「北朝鮮問題」で残されたテーマをいくつか。今まで「北朝鮮の大量破壊兵器開発」を中心に書いてきた。それは大切な問題だが、それ以上に重大とも言えるのが、北朝鮮国内の人権状況である。それは何となく「怖い国」として知られていても、くわしいことはほとんど知らない人が多いだろう。
国際人権組織「アムネスティ・インターナショナル」では全世界各国の人権状況をレポートしている。日本支部のサイトにも全世界の状況が掲載されている。そこの「朝鮮民主主義人民共和国」を見てみるとおおよそのことが判る。そこでは小項目として、「移動の自由」「海外派遣労働者の権利」「恣意的な逮捕と拘禁」「表現の自由」「強制失踪」などが挙げられている。
一番最後の「強制失踪」は日本などの拉致問題を指す。海外派遣労働者の問題などは、僕を含めてほとんど意識していないのではないか。しかし、なんといっても深刻なのは、12万人近くの人々が政治犯収容所に拘禁されていたということだろう。人権問題が存在しない天国のような国は世界のどこにもないけど、北朝鮮の人権状況は世界最悪レベルだ。政府が崩壊したり、テロリスト勢力が力を持っているために人権状況が悪化している国は他にもいろいろある。だが、北朝鮮では「政府がそれなりに有効に支配している」ことが問題なのである。
人権問題では、今までの歴史を見ると、大きな変動が起こるためには二つの前提がある。一つは「それが問題だと多くの人の共通認識がある」。もう一つは「人権が侵された被害者が外へ向かって声を挙げる」。例えば、「セクハラ」という問題は、ある時期までは「そういうものだ」と何となく思われていたが、「セクシャル・ハラスメント」という概念が出来ると、そうか、あの嫌な思いは「セクハラ」だったんだと自己認識できる。最近では「部活動での体罰」などもそう。そういうもんなんだと多くの人が何となく思っている場合には、それは問題として意識されない。
どんな問題も、最初に声を挙げておかしいと訴える人がいる。冤罪問題なども、無実の罪に問われた人が、「私は無実です」と訴えるところから救援運動が始まる。無実なんだったら、やってないというに決まってると思うかもしれない。でも今までの冤罪問題を見ると、無罪主張をしない人もいるのである。近年では「富山冤罪事件」などが代表。無実の人が有罪となり、服役して出所した後に、真犯人が現れ自白した。真犯人は有罪となり、冤罪の人は再審で無罪となった。
だけど、なんで裁判の段階で無罪の主張をしなかったのだろう。それは様々の原因が指摘されているが、警察も検察も真実の追及を怠り、脅迫的な取り調べを行い、もう誰も信じられなくなったということが大きいと思う。僕が70年代頃に世界の問題に関心を持った時に、韓国やソ連の政治犯の問題は大きく取り上げられていた。そのとき、中国や北朝鮮の政治犯は知らなかった。では、それらの国にはいないのかというと、実際は声を挙げられる状況にはなかったのだと今になれば判る。
中国は「改革開放」を経て外国との往来も相当に自由になり、今も情報統制は厳しいが、それでも自由を求めて闘っている人々の存在を知ることができた。でも、北朝鮮の場合はそのような「自由を求めて闘う人」(フリーダム・ファイター)の存在は知らない。今まで一人もいない。厳しい弾圧が自由な市民活動をまったく許さない段階にあると思われる。それでも少しづつ外国状況などは伝わるもので、中国の延辺朝鮮族自治州などを通して、ある程度韓国の情報も伝わっているかもしれない。
でも、「自国には問題がある」「正義を求めて声を挙げることで改善できる」という発想が許されない社会では、まず「世の中はそんなもの」と思う。問題設定そのものがないので、ではどうするという発想も出てこない。そういう「無実だけど、諦めてしまって無罪主張ができない」段階に、現在の北朝鮮社会はあると思われる。じゃあ、どうすればいいのか、僕にははっきり言って判らない。
政府に圧力をかければ解決できるという幻想は持てない。「止まない雨はない」と僕は信じているが、まだまだこの苦難は続くだろう。外部から戦争を仕掛けて政権を打倒すればいいと思う人もいるだろうが、それはさらなる悲劇をもたらすだけだ。日本人拉致被害者がどれだけ存在しているか、僕には全くわからないけど、そのような人々を含めて政治犯収容所は解放される前に「処置」されかねない。ぞれでも、と僕は思う。朝鮮労働党の様々な犯罪行為(拉致問題や金正男暗殺事件などを含め)は、やがて統一されたのちに「国際法廷」で裁かれるべきだと。カンボジアやボスニアのような国際法廷が必要だと思う。
国際人権組織「アムネスティ・インターナショナル」では全世界各国の人権状況をレポートしている。日本支部のサイトにも全世界の状況が掲載されている。そこの「朝鮮民主主義人民共和国」を見てみるとおおよそのことが判る。そこでは小項目として、「移動の自由」「海外派遣労働者の権利」「恣意的な逮捕と拘禁」「表現の自由」「強制失踪」などが挙げられている。
一番最後の「強制失踪」は日本などの拉致問題を指す。海外派遣労働者の問題などは、僕を含めてほとんど意識していないのではないか。しかし、なんといっても深刻なのは、12万人近くの人々が政治犯収容所に拘禁されていたということだろう。人権問題が存在しない天国のような国は世界のどこにもないけど、北朝鮮の人権状況は世界最悪レベルだ。政府が崩壊したり、テロリスト勢力が力を持っているために人権状況が悪化している国は他にもいろいろある。だが、北朝鮮では「政府がそれなりに有効に支配している」ことが問題なのである。
人権問題では、今までの歴史を見ると、大きな変動が起こるためには二つの前提がある。一つは「それが問題だと多くの人の共通認識がある」。もう一つは「人権が侵された被害者が外へ向かって声を挙げる」。例えば、「セクハラ」という問題は、ある時期までは「そういうものだ」と何となく思われていたが、「セクシャル・ハラスメント」という概念が出来ると、そうか、あの嫌な思いは「セクハラ」だったんだと自己認識できる。最近では「部活動での体罰」などもそう。そういうもんなんだと多くの人が何となく思っている場合には、それは問題として意識されない。
どんな問題も、最初に声を挙げておかしいと訴える人がいる。冤罪問題なども、無実の罪に問われた人が、「私は無実です」と訴えるところから救援運動が始まる。無実なんだったら、やってないというに決まってると思うかもしれない。でも今までの冤罪問題を見ると、無罪主張をしない人もいるのである。近年では「富山冤罪事件」などが代表。無実の人が有罪となり、服役して出所した後に、真犯人が現れ自白した。真犯人は有罪となり、冤罪の人は再審で無罪となった。
だけど、なんで裁判の段階で無罪の主張をしなかったのだろう。それは様々の原因が指摘されているが、警察も検察も真実の追及を怠り、脅迫的な取り調べを行い、もう誰も信じられなくなったということが大きいと思う。僕が70年代頃に世界の問題に関心を持った時に、韓国やソ連の政治犯の問題は大きく取り上げられていた。そのとき、中国や北朝鮮の政治犯は知らなかった。では、それらの国にはいないのかというと、実際は声を挙げられる状況にはなかったのだと今になれば判る。
中国は「改革開放」を経て外国との往来も相当に自由になり、今も情報統制は厳しいが、それでも自由を求めて闘っている人々の存在を知ることができた。でも、北朝鮮の場合はそのような「自由を求めて闘う人」(フリーダム・ファイター)の存在は知らない。今まで一人もいない。厳しい弾圧が自由な市民活動をまったく許さない段階にあると思われる。それでも少しづつ外国状況などは伝わるもので、中国の延辺朝鮮族自治州などを通して、ある程度韓国の情報も伝わっているかもしれない。
でも、「自国には問題がある」「正義を求めて声を挙げることで改善できる」という発想が許されない社会では、まず「世の中はそんなもの」と思う。問題設定そのものがないので、ではどうするという発想も出てこない。そういう「無実だけど、諦めてしまって無罪主張ができない」段階に、現在の北朝鮮社会はあると思われる。じゃあ、どうすればいいのか、僕にははっきり言って判らない。
政府に圧力をかければ解決できるという幻想は持てない。「止まない雨はない」と僕は信じているが、まだまだこの苦難は続くだろう。外部から戦争を仕掛けて政権を打倒すればいいと思う人もいるだろうが、それはさらなる悲劇をもたらすだけだ。日本人拉致被害者がどれだけ存在しているか、僕には全くわからないけど、そのような人々を含めて政治犯収容所は解放される前に「処置」されかねない。ぞれでも、と僕は思う。朝鮮労働党の様々な犯罪行為(拉致問題や金正男暗殺事件などを含め)は、やがて統一されたのちに「国際法廷」で裁かれるべきだと。カンボジアやボスニアのような国際法廷が必要だと思う。