8月にトニ・モリスンが亡くなった。(Toni Morrison、1931~2019) 1993年にノーベル文学賞を受賞したアメリカのアフリカ系女性作家である。アメリカの文学者の中で、アフリカ系としても、女性としても唯一のノーベル賞作家だった。僕は文庫で6作品も持っているけど、一冊も読んでなかった。他にも読み途中の作家がいるんだけど、この機会にトニ・モリスンを読もうと思った。最初の2冊の報告。
トニ・モリスンはまずは大学教員だった。いわゆる「黒人大学」として知られたワシントンのハワード大学に学び、コーネル大学で英文学の学位を取って、テキサスの大学で教えていた。そういう研究者の生活が変わったのは、1962年のこと。学生に勧める文学作品は何かと皆で話していて、選ぶべきものが思い浮かばず、それなら自分で書けばと言われた。それが作家になったきっかけだという。編集者に転じて、1970年に最初の作品「青い眼がほしい」(The Bluest Eye)が刊行された。これはある種「衝撃の書」なんだけど、必ずしも読みやすいとは言えない。
裏表紙の紹介文を読むと、「誰よりも青い眼にしてください、と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたら、みんなが私を愛してくれるかもしれないから。白い肌やブロンドの髪の毛、そして青い眼。美や人間の価値は白人の世界にのみ見出され、そこに属さない黒人には存在意義すら認められない。自らの価値に気づかず、無邪気にあこがれを抱くだけのピコーラに悲劇は起きた。」
まあ、そういう話なんだけれど、これではピコーラの悲劇だけを描いているのかと思う。実際は様々なテクストが重層的に語られ、初めは一体何なのかよく判らない。実は語り手はピコーラじゃなくて、近所に住む別の少女なのだ。では少女の話かと思うと、父親や別の人物の話も始まる。そういう小説もありなんだけど、読んでてどうもよく判らない。案外「読みにくい小説」なのに驚いた。題名が素朴なので、もっとストレートな物語かと思うと全然違った。はっきり言ってしまえば、ここではまだトニ・モリスンは自分の「語り」を見つけていない。
だけど、この小説は重要である。「黒人文学」が「悲劇」や「英雄譚」に止まらず、悲劇のヒロインばかりではなく、「悪」をもたらした人物の内面にも入っていくのである。この小説には多くの人が出てくるが、「否定的人物」も多く語られる。そのような「黒人女性」の存在を描くには、新しい重層的な語りでなければならない。そういった著者の思いを感じる。そこでは「白人対黒人」ではなく、黒人内部での抑圧が描かれる。「ブラック・イズ・ビューティフル」を唱えた時代だが、ここでは「黒人の眼から見ても美しくない少女」という今まで誰も書き得なかったテーマが提出された。
続く第2作「スーラ」(1973、Sula)は、さすがにずいぶんうまくなっている。こっちの方が小説的にはずっとうまくて面白いと思う。オハイオ州メダリオンなる架空の都市に「ボトム」という黒人地区があった。白人は町の低地に住み、黒人たちは山の上に追いやられた。てっぺんなのに「ボトム」(底)と皮肉に呼ばれた町。今はなきこの町の盛衰を、親友ネルとスーラの30年以上の物語として語る。スーラは奔放で、驚くような家庭環境にある。二人で犯した罪が結びつけた絆だったが、ネルの結婚式の日にスーラは消える。そして、10年、再開した二人の起きた悲劇は。
「女たちの友情と崩壊」というテーマは、それまであまり語られていなかったと著者は言う。言われてみればそうかもしれない。物語の大部分は「男と女」であり、女性作家にしか描けない「女友達」はあまり描かれない。今となっては「女縁」という言葉もあるし、女たちのネットワークなしには社会は理解できない。それは常識になっているが、「スーラ」を書いた70年代初期には、トニ・モリスンの先駆的な試みだった。しかも、1919年から1965年までのメダリオンを物語る架空の年代誌として深い感銘を与える。
トニ・モリスンの特徴には、叙情性、幻想性、説話性、重層性などがあると後書きに出ている。まさにその通りで、神話的な世界に魅せられる。ここでも重層的な語りが、ちょっと理解を難しくしているところもある。スーラの祖母のエヴァのとてもない凄さが印象的。「スーラ」を通して描かれる、居場所のない感覚が今になってこそ新しい。風が吹き抜けるような読後感の傑作だ。
トニ・モリスンはまずは大学教員だった。いわゆる「黒人大学」として知られたワシントンのハワード大学に学び、コーネル大学で英文学の学位を取って、テキサスの大学で教えていた。そういう研究者の生活が変わったのは、1962年のこと。学生に勧める文学作品は何かと皆で話していて、選ぶべきものが思い浮かばず、それなら自分で書けばと言われた。それが作家になったきっかけだという。編集者に転じて、1970年に最初の作品「青い眼がほしい」(The Bluest Eye)が刊行された。これはある種「衝撃の書」なんだけど、必ずしも読みやすいとは言えない。
裏表紙の紹介文を読むと、「誰よりも青い眼にしてください、と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたら、みんなが私を愛してくれるかもしれないから。白い肌やブロンドの髪の毛、そして青い眼。美や人間の価値は白人の世界にのみ見出され、そこに属さない黒人には存在意義すら認められない。自らの価値に気づかず、無邪気にあこがれを抱くだけのピコーラに悲劇は起きた。」
まあ、そういう話なんだけれど、これではピコーラの悲劇だけを描いているのかと思う。実際は様々なテクストが重層的に語られ、初めは一体何なのかよく判らない。実は語り手はピコーラじゃなくて、近所に住む別の少女なのだ。では少女の話かと思うと、父親や別の人物の話も始まる。そういう小説もありなんだけど、読んでてどうもよく判らない。案外「読みにくい小説」なのに驚いた。題名が素朴なので、もっとストレートな物語かと思うと全然違った。はっきり言ってしまえば、ここではまだトニ・モリスンは自分の「語り」を見つけていない。
だけど、この小説は重要である。「黒人文学」が「悲劇」や「英雄譚」に止まらず、悲劇のヒロインばかりではなく、「悪」をもたらした人物の内面にも入っていくのである。この小説には多くの人が出てくるが、「否定的人物」も多く語られる。そのような「黒人女性」の存在を描くには、新しい重層的な語りでなければならない。そういった著者の思いを感じる。そこでは「白人対黒人」ではなく、黒人内部での抑圧が描かれる。「ブラック・イズ・ビューティフル」を唱えた時代だが、ここでは「黒人の眼から見ても美しくない少女」という今まで誰も書き得なかったテーマが提出された。
続く第2作「スーラ」(1973、Sula)は、さすがにずいぶんうまくなっている。こっちの方が小説的にはずっとうまくて面白いと思う。オハイオ州メダリオンなる架空の都市に「ボトム」という黒人地区があった。白人は町の低地に住み、黒人たちは山の上に追いやられた。てっぺんなのに「ボトム」(底)と皮肉に呼ばれた町。今はなきこの町の盛衰を、親友ネルとスーラの30年以上の物語として語る。スーラは奔放で、驚くような家庭環境にある。二人で犯した罪が結びつけた絆だったが、ネルの結婚式の日にスーラは消える。そして、10年、再開した二人の起きた悲劇は。
「女たちの友情と崩壊」というテーマは、それまであまり語られていなかったと著者は言う。言われてみればそうかもしれない。物語の大部分は「男と女」であり、女性作家にしか描けない「女友達」はあまり描かれない。今となっては「女縁」という言葉もあるし、女たちのネットワークなしには社会は理解できない。それは常識になっているが、「スーラ」を書いた70年代初期には、トニ・モリスンの先駆的な試みだった。しかも、1919年から1965年までのメダリオンを物語る架空の年代誌として深い感銘を与える。
トニ・モリスンの特徴には、叙情性、幻想性、説話性、重層性などがあると後書きに出ている。まさにその通りで、神話的な世界に魅せられる。ここでも重層的な語りが、ちょっと理解を難しくしているところもある。スーラの祖母のエヴァのとてもない凄さが印象的。「スーラ」を通して描かれる、居場所のない感覚が今になってこそ新しい。風が吹き抜けるような読後感の傑作だ。