こうちかい)はもともと「政策通」が多いことになっている。国民の批判を受け丁寧な政治運営を心がける「仕事人内閣」を作ったので、「たまたま岸田派が多くなった」とタテマエ上はそう言うんだろうけど、もちろん実際は違うだろう。「岸田派丸抱え」方針ということだと思う。

 「宏池会」はもともと池田勇人首相の派閥で、その後に大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一と合計4人の首相を出している。だが宮沢後継をめぐって、加藤紘一と河野洋平に分裂し、さらに加藤紘一が2000年の森内閣時代に「加藤の乱」を起こして再分裂した。加藤紘一に従わなかったグループは古賀誠派を作り、岸田はそちらに所属した。その後一時再合同したが、2012年に再び分裂し岸田が宏池会会長となった。岸田は広島出身で、池田、宮澤両氏と同じである。

 伝統的に宏池会は自民党内では「ハト派的」とされ、旧福田赳夫系の「清和会」が「タカ派的」な体質と対照的だった。福田派系から森、小泉が出て、安倍晋三も出てくるから、安倍と岸田は歴史的には対立するところがある。実際、安倍首相が突然言い出した「9条改憲」に対しても岸田氏は慎重な構えを表明してきた。だから、安倍首相にとって、岸田氏は「潜在的な反対派」なのである。

 一方、明確な反主流は石破茂氏である。自民党が「反省」して党一丸になるというならば、もともと2012年の総裁選の第一回投票で安倍氏より得票が多かった石破氏に重要な役職を提供しないといけないはずだ。まあ断られるだろうけど、どうも打診もしてないようだ。石破は取り込めないと見切っているんだろう。一方、岸田氏が政調会長になったということは、2018年総裁選で「9条改憲不要」を旗印に安倍反対派を岸田が糾合する事態を防げたということだと思う。

 ここまで岸田派優遇となれば、逆に岸田が安倍に対抗して総裁選に出ることは難しくなると思われる。政調会長は調整ポストで、自分の意見を押し付ける役どころではない。野田聖子も来年の総裁選に出ると言ってるけど、野田は部下も少ないし、すぐに総裁選に当選する見込みはない。「女性活躍」の旗印のもと、将来の総裁候補に認知されるための立候補である。

 一方、安倍内閣の支持率が今後も大きく改善されず、安倍首相が総裁三選を目指さないという事態になった時はどうなるのか。一時は稲田朋美を後継に育てるなどと夢想していたのかもしれないけど、もう安倍と同じグループからの後継は難しい。突然の事態なら副首相の麻生がリリーフかもしれないが、本格的総裁選だと年齢的にも難しい。その際、安倍首相が岸田氏を後継に推し、自分は裏で影響力を保ち、表で改憲を実現するのは「ハト派」的なイメージの岸田にやらせるという「高等戦略」が可能になってくる。そこまで考えての岸田氏の処遇をめぐる問題があるんだと思う。
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犬養道子、日野原重明、平尾昌晃等-2017年7月の訃報

2017年08月04日 23時05分55秒 | 追悼
 2017年7月の訃報から。中国の民主化運動家劉暁波とフランスの女優ジャンヌ・モロー、アメリカの劇作家・俳優サム・シェパードを別に書いた。日本でも、結構有名人の訃報が多かったんだけど、一番大きく報道されたのは日野原重明だろう。でも、僕はその前に犬養道子(1921~2017.7.24、96歳)を取り上げたい。日野原先生は最後まで現役だったから知られているけど、しばらく消息も聞かなかった犬養道子の名は僕も忘れていた。だけど、80年代に環境保護難民救援に努めた功績は不滅だ。名著「人間の大地」で広まった「みどり一本」運動は、アフガン難民支援の植林運動から始まった。僕の周囲で記憶する限り、多くの人が一回ぐらいは寄付したことがあるんじゃないか。

 5・15事件で殺害された犬養毅首相の孫にあたる。その子で文人政治家として著名だった犬養健の娘。(ちなみに今回ウィキペディアを見て、安藤和津が異母妹だと出ていた。事情は書かないけど、僕は知らなかった。)早くから欧米に留学し、多くの自伝的著作がある。「お嬢さん放浪記」「花々と星々と」「ある歴史の娘」など、たくさん中公文庫で出ていた。最後の頃は聖書に関する本が多い。「聖書の旅」全10巻がライフワークだったという。日野原さんとの共著もあった。

 日野原重明(1911.10.4~2017.7.18、105歳)は、100歳を超えても社会的活動を旺盛に続けていた。それだけでもすごいけど、活動の幅も広い。文化勲章を2005年に受けていて、どういう理由か調べてみると「内科学・看護教育・医療振興」となっている。ものすごく多数の著書があり、多数の肩書があった人だけど、単に医療を病院の医者の問題としてではなく、看護を含めて捉えた。「成人病」を「生活習慣病」と呼ぶように提唱し、「人間ドック」を開設するなど幅広い活動を行った。1970年のよど号ハイジャック事件に遭遇したことや、1995年の地下鉄サリン事件が起きた時、聖路加病院の外来診療を中止しサリン事件の救援に全力を絞ったことなども有名なエピソードだろう。こういう風に戦後史の重要な節目に出会うというのも、「一種の才能」なんだと思う。

 平尾昌晃(1937~2017.7.21、79歳)は、70年代の歌謡曲の作曲家として永遠に残る仕事をした。50年代後半に「ロカビリー三人男」として大人気を博していたわけだが、もちろん僕は知らない。だから五木ひろしの「よこはま・たそがれ」や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」の作曲者として知ったわけだ。小柳ルミ子の「わたしの城下町」、アグネス・チャンの「草原の輝き」、梶芽衣子の「修羅の花」(「修羅雪姫」のテーマ)等を思い出すとき、僕だけでなく70年代初期の精神史に大きな影響を与えた人だと判る。まあ、うまく言えないけど。74年に作った「平尾昌晃音楽学校」からは、狩人、川島なお美、石野真子、松田聖子、森口博子、倖田來未、後藤真希らを育てたというから、それもすごい顔ぶれだ。

 プロ野球の阪急日本ハムで監督を務めた上田利治(うえだ・としはる、7.1没、80歳)は、通算20年の監督生活で、リーグ優勝5回、日本一3回の成績を収めた。まあ、阪急の黄金時代を築いた人という印象。阪急は88年にオリックスに身売りし、最後の監督、最初の監督になった。
   (左から上田利治、安西愛子、砂川啓介)
 NHKの「歌のおばさん」だった安西愛子は100歳だった。7.6没。童謡歌手として、戦時中に「お山の杉の子」が大ヒットした。1971年に自民党から参議院全国区に出て、2位で当選した。(1位は田英夫、3位は望月優子)3期務めたけど、長命すぎて忘れられたかも。砂川啓介はNHKの「おかあさんといっしょ」の初代「体操のおにいさん」で、ドラえもんの声で知られた大山のぶ代の夫として知られていた。認知症を患う妻よりも先に逝去することになった。7.11没、80歳。

 本を書いた人として、子安美知子の存在は大きい。7.2没、83歳。「ミュンヘンの小学生」「ミュンヘンの中学生」でシュタイナー教育を日本の紹介した。今では日本でもシュタイナー学校ができているが、この人無くしてあり得ないと思う。ミヒャエル・エンデの関する本をあり、70年代、80年代にオルタナティブな教育のあり方を提起した意味は大きい。
 (子安美知子)
 詩人の粒来哲蔵(つぶらい・てつろう)は6月2日に死去、89歳。また詩人の原子朗(はら・しろう)は7.4没、92歳。宮沢賢治研究家でもあった。それよりも日本のSF作家として初期に重要な役割を果たした山野浩一の方が僕には重要。7月20日没、77歳。「X電車で行こう」など僕は好きだった。日本のニューウェーブSFの先駆者だけど、それより一般的には競馬評論家として知られただろう。

 「月光仮面」の作曲家、小川寛興(おがわ・ひろおき)が7.19没、92歳。「聖母たちのララバイ」「時間よ止まれ」「太陽がくれた季節」などの作詞家、山川啓介が7.24没、72歳。

 映画美術家の横尾嘉良(よこお・よしなが)が、7.18日没、87歳。ものすごくたくさん手掛けているが、元は日活で当時のアクション映画、青春映画をいっぱい手掛けている。鈴木清順の「野獣の青春」は木村威夫かと思うと、実は横尾の担当である。山本薩夫監督の「戦争と人間」三部作、村野鉄太郎の「月山」、相米慎二の「セーラー服と機関銃」「魚影の群れ」、小栗康平の「死の棘」「眠る男」なんかが主な仕事だと思う。見ると僕の好きな映画の美術にずいぶん名前が載っていた。

 外国映画関係で、「ゾンビ映画の父」と言われるジョージ・ロメロが7月16日に亡くなった。「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」という1968年の映画がデビュー作であり、ゾンビ映画の始まりとなった。「ゾンビ」「死霊の餌食」などの作品がある。アメリカのB級映画で有名なエド・ウッドを描いた名作「エド・ウッド」で俳優ベラ・ルゴシ役を演じて、アカデミー助演男優賞を得たマーティン・ランドーが死去。7.15没、89歳。
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尹東柱の生涯-映画「空と風と星の詩人」

2017年08月03日 21時33分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 戦争末期に日本の監獄で獄死した尹東柱(ユン・ドンチュ)は、今では韓国で国民詩人とみなされている。1917年に生まれたので、今年は生誕百年。(誕生日は12月30日、死亡は1945年2月16日。)その尹東柱の人生を描いた映画が公開されている。「空と風と星の詩人」というけど、公開が小規模だから知らない人が多いと思う。映画の完成度はともかく、韓国文化に関心のある人には必見。

 映画は故郷にいる青年時代から始まる。場所は中国東北部、今は延辺朝鮮族自治州となっている「北間島」地方である。もともとは祖父がキリスト教徒で、朝鮮北部の咸鏡道からの移民した。周囲もキリスト教徒が多い地帯だった。1938年に京城(現ソウル)の延禧専門学校(現・延世大学校)文科に進む。そして1942年に日本に来て、立教大学、同志社大学に学ぶ。

 その間の青春時代を、同郷のいとこ、宋夢奎と対照させながら描いている。彼は東柱と一緒にソウルに行き、日本にも行った。そしてともに雑誌を作ったりした。親族というより、友人であり同志でもある。だけど宋は東柱よりも政治的、直接行動的で、中国へ行って独立運動に参加して捕えられたりした。どこまで正確に描かれているのか、僕はよく判らないけど。2人はソウルで、京都で、文学を政治を、民族の運命を熱く語り合う。戦時下の植民地であっても、そこには「青春」がある。

 東柱を演じるのは、カン・ハヌルという「韓流スター」で、甘いマスクで清冽な詩人をいかにもという感じで演じている。映画はモノクロの映像をうまく使って、植民地時代を再現した。ユン・ドンチュの詩を効果的にナレーションで使い、効果を挙げている。禁じられた母語で詩を書き続ける東柱の青春に見るものは同化し感動する。まあ、そういう映画である。

 だけど、どうも史実無視のような点も多いように思えた。日本の特高刑事が「アウシュビッツを知っているか」なんて言うはずがない。ドイツを除いて、まだ世界中で誰も知らなかっただろう。いとこの夢圭は、単に独立運動を話し合っただけでなく、京都の朝鮮出身学生を組織して演説する。そこでは「ミッドウェーでは4隻の空母が撃沈され、ソ連の参戦も近い」なんて演説している。おいおい、それも誰も知らないだろう。臨時政府の組織した光復軍が30万もいるなどとも言っている。

 韓国政府は、当時は上海から重慶に移っていた「臨時革命政府」の後継と自己規定している。そういう公式的歴史観に基づき、夢圭や東柱も臨政系の独立運動家のようになっているけど、それは誇張というもんだろう。彼はまだ認められていなかった詩人であり、学生だった。そのような脚本の問題点もあるけど、それも含めて「尹東柱はどう描かれているのか」も大事な見どころ。まあ、どうも「抵抗の民族詩人」という伝説に沿った映画作りなんじゃないかと思う。

 そういう意味では映画としての完成度をうんぬんするよりも、尹東柱を見るための映画ということになる。それは見る価値のあるテーマだと思う。日本でもファンが多く、知名度も高いから見たい人も多いだろう。小さな映画館(シネマート新宿2=定員60)だから、今日は立ち見だった。しかも毎日上映時間が違う。インターネットで時間を確認し、チケットも買っていかないと入れないかもしれない。

 今じゃ、尹東柱詩集は岩波文庫にも入ってる。金詩鐘編訳「空と風と星と詩」(2012)である。入手しやすいので持ってる人も多いだろう。日本では伊吹郷訳の影書房版(1984)が長く読まれていた。「序詩」では伊吹訳が「死ぬ日まで空を仰ぎ」となっているところ、金詩鐘訳では「天を仰ぎ」となった。

 また「たやすく書かれた詩」の終わりごろの部分、伊吹訳は「灯火(あかり)をつけて 暗闇を少し追いやり 時代のように 訪れる朝を待つ最後の私たち」と訳されている。それが金詩鐘訳では「灯りをつよめて 暗がりを少し追いやり、時代のようにくるであろう朝を待つ 最後の私、」となっている。これは結構違う感じがする。どうもなんだか、前の訳になじんでいる感もあるんだけど。そこらの問題は僕には判断できないが、実はちゃんと読んでなかったので今回読んでみた。

 実に素晴らしい詩だと思ったんだけど、それほどの詩人が日本の獄中で死んでしまったということの無念。最後に何か叫んだというが、それを日本人の看守は誰も理解できなかった。福岡の刑務所である。韓国も近いというのに。誰も判らなかった。日本では今も理不尽になくなる外国人が時々いる。もしかしたら、そういう人の中にも素晴らしい人がいたのかもしれない。そういう風に思えてくる。
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東武鉄道のSL「大樹」試乗記

2017年08月02日 21時27分02秒 | 自分の話&日記
 東武鉄道がSL(蒸気機関車)の運行を開始する。8月10日から、下今市と鬼怒川温泉間を土日中心に3往復することになっている。それに先立って、2日に株主向け試乗会が行われた。前にスカイツリーの事前見学会に応募したときは外れたから、今回もあまり期待していなで一応出しておいたら、2週間ほど前に当選の連絡が届いた。

 まあ行って乗って帰ってくればいいやと日帰りで行ってきた。夏休みは泊ると高いし。「下今市➡鬼怒川温泉」と「鬼怒川温泉➡下今市」とあって、どっちも希望しておいたけど、鬼怒川温泉から出る方が当たった。午後2時40分発だから、のんびり出ればいいかなとゆっくり行ったんだけど、下今市まで行ったところで「人身事故」で止まってしまった。乗ってた特急が下今市止まりとなり、その後の各駅停車で行くしかなくなった。SLの運行も遅れるし、ゆっくり見る時間も無くなってしまった。

 ということで、鬼怒川温泉に付いたときは、もう駅前の転車台でグルッと回転する瞬間は終わっていた。でも、まあ何とかホームに入るまで、また入ってからの写真を何枚か撮ってみた。このSLは名前を「大樹」(たいじゅ)と付けられている。もともと「大樹」というのは、中国で征夷大将軍の別名である。徳川将軍の墓所にある日光、それに「スカイツリー」の意味を兼ねている。マークは3つの動輪だけど、これも徳川の「三つ葉葵」をイメージしている。(他にも理由があるけど。)
   
 ところで、夏の一日、鬼怒川とはいえ猛暑だったらどうしよう。それにSLっていうのは冷房があるんか? などと当初は心配もしてたんだけど、案に相違して今日は25度にも届かない一日中曇天の日だった。東武がせっかく冷却パックと麦茶をくれたんだけど、使う必要がなかった。それに今回のSLは、普通の列車に連結されているから、客車も当然冷房が付いていて、窓は開けない。当然煙くもない。だから「ただ乗ってるだけ」とも言える。動いてるところは自分では撮れないし…。
   
 自販機も「大樹」仕様になってる。一番前の車両の指定席だったので、窓から煙がよく見られた。今回は全国で残されたものを譲渡されて使っているものが多い。客車はJR四国で使っていたものを改良したという。1974年製の列車で、SLは北海道で1971年まで使用していたもの。下の最初の写真を拡大すると判るが、日立製作所で1941年に作られたものである。だから、SL本体と客車は同時代に使われたものではない。まあそういう工夫で、乗る方はある程度快適性を得られているわけ。
  
 鬼怒川温泉駅出発も遅れ、下今市着も当然遅れる。もともと特急で25分ほどかかるところを、SJだと34分ほどの時間になっている。だからのんびりしたもんである。沿線では「SLに手を振ろうキャンペーン」なんてやってるので、結構手を振る人も多い。こっちも一応振ってみることになる。もちろん手を振るのではなく、一心にカメラを撮っている人も多いけど。やっと着いたと思うと、もう帰りの時間。事故延着は帰りに取ってあった特急あたりから解消され、従ってすぐに帰るしかない。下今市には「SL資料館」ができ、SL見学エリアもできているけど、そっちを見る余裕はなかった。
 
 転車台で回って車庫に入る様子は、帰りのホームから遠望して少し撮った。これでオシマイ。なんだかよく判らん体験だった。僕は父親が鉄道会社だったので、小さなときは全国の駅名を覚えるような子どもだった。でも長じるに連れ、だんだん関心が薄れた。というか、今も鉄道好きではあるものの、他に関心のある事柄がいっぱいあるということかも。もともと鉄道であれ、クルマであれ、モノとしての関心が薄い。だからSLに機械としての関心はあまりない。ただ、昔あった、映画にもよく出てくる「蒸気機関車」という存在に、歴史的、文化的な興味があるということかなと思う。日光地区は大好きで、ここでも何回も書いている。今回SLという魅力も加わるので、多くの人に宣伝しておく次第。
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ジャンヌ・モローとサム・シェパードを悼む

2017年08月01日 23時24分03秒 |  〃  (旧作外国映画)
 昨日フロスト警部の話を書いた後で、ジャンヌ・モローの訃報を知った。すぐ書くには遅すぎたので今日にまわそうと思ったけど、朝刊を見たらサム・シェパードの訃報も載っていた。合わせて二人のことを振り返っておきたい。まずはジャンヌ・モローから。

 ジャンヌ・モロー(1928~2017.7.31、89歳)はフランスを代表する大女優だった。もともと演劇から出発したが、50年代後半にその時代の新しいフランス映画にいっぱい出演した。今でもルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)が一番最初に言われる。翌年の「恋人たち」も素晴らしい。1960年のピーター・ブルック監督、マルグリット・デュラス原作の「雨のしのび逢い」ではカンヌ映画祭主演女優賞を受賞した。デュラス作品は後に「マドモアゼル」にも出てるし、本人役を演じたこともある。
 (「死刑台のエレベーター」)
 という話をいくら書いても仕方ない。僕にとってはフランソワ・トリュフォー「突然炎のごとく」(1962)に主演した人なのである。もちろん、今まで挙げた映画は同時代に見たわけではない。世界の映画を見るようになって、フェリーニの「甘い生活」やゴダールの「気狂いピエロ」なんかと並んで「発見」したわけである。これらの映画は僕の最も好きな映画だから、もう何度も見ている。何度見ても面白いし、心打たれる。映画の中でも「美人というより、神秘的な顔立ち」などと評されている。「美人」と言えばそうなんだろうけど、むしろ「人をひきつけてやまない独特の風貌」というべきか。
 (「突然炎のごとく」)
 「突然炎のごとく」の他では、ルイ・マル「鬼火」が凄かった。またトリュフォーの「黒衣の花嫁」もすごいけど、怖い。同時代には何を見たかと思い出すと、監督もした「ジャンヌ・モローの思春期」(1979)は岩波ホールで公開されたときに見たなあ。テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」なんかもあった。最後の作品、「クロワッサンで朝食を」(2012)では、パリに住む気難しい老婦人を見事に演じていた。だけど、もう僕の同時代には大女優すぎて、特にファンというわけでもなかった。でも、見事なるフランス女優だった。去っていくのが惜しい。

 サム・シェパード(1943~2017.7.27、73歳)は、アメリカの劇作家、俳優。訃報では「ライト・スタッフ」(1983)が大きく扱われている。実在の米空軍パイロット、チャック・イェーガーを演じて、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。イェーガーは史上最初に音速を超えたパイロットで、調べてみるとサム・シェパードよりも20歳も年上だけど、まだ存命である。

 僕も「ライトスタッフ」で名前を知ったけど、それよりもヴィム・ヴェンダース監督の「パリ、テキサス」(1984)の脚本を書いた人という印象が強い。もう、圧倒的に素晴らしい映画で、素晴らしいシナリオだ。映画俳優としていろいろ出てたが、本職は劇作家。日本でも上演されたのがあると思うが見てない。ロバート・アルトマン監督の「フール・フォア・ラブ」(1985)は、シェパードの原作、脚本、主演なんだけど、どうもシェパードの書くアメリカは結構ドロドロしていて人間関係が大変。ヴェンダースとは、「アメリカ、家族のある風景」(2005)でも組んで、脚本、出演している。外見的にはすごいハンサムなんだけど、アメリカを見つめる視点が深くて暗い。出てると注目してしまう俳優だった。
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「ベルギー 奇想の系譜」展を見る

2017年08月01日 21時11分58秒 | アート
 渋谷の「Bunkamuraザ・ミュージアム」で「ベルギー 奇想の系譜」という展覧会を見た。大昔に「ベルギー象徴派展」というのを見たことがあり、また見たいと思っていたから「早売り券」というのを買っていた。今回は「ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで」と書いてある。9月24日まで。

 この展覧会は、なんとヒエロニムス・ボスから始まり、ブリューゲルルーベンス(の「奇想」的な作品)などを経て、19世紀末の「象徴派」のクノップフロップス(ボードレールと親交のあった画家)などへ続く。さらにマグリットデルヴォーなど20世紀の画家を経て、ヤン・ファーブル(という人は現代の彫刻家だった)までという長い時間を見せてしまおうという企画。だから一人の画家は割と少ない。

 僕が昔見たという「ベルギー象徴派展」はいつだったのか。その頃はカタログを買っていたから調べてみると、1982年11月12日から1983年1月23日まで、東京国立近代美術館だった。幻想的で憂いに満ちた不思議な魅力にに完全に心奪われてしまった。後に、岩波文庫からローデンバック「死都ブリュージュ」が出たが、まさにそのムード。画家クノップフという人は、父の仕事の関係で幼い時は実際にブリュージュ(ベルギー北西部の都市)に住んでいた。

 若い時にルネ・マグリットポール・デルヴォーを初めて見た時は驚いた。自分の心の中にある幻想をまざまざと見せてくれる人がいたのか。そういう思いである。まだほとんど知られていなかったから、特に初見の驚きと感激が大きかった。今見ると、もうそういう驚きはない。大体、マグリットの「大家族」とかデルヴォーの「海は近い」なんかは日本にある。前者は宇都宮美術館(そこでも見ている)、後者は姫路市立美術館。姫路所蔵の昨品が多いのは、ベルギーの都市と姉妹都市だから。

 そのデルヴォーの「海は近い」という絵は、不思議な魅力をたたえている。画像で見るのと実際に見るのは大違いである。一方、ボスやブリューゲルとなると、小さな画面に実の多くの「奇想」が描かれていて、面白いには面白いけど見るのが疲れてしまう。(だから「バベルの塔)は見なかった。)それじゃ、しょうがないんだけど、やっぱり「大きな絵」を中心にみてしまうのであった。古典から現代まで、奇想の系譜をたどる貴重な機会なので、関心のある人は是非。宇都宮、神戸と回ってきて、ここが最後。
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