尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「少女像」と慰安婦問題ー「言論の不自由展」再論③

2019年09月11日 23時31分13秒 | 社会(世の中の出来事)
 神奈川県の黒岩知事の発言を2回目に紹介したけど、この発言については次の9月3日の会見で「釈明・補足」をしている。(9月4日東京新聞朝刊。)それによると「検閲をして、自分の気に入らないものを全部、表現させないという思いは全くない。言葉が足りなかった。率直におわびしたい。」とある。ただし続けて「慰安婦像展示のために公金を出すのは県民が絶対に許してくれないと思う。」「私が論じたのは慰安婦問題。表現の自由の問題ではない。」と語ったと出ている。

 つまり、ここで判るのは「表現の不自由展・その後」の中止問題は「慰安婦問題」をどう考えるかの問題と密接に関連しているということだ。そういう見方が正しいというのではなく、反対派はそのように認識しているということだ。それはこの「少女像」が日本大使館前に設置されたり、その後あちこちに設置されてきた経過を知っていて、「反日運動のための政治的メッセージ」と認識しているからだろう。しかし、そのような「設置運動」を別にすれば、この像を「政治的メッセージ」のみの作品と見るのは難しいと考える。僕は写真でしか見ていないけど、どうしてそこまで熱く反応するのだろうか。

 ここで僕は「もう一つの少女像」の写真を載せておきたい。この少女像はなんだか判るだろうか。これは有名なもので、広島の平和記念公園にある「原爆の子の像」である。1958年5月5日に完成し、作者は菊池一雄という人。どういう人かは判らない。1955年11月8日に白血病で亡くなった佐々木禎子(ささき・さだこ)がモデルになっている。12歳9ヶ月で亡くなった少女を悼んで、広島の中学生から碑建設の声が上がり、広島の小中高を初め全国の学校から寄付金を集めて作られた。
(「原爆の子の像」全体像)
 この像はシアトルの平和公園にもあるとウィキペディアに出ている。しかし他のどこにもない。佐々木禎子は千羽鶴を折る運動のきっかけになった少女で、平和公園の像の前に千羽鶴を納めた人もいるだろう。広島に行くまでもなく各都道府県にあったらいい気がするが、何しろ50年代のことだ。さらに全世界、特に核保有国の首都に設置しようなんて発想は誰にも浮かばなかっただろう。海外旅行を普通の人が出来る時代じゃなかった。今からでも世界中で設置運動を起こしたい気もするが、アメリカじゃあ「反米運動」と言われてしまうかもしれない。しかし、そう思われたら多くの日本人が傷つくだろう。

 いま「慰安婦問題」を全体的に論じる準備がない。この問題もずいぶん研究が進化していて、新しい本がたくさん出ている。僕も全部ではないがいくつかは持っている。もちろん読む気で買ったわけだが、年齢とともに面倒感が増してきた。昔は「授業に役立てる」(誤解されないように勉強する意味も含めて)という意識で読んでたわけだろう。今は自分の知的好奇心だけだから、どうしても後回しになってしまう。しかし、慰安婦問題の全体構造を理解しないと何も言えないわけでもないと思う。

 「慰安婦問題」に関するいわゆる「吉田証言」の記事を朝日新聞が取り消して以来、そのことを鬼の首を取ったように得々と語る人がけっこういる。いかに「不勉強」かを示すものだが、デマゴギーをまき散らす人はいつもいる。「吉田証言」というのは、済州島から少女を慰安婦にするために強制連行したという吉田清治氏のかつての発言である。朝日だけでなく各紙が報じている。しかし、吉田氏は軍人でも警官でもなかった。公務員でさえない。下関の労務報国会としてということだった。僕も吉田氏の記事を切り抜いて、探せば多分今も持っていると思うが、授業で使ったことはない。慰安婦問題を取り上げる時でも、特に使う必要はないのである。

 なんだか「世界は吉田氏の証言で慰安婦問題を知った」かのように語る人がいる。多分当時全然関心がなかったんだろう。あれだけ大問題だっただから、それなりの地位にいる人はちゃんと理解しているかと思えば、そんなことはないのである。当時も「吉田証言」などは「そういう人もいる」程度の記事だったと思う。(ただし「良心的な奇特な日本人がいる」というニュアンスではあっただろう。)「強制連行」だったら、インドネシアなどではっきりした証拠があるケースがあるのである。

 問題の「少女像」が「強制連行される少女像」だったら、それは確かに「朝鮮半島ではそのようなケースはなかったんじゃないか」という疑問を呼ぶだろう。僕も恐らく「直接的な強制連行」は朝鮮ではなかったんだろうと思っている。当時の朝鮮は植民地であって、「内地」ではないとしても軍政下にある占領地ではない。しかし、「欺瞞」「詐欺」に当たるようなケースは、証言を見ても、あるいは常識で考えても多かっただろう。何度も書いているが、日本政府は自分の意思で「北朝鮮」に渡った後で帰国できない状態が続いている人も「拉致被害者」と認定している。ダブルスタンダードになってはいけない。
(少女像)
 今回の少女像は、僕には「イノセンス」(無垢)に過ぎる感じがする。現実に証言を聞いた元慰安婦の人々は、様々な苦難を超えてきたサバイバーだから、もっと「ヴァイタリティ」を感じたものだ。どんな人間も生まれたときにさかのぼれば皆がイノセントなんだから、まあ、それを本質として描く意味もあるかもしれない。この少女像は以前書いた「同化」「異化」という概念で言えば、「同化」である。見た者に鋭く突き刺さる純粋芸術(ファインアート)ではなく、韓国ナショナリズムに受容されやすい「大衆芸術」である。ハチ公初め街頭の彫像も大方同じである。

 そのような理解の下では、この少女像を単なる「政治的メッセージ」だととらえる人は、表層の政治運動に引きずられすぎだと思う。この少女像は現実の苦難を象徴的に表したもので、「反日」ではなく、「戦時性暴力」の象徴だという作者のとらえ方でいいと考える。もちろん作家が込めた意味が、現実世界で変容していくことはよくあることだ。だからこそ、議論が大切なのである。この少女像で「おとしめられた」などと平然と語る「ヤワな自我」にも困ったもんだと思う。

 アメリカ人が「原爆」を、中国人が「文化大革命」や「天安門事件」を直視できないように、日本人の中に自国の暗部を直視出来ない人がいる。それは世界中で「よくあること」だろうが。(なお、一応書いておくけど、少女像が「反日運動のメッセージ」だとしても、だから排除するべきだとはならない。)
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「税金を使っちゃダメ」論の本質ー「表現の不自由展」再論②

2019年09月10日 22時39分16秒 | 社会(世の中の出来事)
 僕が改めて「表現の不自由展・その後」中止問題を書こうと思ったきっかけは、8月28日付東京新聞に報道された黒岩神奈川県知事の発言だった。21日の定例記者会館で以下のように語ったと出ている。慰安婦少女像に関して「極めて明確な政治的メッセージがある。それを税金を使って後押しするのは、表現の自由より、政治的メッセージを後押しすることになる。県民の理解を得られない。」
(記者会見で語る黒岩知事)
 黒岩知事はこういうことを語る人なのか。穏当そうな感じだから、もっと本質を理解しているのかと思っていたのである。名古屋市の河村たかし市長は、もともと「暴言系」なので(内容はとんでもないけど)中止要求発言そのものには驚かなかったけれど。だがNHKの「クローズアップ現代+」を見ていても、この「税金を使っちゃダメ」論が根強いように思う。一体どうすれば、そういう発想に至るのだろうか。

 世界中にはたくさんのアートフェスティバルがある。「あいちトリエンナーレ」のような公募型の美術展も世界各地にある。他にも映画祭、演劇祭、音楽祭などがいっぱいある。そういう芸術祭はなかなか経済的に自立することは難しく、芸術振興、経済効果、知名度向上などをスローガンにして地元自治体などの補助金を得ることが多い。しかし実際の運営は実行委員会などが担い、行政当局は口を出さないのが通例だろう。一体、どこの国に「カネを出すから口も出す」市長なんかいるだろう。日本はとんでもない文化後進国だと世界に知らしめた。(「日本をおとしめた」のは河村氏自身である。)
(黒岩知事発言に抗議する人々)
 今まで似たケースがあったのかと思い出すと、2014年の釜山映画祭があった。セウォル号事故でのパク・クネ政権の対応を批判したドキュメンタリー映画「ダイビング・ベル」の上映をめぐり、映画祭側と釜山市が対立したのである。結局「強行上映」されたものの、その後運営委員長が更迭され、翌年の予算が減額されるなどした。(なお、この映画には遺族からの一方的見方であるとの上映反対もあった。)このように金を出す行政当局側が「嫌がらせ」をすることはあるわけである。しかし、このケースだって「税金で政権批判映画を上映してはダメ」などという議論はなかったと思う。

 美術展では賞を出さないことが多いが、映画祭などは「コンペティション」部門があるのが普通だ。しかし賞を決めるのは独立した審査員の仕事だ。カンヌやヴェネツィアなどはコンペ部門に選出されるだけでも名誉とされる。だけど、選出されたことが、行政当局が作品を「後押し」していると考える人なんかいないだろう。芸術祭には普通いくつもの様々な部門がある。今回も「こういうのもやってますよ」的な一部門である。確かに公立美術館で開催されるけど、それは「場所貸し」に過ぎない。無料で公開して「多くの人が見てください」と行政が呼びかけているわけでもない。何が「後押し」なんだろう

 例えていえば、こういうこと。公立の自然博物館では、「害虫展」みたいな企画をやってはいけないのか。人も嫌がるハエや蚊やゴキブリなんかの生態を解説展示したりすると、「税金を使って、害虫の存在を肯定することになる」とか言うんだろうか。いや、マジメな話、公立の施設でゴキブリの展示など許せないなんて電話する人がいそうである。しかし「負の存在」を見つめることは、人間世界を理解するために有益なはずだ。自然科学でも、歴史でも、アートでも同じだ。

 今回は初めから「表現の不自由展」と題している。どんな優れたアートでも、どこかでもめて展示拒否されたりしてないと出品の対象にならない。だから「表現の不自由展」に出ているということは、政治的だろうが何だろうが「メッセージを後押しする」ことにはならない。これらのアート作品群は、何らかの意味で「もめた作品ですよ」という認定をしているだけだ。それは常識ある人なら、当然判っていて然るべきことだ。それが有力な政治家たちが判らないのである。

 昨年ベストセラーになった「AI vs.教科書が読めない子どもたち」という本があったが、もともと大人も論理的理解力が乏しかったのだろう。反対者がいてもめたから、多くの人が見られない状態になってるアート群。それらを一堂に集めるというのは、「実際に見てみましょうよ」ということ以外にないだろう。少しでも「知的好奇心」がある人なら、じゃあ実際に見て自分の目で確かめてみようかとなるはずじゃないのか。そうすると「中止」を求めるというのは、つまり「自分で考えること」への弾圧になる。

 そうか、政治家たちは人々が自分の目で感じ、考えることを嫌うのか。何事もお上が決めたことに従えということか。市長は自分の目で見て「中止せよ」と迫った。他の人は見ちゃダメなのである。他の人も見て一緒に議論しようとは言わなかった。市長の一言は「水戸黄門の印籠」なんだろう。
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少数者の自由、香港とあいちトリエンナーレー「表現の不自由展」再論①

2019年09月09日 22時27分43秒 |  〃  (国際問題)
 「あいちトリエンナーレ」における「表現の不自由展・その後」の公開中止問題は、今まで何回か書いている。しかし、相変わらず「解決」の兆しがないうえに、不十分な理解をしている政治家が多い。別に僕が書く意味もないかと思っていたような一般論も、やっぱり書いておこうと思った。(数回連続)

 まず確認すべきことは、「何よりも自由が大事だ」ということである。いや、自由より大事なものがある、空気とかお金だなどと混ぜ返してはいけない。「サービス残業」も「子どもの虐待」も、「自由」が保証されない場所で起きる。「自由」なき場所にいる人は「自由の大切さ」が実感できない

 もう日本人のかなりの部分は「自由」が実感できないだろうと思う。自分の自由を大切にしたい人なら、他の人が自由を求めているときに自分の自由をすこしぐらいガマンするだろう。「ストライキ」の場合などである。ストをしている人に「迷惑だ」などという反応があるんだから、日本では自由を大切にしない人が多いのかもしれない。一度「自由」がなくなってしまうと、それが常態という中で次の世代が育つから、自分が自由なき世界に生きていることさえ判らなくなる

 「自由」を考えるときに大事なことは、「少数者の自由」である。世の中の「多数派」に自由が保障されているのは当たり前である。問題は多数派に迫害されかねない「少数派の自由が保障されているか」の方である。日本では「香港情勢」を気にする人がかなりいる。その香港の大反対運動のきっかけは「逃亡犯条例」の改正案だった。容疑者の身柄引き渡し手続きを簡略化し、中国大陸やマカオ、台湾にも容疑者を引き渡せるようにするものだ。つまり、香港で普通に生活してる分には影響しない。しかし、(当局側の対応のまずさもあって)大きな反対運動に広がったのである。
(香港の自由を求めるデモ隊)
 それは何故だろうか。香港の人々の多くが、この問題を「香港の自由」を保証する「一国二制度」をないがしろにされてゆく「岐路」だと感じたからだろう。経済に影響があっても、「自由」の方が優先すると覚悟している人がかなりいると思われる。「香港の自由を守るために日本は何をすべきか」などという人がいる。それははっきりしているだろう。「日本人は日本の自由のために闘う」ということしかない。日本の抱える問題に声を挙げない人が外国の問題を論じても説得力がない。

 かつて日本が戦争に向かうときに、まず共産主義者や社会主義者を取り締まった。国民の多くは自分は関係ないと思っていた。次にキリスト教や新興宗教が狙われた。その時も国民の多くは自分は関係ないと思っていた。そして自由主義者の言論も制限されてしまい、公然と反戦を訴え、軍部を批判することさえ出来なくなった。その結果、内外に想像も出来ない(一千万人を超える)死者を出すことになってしまった。「自分とは関係ない」と思う「少数者」の声こそ守らなければいけない。それが教訓だ。

 「言論の不自由展」というのは、今までどこかで「問題化」した作品を集めている。本来はその問題化した時点で闘わないといけなかった。しかし、それらは報道が小さかったり、知った時には「排除」されてしまっていたりした。それぞれに保守派政治家の関与もあったけど、美術館が「自粛」してしまったりして問題が広がらなかった。今回はかつてなく「有力政治家」が公然と自分が反対する「表現」の展示に「中止」を迫った。これほどのケースは日本国憲法下で記憶にないと思う。これを問題にしないで、他に何を論じるのか。僕にはそう思えるけど、問題を理解してない人がまだ多い気がする。
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タランティーノの新作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」

2019年09月08日 21時03分57秒 |  〃  (新作外国映画)
 クエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino、1963~)監督の10本目の長編映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(Once Upon a Time in Hollywood)が公開されている。名前で客を呼べる数少ないアメリカの映画監督だが、近年の作品は(従来にも増して)残虐描写が多かったので、ここでは書かなかった。今回はまあラストなど、やっぱりと思うんだけど、それより1969年のハリウッドを再現することに力を注いでいる。いつも映画ファンにうれしい映画を作ってきたが、今回は特段に映画への偏愛に満ちている。映画マニア向けとも言えるが、興味深い映画には違いない。

 映画の紹介文をコピーすると、こんな感じ。「リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)は人気のピークを過ぎたTV俳優。映画スター転身を目指し焦る日々が続いていた。そんなリックを支えるクリフ・ブース(ブラッド・ピット)はスタントマンかつ親友でもある。目まぐるしく変化するハリウッドで生き抜くことに精神をすり減らしているリックとは対照的に、いつも自分らしさを失わないクリフ。パーフェクトな友情で結ばれた二人だったが、時代は大きな転換期を迎えようとしていた。そんなある日、リックの隣に時代の寵児ロマン・ポランスキー監督と新進の女優シャロン・テートマーゴット・ロビー)夫妻が越してくる。

 「レオ様」「ブラピ」2大スター共演映画と思って来てるような人もいたようだが、「ポランスキー」と「シャロン・テート」の名前を聞いて、その後に起きることを知ってる人じゃないと、判らない。映画の作り自体は、「イングロリアス・バスターズ」みたいな「歴史改変もの」になっている。第二次大戦のような、多くの人にとってもう「歴史」と認識される時点ならともかく、多くの人が記憶している50年前に現実を「改変」してもいいのか。しかし、そこにこそ「こうあって欲しかった」祈りのようなものが伝わってくる。
(来日したタランティーノとディカプリオ)
 この映画は今年のカンヌで評判になったけど無冠に終わった。僕もまあ評価としては同じようなものになる。面白いけど長すぎるし、映画界内幕ものに偏っている。大体、映画作りの一番の情熱は「1969年の再現」に向けられている感じだ。僕は当時のアメリカの車なんて知らないけど、見れば全部昔の車を集めているなとは判る。車のラジオからは当時のヒット曲が流れ続ける。(数曲しか思い出せなかった。)リック・ダルトンのテレビドラマが作中に出てくるが、もちろん白黒である。1963年生まれのタランティーノが覚えているはずもないわけだが、何故か全体に懐かしい。

 落ち目のリック・ダルトンとスタントマンのクリフ・ブースの関係も興味深い。ダルトンは人気に陰りが出て悪役が多くなっている。アル中になって免許も取り消されたので、最近は毎日クリフの車に乗っている。だから単にスタントマンというより、付き人であり友人でもある。しかしながら、このクリフは噂では妻を殺したとかで、今はブレンディという大きな犬と暮らしている。犬種はピットブルという闘犬用の犬だという。(この犬でカンヌのパルムドッグ賞を受けた。昨年は「ドッグマン」が受賞したジョークの賞。)リックはイタリアの西部劇なんて出るもんかと言ってたけど、結局は出演して若い妻を伴って帰国する。

 さて問題のシャロン・テート。ポーランド出身の監督ロマン・ポランスキー(1933~)は、傑作「水の中のナイフ」が評判になって外国で製作が可能になった。「反撥」「袋小路」「吸血鬼」と作って、「吸血鬼」に出演していたシャロン・テート(1943~1969)と1968年1月に結婚した。1968年6月にはハリウッドで作った傑作ホラー「ローズマリーの赤ちゃん」が大ヒットして、一躍注目されるようになった。だから映画内でリックも、今一番注目の監督と女優の夫婦が隣にやってきたと語っているのである。
(映画の中のシャロン・テート)
 シャロン・テートを演じているのは、マーゴット・ロビー。アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた「アイ、トーニャ」でフィギュアスケーターのトーニャ・ハーディングを演じた人。もともと「PAN AM/パンナム」というテレビドラマで人気が出たという。航空会社のパンナムは、映画内にもなんども出てくる。昔を知ってる人なら懐かしい。その後、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」でレオナルド・ディカプリオの妻役に抜てきされた。「アイ、トーニャ」の下品さは今回は微塵もなくて、写真で見る限りすごく似ている。自分が出ている映画を見に行く夢のようなシーンが忘れがたい。
(実際のポランスキー夫妻)
 現実世界では、1969年8月9日、シャロン・テートは家に押し入った狂信的カルト集団チャールズ・マンソン一味に殺害された。妊娠8ヶ月だった。同時に他の3人も殺されている。60年代のアメリカでは政治的暗殺が相次いだが、この事件は「カルト集団による犯行」という意味で来たるべき時代を予告する犯罪だった。ポランスキーは海外にいて事件に会わなかった。シャロン・テートが散歩中に古書店により、ハーディの「テス」の初版を求めるシーンは泣ける。ポランスキーが10年後に作った「テス」は最高傑作だと思う。ところで「歴史改変もの」であるこの映画では事件がどう描かれるかは、見てのお楽しみ。
コメント (1)
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トニ・モリスン、ピーター・フォンダ、池内紀等ー2019年8月の訃報

2019年09月06日 23時07分12秒 | 追悼
 2019年8月の訃報は、簡単に書きたい。いつもそう言いながら長くなるんだけど、今回は本当に簡単になりそう。アメリカのノーベル賞作家、トニ・モリスン(1931~2019.8.5、88歳)は、先に書いたようにこの機会に小説を読んで感想を別に書きたい。詳細はそっちで書くことにする。長いことプリンストン大学に勤務し、1993年のノーベル賞受賞時もそうだった。同時期に村上春樹がプリンストンにいて、ちょうど「ねじまき鳥クロニクル」を書いていた。エッセイにトニ・モリスンの姿が描かれている。
(トニ・モリスン)
 俳優のピーター・フォンダ(1940~2019.8.16、79歳)が亡くなった。もう「イージーライダー」の思い出に尽きる。1970年に半年以上のロードショーとなった有楽町スバル座が秋に閉館する。その記念上映に「イージーライダー」の名前も入っているから、見直してみたい。もっとも僕には「さすらいのカウボーイ」(1971)という「青春の終わり」みたいな映画の感銘も深かった。いろいろ浮き沈みのあった人生だが、ヘンリー・フォンダの子どもたちは苦労したということだ。その次はジェーンの弟と言われた。
 (イージーライダー)
 アメリカの社会学者、歴史学者で「世界システム論」を提唱したイマニュエル・ウォーラーステイン(1930~2019.8.31、88歳)が死去。まあ、そういう論が存在することは知っていたけど、読んだことはない。大航海時代以後の歴史を「世界全体が政治経済・社会的差異をこえて機能する一つのシステム」ととらえるという考え方である。フランスの「アナール派」の影響があって成立した歴史学。
(ウォーラーステイン)
 1964年の東京五輪マラソン銀メダリストベイジル・ヒートリーが死去。85歳。よく知られているように、この時はエチオピアのアベベ・ビキラが独走してローマに続く連続金メダルだった。2位は国立競技場に入ってくるまで日本の円谷幸吉だった。そして最後の最後にヒートリーに抜かれた。僕はそのシーンをテレビで見ていたのを覚えている。この劇的な逆転、そして円谷の悲劇的な生涯は幼い僕の心に深く刻まれている。ヒートリーは来年もう一回東京に来たかったらしいがかなわなかった。
 (ヒートリー)
 日本人の訃報で大きなものは少ないなと思っていたら、9月になってドイツ文学者の池内紀(いけうち・おさむ、1940~2019.8.30、78歳)の訃報が伝えられた。僕はこの人の本を特にたくさん読んできたわけでもないが、翻訳や編著が多いから名前にはずいぶん昔から接している。山の話で大雪山縦走の話を書いたけど、その時山の上まで持って行って読んでた本が、池内訳の岩波文庫「カフカ短編集」だった。ドイツ文学者といっても、まあ「ファウスト」も訳してはいるけど、多いのはウィーンの作家が多い。日本のウィーンブーム、ハプスブルク家への関心などは池内氏の影響が大きい。ちくま文庫の「ちくま文学の森」とか「温泉百話」など愛読した。このような雑学的趣味人タイプとして存在感があった。

・詩人の長谷川龍生が死去。8月20日、91歳。「新日本文学」系の詩人で、戦後詩を代表する一人。
・元ヤオハン会長の和田一夫が死去。8月19日、90歳。静岡の「八百半」をアジアのヤオハンにしたが、97年に倒産した。
・箏(そう)の奏者で文化功労者の野坂操寿が死去。8月27日、81歳。ジャズやクラシックとも共演した。知らなかったけど。
・直木賞作家の佐藤雅美(まさよし)が死去。7月29日だった。78歳。1993年の「恵比寿屋喜兵衛手控え」で直木賞受賞。これは江戸の訴訟事情を詳しく描いて興味深かった。人気シリーズもいくつかある時代作家で、つい数年前まで活躍していた。元々フリーライターで、1985年に出た最初の本、「大君の通貨」は歴史ノンフィクションとして非常に面白かった。
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また奥日光へ、夏が終わる2019年9月の旅行

2019年09月05日 23時21分47秒 | 旅行(日光)
 そろそろどこかへ行きたい。9月になって安いプランで、また奥日光。宿はいつもの休暇村日光湯元である。同じところばかり行ってるから、特にもう書くこともないけど、備忘のために書き残す。東京は蒸し暑かったが、一日だけ涼しくなった。それが旅行に出かける9月4日だから、何だよという感じ。

 僕はこの時期によく奥日光へ行ってる。以前、8月終わり頃に「森のコンサート」という、ホテルのロビーで気楽に聞けるコンサートがあってずいぶん行った。秋になりきる前の、夏の避暑地のきらめきが去って行くムードが好きなのである。レンタカーで行ったんだけど、一日目の中禅寺湖あたりは濃霧で全く見えない。そこらへんの写真を最初に載せても何だから、後に回したい。二日目は曇りがちながら安定していた。戦場ヶ原の赤沼車庫から「低公害バス」に乗って、「西ノ湖入り口」で降りて西ノ湖(さいのこ)まで歩いた。西ノ湖は久しぶりで、今回はすごく水が多かった。
   
 西ノ湖への道はすごく気持ちがいい。落葉松(からまつ)の林が続き、15分ぐらい歩くと吊り橋に出る。ほとんどフラットな道だから、楽しい気持ちで「いいなあ」と思って歩く。ところで、今回は「テープを巻いた木」が多かった。鹿の食害防止だという。説明文を見ると、トウモロコシから作られた自然に戻るテープだという。それでも皮の部分を食べられた木がかなりある。こういう対策のためか、昔はこの付近でよく見た鹿も最近は見なくなった。糞や足跡はあるから、水飲みには来てると思うが。
   
(上の写真、2枚目が説明、3枚目にテープの林、4枚目に食害の様子)
 1日目、いろは坂から中禅寺湖は全く霧の中だった。霧を抜けるかと思って、湖南岸を上る無料の中禅寺湖道路を登ってみた。全く何も見えないのに驚き。戦場ヶ原まで進むと何とか雲が取れてきた。三本松園地のあたりで、男体山も見えてきた。4枚目、戦場ヶ原も何とか見える感じ。
   
 もうそのまま湯元温泉に着いちゃったので、あまりに早い。何もしてないので、せめて湯ノ湖の周りを歩こうかとなった。(いつもと同じく妻と一緒。)やっぱり気持ちいいな。コケがきれい。湖に温泉が湧いてるあたりは少し暑い。釣りをしている人が多いけど、少し歩くと(車道すぐなのに)静かな散歩道になる。
   
 最後に食べたもの。一日目は道が空いてて日光宇都宮道路を快調に進み、終点から戻って、金谷ホテル歴史館カテッジイン野菜カレーを「百年カレー」だと思い込んでいたが、実は違うんだと後で気づいた。でもカレーも、セットのアイスクリームも美味しい。続いて休暇村でいつか食べたかった「日光天然氷のかき氷」を。最近話題なので一度は食べたかった。最初の写真が出てきたままで、次がスカイベリー(いちご)のシロップと練乳を掛けた状態。この練乳が写真的には映えない。後で見たら、宣伝用の写真はイチゴしか掛かってない。でもこのかき氷は素晴らしく美味い。氷という感じではなく、スイーツとして通用する。そして基本は水なんだからケーキより低カロリー。
  
 宿の夕食はすき焼き。最近よく頼む「天鷹」一合を頼んだら、ロビーでやってたビジターセンター職員による自然ガイドで寝込んでしまった。二日目はいろは坂を降りて、鈴木食堂でピザを食べた。日光駅と神橋の中間あたり、「御幸町」(ごこうまち)信号のところにある「伊中和」と書いてある不思議な食堂である。けっこう有名になって、メニューが複雑化している。何を頼んだらいいのか迷うが、元はイタリアン。でもラーメンが実は美味しい。その後、小杉放菴記念日光美術館で「木版画で旅するにっぽんの風景―吉田博と川瀬巴水を中心に―」を見て帰った。
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「青い眼がほしい」と「スーラ」ートニ・モリスンを読む①

2019年09月03日 23時01分57秒 | 〃 (外国文学)
 8月にトニ・モリスンが亡くなった。(Toni Morrison、1931~2019) 1993年にノーベル文学賞を受賞したアメリカのアフリカ系女性作家である。アメリカの文学者の中で、アフリカ系としても、女性としても唯一のノーベル賞作家だった。僕は文庫で6作品も持っているけど、一冊も読んでなかった。他にも読み途中の作家がいるんだけど、この機会にトニ・モリスンを読もうと思った。最初の2冊の報告。

 トニ・モリスンはまずは大学教員だった。いわゆる「黒人大学」として知られたワシントンのハワード大学に学び、コーネル大学で英文学の学位を取って、テキサスの大学で教えていた。そういう研究者の生活が変わったのは、1962年のこと。学生に勧める文学作品は何かと皆で話していて、選ぶべきものが思い浮かばず、それなら自分で書けばと言われた。それが作家になったきっかけだという。編集者に転じて、1970年に最初の作品「青い眼がほしい」(The Bluest Eye)が刊行された。これはある種「衝撃の書」なんだけど、必ずしも読みやすいとは言えない。

 裏表紙の紹介文を読むと、「誰よりも青い眼にしてください、と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたら、みんなが私を愛してくれるかもしれないから。白い肌やブロンドの髪の毛、そして青い眼。美や人間の価値は白人の世界にのみ見出され、そこに属さない黒人には存在意義すら認められない。自らの価値に気づかず、無邪気にあこがれを抱くだけのピコーラに悲劇は起きた。」

 まあ、そういう話なんだけれど、これではピコーラの悲劇だけを描いているのかと思う。実際は様々なテクストが重層的に語られ、初めは一体何なのかよく判らない。実は語り手はピコーラじゃなくて、近所に住む別の少女なのだ。では少女の話かと思うと、父親や別の人物の話も始まる。そういう小説もありなんだけど、読んでてどうもよく判らない。案外「読みにくい小説」なのに驚いた。題名が素朴なので、もっとストレートな物語かと思うと全然違った。はっきり言ってしまえば、ここではまだトニ・モリスンは自分の「語り」を見つけていない
 
 だけど、この小説は重要である。「黒人文学」が「悲劇」や「英雄譚」に止まらず、悲劇のヒロインばかりではなく、「悪」をもたらした人物の内面にも入っていくのである。この小説には多くの人が出てくるが、「否定的人物」も多く語られる。そのような「黒人女性」の存在を描くには、新しい重層的な語りでなければならない。そういった著者の思いを感じる。そこでは「白人対黒人」ではなく、黒人内部での抑圧が描かれる。「ブラック・イズ・ビューティフル」を唱えた時代だが、ここでは「黒人の眼から見ても美しくない少女」という今まで誰も書き得なかったテーマが提出された。

 続く第2作「スーラ」(1973、Sula)は、さすがにずいぶんうまくなっている。こっちの方が小説的にはずっとうまくて面白いと思う。オハイオ州メダリオンなる架空の都市に「ボトム」という黒人地区があった。白人は町の低地に住み、黒人たちは山の上に追いやられた。てっぺんなのに「ボトム」(底)と皮肉に呼ばれた町。今はなきこの町の盛衰を、親友ネルスーラの30年以上の物語として語る。スーラは奔放で、驚くような家庭環境にある。二人で犯した罪が結びつけた絆だったが、ネルの結婚式の日にスーラは消える。そして、10年、再開した二人の起きた悲劇は。

 「女たちの友情と崩壊」というテーマは、それまであまり語られていなかったと著者は言う。言われてみればそうかもしれない。物語の大部分は「男と女」であり、女性作家にしか描けない「女友達」はあまり描かれない。今となっては「女縁」という言葉もあるし、女たちのネットワークなしには社会は理解できない。それは常識になっているが、「スーラ」を書いた70年代初期には、トニ・モリスンの先駆的な試みだった。しかも、1919年から1965年までのメダリオンを物語る架空の年代誌として深い感銘を与える。

 トニ・モリスンの特徴には、叙情性幻想性説話性重層性などがあると後書きに出ている。まさにその通りで、神話的な世界に魅せられる。ここでも重層的な語りが、ちょっと理解を難しくしているところもある。スーラの祖母のエヴァのとてもない凄さが印象的。「スーラ」を通して描かれる、居場所のない感覚が今になってこそ新しい。風が吹き抜けるような読後感の傑作だ。
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「ディリリとパリの時間旅行」、自由と美のアニメ映画

2019年09月02日 22時26分47秒 |  〃  (新作外国映画)
 見ている映画を全部書いてるわけじゃなくて、最近じゃレバノン映画「存在のない子供たち」やヴィム・ヴェンダースの新作「世界の果ての鼓動」を書いてない。前者は子どものネグレクトやレバノンの外国人問題など、重い問題を描いた問題作で、子役の存在感がすごい。後者は映像が素晴らしいが、どうも内容に疑問もあった。フランスのアニメ映画「ディリリとパリの時間旅行」は、近くの映画館でやってる市川雷蔵主演の「鯉名の銀平」を見ようと思って、時間の都合で見た。そうしたら、雷蔵の映画は前に見ていたのを忘れていた。でも、「ディリリ」が素晴らしかったのである。世の中そういうことがある。

 ウッディ・アレンに「ミッドナイト・イン・パリ」という映画があった。アメリカ人がなぜかタイムスリップして、20年代のパリに迷い込むという話である。まあアメリカ人としては、ヘミングウェイなんかがいる時代じゃないと受けない。この「ディリリとパリの時間旅行」はそのアニメ版かと思ったら、時代はもっと前の「ベル・エポック」だった。別にタイムスリップするわけじゃなく、20世紀初頭のパリで「ロケ」したような映画。アニメだから出来る。とにかくものすごく映像が美しい。うっとりするぐらい美しい。

 何というロマンティックノスタルジックな映画だろう。だが、この映画は決してそれだけではない。冒頭で「未開人の村」のような様子が描かれるが、カメラが引いていくとそこはパリの一角。見世物に連れてこられていたカナック人(ニューカレドニア)だったのである。ディリリはその中の一人の女児だが、現地で教育を受けフランス語もペラペラの「淑女」である。両親のどちらかがフランス人で、そのためニューカレドニアでは「顔が白い」と差別される。だがパリでは「黒い」と差別されると訴える。
 
 そんなディリリを町に連れ出して友だちになったのが配達人の青年オレル。二人でパリを回るうちに、謎の少女誘拐事件の噂を聞く。追跡するうちに、「男性支配団」なる怪組織に狙われる。ムーラン・ルージュやオペラ座を駆けめぐり、謎を追う「少年少女探偵団」。ついにディリリも敵の手に落ちるが…。当時のパリに生きる多くの有名人がいっぱい出てくるのも楽しい。パスツールキュリー夫人、画家のロートレックルノワールドガ、作曲家のドビュッシーエリック・サティ、作家のプルースト、女優のサラ・ベルナールなどなど綺羅星のごとき名前が続々と登場する。
(左がキュリー夫人、中がサラ・ベルナール)
 最後は飛行船を使った大救出作戦となり、エッフェル塔に住むエッフェルが協力する。えっ、エッフェルはエッフェル塔に住んでたの? ウィキペディアを見たら、エッフェルは1832年に生まれ、1923年に亡くなった。エッフェル塔は革命百年の1889年に建てられた。その後、パナマ運河をめぐる疑獄事件に巻き込まれたが最高裁で無罪となった。20世紀になると、エッフェル塔4階にサロンを設け、気象や天文、通信技術などの研究を送ったと出ていた。20世紀初頭に、実際にエッフェルはエッフェル塔にいた!

 監督はミッシェル・オスロ。1998年に「キリクと魔女」を作った人。「文明と未開」や「フェミニズム」といったテーマが大きく扱われているのは、今では子ども向けアニメでも必要なんだろうが、オスロ監督には一貫したものがある。それでも、フランスとパリへの愛に満ちている。こんな美しくて懐かしい、そして大冒険が語られることにうらやましい思いを感じる。とにかくすごく美しいので一見の価値がある。
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西東三鬼の超面白本「神戸・続神戸」

2019年09月01日 22時53分18秒 | 本 (日本文学)
 社会的なテーマや映画などを置いて、どうしても紹介しておきたい面白本。西東三鬼(さいとう・さんき)の「神戸・続神戸」が6月末に新潮文庫で刊行された。僕は前に読んでたけど、もう一回読みたいから買った。本文だけなら180頁程度、430円という値段だから、買うかどうか悩むほどじゃない。日本文学史上、屈指の面白本だが、一種の「奇書」でもある。再読して、多少今では問題を感じた描写もあったけれど、自由な風が吹き抜ける読後感は今でも素晴らしい。

 西東三鬼(1900~1962)は、昭和期の著名な俳人。訳あって戦時中を神戸に過ごした時の回想が「神戸」で1954~56年に「俳句」誌に掲載された。好評で「続神戸」が書かれ、「神戸・続神戸・俳愚伝」として没後の1975年に刊行された。1977年に早坂暁脚本、小林桂樹主演でNHKのドラマになり、その時に「冬の桃」(1977)として再刊された。僕が読んだのはその本。その後、書名を元に戻して2000年に講談社文芸文庫に入り、今度は「俳愚伝」をカットして改めて刊行された。今回は作家の森見登美彦氏が「発見」したようで、長い解説が付いている。

 西東三鬼、本名斎藤敬直は岡山県津山の生まれで、元々は歯医者である。兄のいた東京で資格を取り、卒業後は兄がいたシンガポールに渡った。もともと歯医者は生きる糧で、自由・放浪の気質なのである。帰国して、歯科医のかたわら、患者の勧めで33歳で初めて俳句を始めた。無季の新興俳句運動に共鳴し、あちこちの句誌に投稿をし、やがて「京大俳句」を中心に戦争をテーマにした句を多く作った。1938年には結核で危篤になるが奇跡的に回復し、それをきっかけに歯医者をやめて商社に務めた。そして1940年に「京大俳句事件」と呼ばれる新興俳句弾圧に巻き込まれ起訴猶予となった。
(西東三鬼)
 そんな人生上の屈託を抱えて、1942年に商社を辞め妻子も置いて、単身神戸に移り住んだ。本人の書くところでは、「東京の何もかもから脱走」である。住むところもないけれど、東京の経験ではバーに行けばバーの女の住むアパートが見つかる。これはと思う女を見つけて三宮のバーに行き着き、「奇妙なホテル」が見つかった。そしてそこは奇天烈な人々が住み着いた不思議な空間だった。森見氏の解説から引用すると、「エジプトのホラ男爵ことマジット・エルバ氏」「純情にして奔放な娼婦・波子」「比類なき掃除好きの台湾人、基隆」「お大師様を信仰する広東人・王」「風来坊の冒険家・白井氏」等々で、国籍性別を超越した奇人変人の巣窟である。

 淡々と語られるが、一人一人のエピソードが長編小説になりそうな濃密さ。「死と隣り合わせの祝祭」だった日々。神戸にはドイツの潜水艦の水兵がいて、ホテルの女性目当てに男たちが訪れてくる。もう米海軍が制海権を持っていて、日本に寄港したまま帰れないのである。そんなことがあったんだ。戦時下に貴重な黒パンや缶詰を持ってドイツ人がやってくる。しかし、やがて神戸も空襲されるであろう。予感した三鬼は神戸の外れに洋館を見つけ、そこに移り住んだ。思い出のホテルはやはり焼けてしまう。そして戦後の話が「続神戸」で語られる。米軍占領下の神戸も興味深いけど、やはり「滅びの予感」とともに奇人たちが助け合った「神戸」の方が面白い。

 「神戸・続神戸」では、港町神戸の最底辺に生きる内外人が分け隔てなく描かれている。「自由こそ最高の生甲斐」(「続神戸」前説)と考える著者の真骨頂である。まさに「自由を我等に」(ルネ・クレール監督の1931年作品)である。いろいろとあったにせよ、著者が戦時下の東京にはいられずに、神戸へ「脱走」したのは「運命」だっただろう。そして、この美しき奇書が生まれた。もうすぐ運命が彼らを飲み込んでしまう前に、愛すべき哀しき奇人たちと宴をともにせん。無類の面白本で、知らない人もいるだろうから書いておきたくなったわけ。
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