僕が改めて「表現の不自由展・その後」中止問題を書こうと思ったきっかけは、8月28日付東京新聞に報道された黒岩神奈川県知事の発言だった。21日の定例記者会館で以下のように語ったと出ている。慰安婦少女像に関して「極めて明確な政治的メッセージがある。それを税金を使って後押しするのは、表現の自由より、政治的メッセージを後押しすることになる。県民の理解を得られない。」
(記者会見で語る黒岩知事)
黒岩知事はこういうことを語る人なのか。穏当そうな感じだから、もっと本質を理解しているのかと思っていたのである。名古屋市の河村たかし市長は、もともと「暴言系」なので(内容はとんでもないけど)中止要求発言そのものには驚かなかったけれど。だがNHKの「クローズアップ現代+」を見ていても、この「税金を使っちゃダメ」論が根強いように思う。一体どうすれば、そういう発想に至るのだろうか。
世界中にはたくさんのアートフェスティバルがある。「あいちトリエンナーレ」のような公募型の美術展も世界各地にある。他にも映画祭、演劇祭、音楽祭などがいっぱいある。そういう芸術祭はなかなか経済的に自立することは難しく、芸術振興、経済効果、知名度向上などをスローガンにして地元自治体などの補助金を得ることが多い。しかし実際の運営は実行委員会などが担い、行政当局は口を出さないのが通例だろう。一体、どこの国に「カネを出すから口も出す」市長なんかいるだろう。日本はとんでもない文化後進国だと世界に知らしめた。(「日本をおとしめた」のは河村氏自身である。)
(黒岩知事発言に抗議する人々)
今まで似たケースがあったのかと思い出すと、2014年の釜山映画祭があった。セウォル号事故でのパク・クネ政権の対応を批判したドキュメンタリー映画「ダイビング・ベル」の上映をめぐり、映画祭側と釜山市が対立したのである。結局「強行上映」されたものの、その後運営委員長が更迭され、翌年の予算が減額されるなどした。(なお、この映画には遺族からの一方的見方であるとの上映反対もあった。)このように金を出す行政当局側が「嫌がらせ」をすることはあるわけである。しかし、このケースだって「税金で政権批判映画を上映してはダメ」などという議論はなかったと思う。
美術展では賞を出さないことが多いが、映画祭などは「コンペティション」部門があるのが普通だ。しかし賞を決めるのは独立した審査員の仕事だ。カンヌやヴェネツィアなどはコンペ部門に選出されるだけでも名誉とされる。だけど、選出されたことが、行政当局が作品を「後押し」していると考える人なんかいないだろう。芸術祭には普通いくつもの様々な部門がある。今回も「こういうのもやってますよ」的な一部門である。確かに公立美術館で開催されるけど、それは「場所貸し」に過ぎない。無料で公開して「多くの人が見てください」と行政が呼びかけているわけでもない。何が「後押し」なんだろう。
例えていえば、こういうこと。公立の自然博物館では、「害虫展」みたいな企画をやってはいけないのか。人も嫌がるハエや蚊やゴキブリなんかの生態を解説展示したりすると、「税金を使って、害虫の存在を肯定することになる」とか言うんだろうか。いや、マジメな話、公立の施設でゴキブリの展示など許せないなんて電話する人がいそうである。しかし「負の存在」を見つめることは、人間世界を理解するために有益なはずだ。自然科学でも、歴史でも、アートでも同じだ。
今回は初めから「表現の不自由展」と題している。どんな優れたアートでも、どこかでもめて展示拒否されたりしてないと出品の対象にならない。だから「表現の不自由展」に出ているということは、政治的だろうが何だろうが「メッセージを後押しする」ことにはならない。これらのアート作品群は、何らかの意味で「もめた作品ですよ」という認定をしているだけだ。それは常識ある人なら、当然判っていて然るべきことだ。それが有力な政治家たちが判らないのである。
昨年ベストセラーになった「AI vs.教科書が読めない子どもたち」という本があったが、もともと大人も論理的理解力が乏しかったのだろう。反対者がいてもめたから、多くの人が見られない状態になってるアート群。それらを一堂に集めるというのは、「実際に見てみましょうよ」ということ以外にないだろう。少しでも「知的好奇心」がある人なら、じゃあ実際に見て自分の目で確かめてみようかとなるはずじゃないのか。そうすると「中止」を求めるというのは、つまり「自分で考えること」への弾圧になる。
そうか、政治家たちは人々が自分の目で感じ、考えることを嫌うのか。何事もお上が決めたことに従えということか。市長は自分の目で見て「中止せよ」と迫った。他の人は見ちゃダメなのである。他の人も見て一緒に議論しようとは言わなかった。市長の一言は「水戸黄門の印籠」なんだろう。
(記者会見で語る黒岩知事)
黒岩知事はこういうことを語る人なのか。穏当そうな感じだから、もっと本質を理解しているのかと思っていたのである。名古屋市の河村たかし市長は、もともと「暴言系」なので(内容はとんでもないけど)中止要求発言そのものには驚かなかったけれど。だがNHKの「クローズアップ現代+」を見ていても、この「税金を使っちゃダメ」論が根強いように思う。一体どうすれば、そういう発想に至るのだろうか。
世界中にはたくさんのアートフェスティバルがある。「あいちトリエンナーレ」のような公募型の美術展も世界各地にある。他にも映画祭、演劇祭、音楽祭などがいっぱいある。そういう芸術祭はなかなか経済的に自立することは難しく、芸術振興、経済効果、知名度向上などをスローガンにして地元自治体などの補助金を得ることが多い。しかし実際の運営は実行委員会などが担い、行政当局は口を出さないのが通例だろう。一体、どこの国に「カネを出すから口も出す」市長なんかいるだろう。日本はとんでもない文化後進国だと世界に知らしめた。(「日本をおとしめた」のは河村氏自身である。)
(黒岩知事発言に抗議する人々)
今まで似たケースがあったのかと思い出すと、2014年の釜山映画祭があった。セウォル号事故でのパク・クネ政権の対応を批判したドキュメンタリー映画「ダイビング・ベル」の上映をめぐり、映画祭側と釜山市が対立したのである。結局「強行上映」されたものの、その後運営委員長が更迭され、翌年の予算が減額されるなどした。(なお、この映画には遺族からの一方的見方であるとの上映反対もあった。)このように金を出す行政当局側が「嫌がらせ」をすることはあるわけである。しかし、このケースだって「税金で政権批判映画を上映してはダメ」などという議論はなかったと思う。
美術展では賞を出さないことが多いが、映画祭などは「コンペティション」部門があるのが普通だ。しかし賞を決めるのは独立した審査員の仕事だ。カンヌやヴェネツィアなどはコンペ部門に選出されるだけでも名誉とされる。だけど、選出されたことが、行政当局が作品を「後押し」していると考える人なんかいないだろう。芸術祭には普通いくつもの様々な部門がある。今回も「こういうのもやってますよ」的な一部門である。確かに公立美術館で開催されるけど、それは「場所貸し」に過ぎない。無料で公開して「多くの人が見てください」と行政が呼びかけているわけでもない。何が「後押し」なんだろう。
例えていえば、こういうこと。公立の自然博物館では、「害虫展」みたいな企画をやってはいけないのか。人も嫌がるハエや蚊やゴキブリなんかの生態を解説展示したりすると、「税金を使って、害虫の存在を肯定することになる」とか言うんだろうか。いや、マジメな話、公立の施設でゴキブリの展示など許せないなんて電話する人がいそうである。しかし「負の存在」を見つめることは、人間世界を理解するために有益なはずだ。自然科学でも、歴史でも、アートでも同じだ。
今回は初めから「表現の不自由展」と題している。どんな優れたアートでも、どこかでもめて展示拒否されたりしてないと出品の対象にならない。だから「表現の不自由展」に出ているということは、政治的だろうが何だろうが「メッセージを後押しする」ことにはならない。これらのアート作品群は、何らかの意味で「もめた作品ですよ」という認定をしているだけだ。それは常識ある人なら、当然判っていて然るべきことだ。それが有力な政治家たちが判らないのである。
昨年ベストセラーになった「AI vs.教科書が読めない子どもたち」という本があったが、もともと大人も論理的理解力が乏しかったのだろう。反対者がいてもめたから、多くの人が見られない状態になってるアート群。それらを一堂に集めるというのは、「実際に見てみましょうよ」ということ以外にないだろう。少しでも「知的好奇心」がある人なら、じゃあ実際に見て自分の目で確かめてみようかとなるはずじゃないのか。そうすると「中止」を求めるというのは、つまり「自分で考えること」への弾圧になる。
そうか、政治家たちは人々が自分の目で感じ、考えることを嫌うのか。何事もお上が決めたことに従えということか。市長は自分の目で見て「中止せよ」と迫った。他の人は見ちゃダメなのである。他の人も見て一緒に議論しようとは言わなかった。市長の一言は「水戸黄門の印籠」なんだろう。