尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

電気依存社会を考えるー台風15号と千葉県大停電②

2019年09月18日 23時01分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 一回目で「電気依存社会」と書いたけれど、その問題をもう少し考えてみたい。ニュースで「罹災証明書」を発行するためには「被害状況の写真」を撮っておいて欲しいと言っていた。でも今では「写真」というのは、デジカメスマホで撮るもんだろう。どっちも多少はバッテリーが残っているとしても、基本的には電気が通じていてこそ使える「電気機械」である。今じゃ、よほど写真が趣味の人以外は、フィルムカメラなんかもう使ってない。家が破損し停電も続いている人は困るんじゃないか。  
(停電が続く夜のようす)
 このように停電が長く続くと、思わぬ問題がいろいろと起こっている可能性がある。たまたま9月上旬で、就活や大学受験などに一番重大な時期ではなかったかもしれない。でも高校生の就職試験には影響が出ているはずだ。また東京五輪の二次抽選というのが確かあったなと調べてみると、11日発表で24日までに購入手続きだそうだ。一次抽選に全て外れた人向けだから、該当者は多くはないだろうが、千葉県でやる競技もあるんだから申し込んでた人もいるんじゃないか。まだ結果も見られてないかもしれない。(何らかの対応策が必要なんじゃないか。)

 消費増税に絡んで政府が音頭を取って「キャッシュレス社会」を進めている。諸外国ではかなり進んでいる国も多く、日本も大きな方向としては次第にキャッシュレス化が進むんだろうと思う。でも、「キャッシュレス」というのは、電気がなければ決済ができないということだ。2018年の北海道地震の時に、たまたま有楽町に行ったんだけど、交通会館にある「どさんこプラザ」(北海道のアンテナショップ)も閉店していた。決済システムが北海道と直結していて、北海道内の停電でネット接続が不可だからと書いてあった。前に一度行ったことがある「休暇村館山」のホームページを見たら、14日から開業再開したがカード決済不可と出ている。日本では完全にキャッシュレスに依存してしまうと危険だなと思う。

 だけど「電気依存社会」、まあ政府の言い方では「電子政府」は元には戻らない。昔は僕も「暗闇の思想」に共鳴していた。これは豊前火力発電所に反対した作家の松下竜一氏の言葉である。明るさ、便利さ、豊かさのみを追求する社会のあり方でいいのか。あえて「暗闇」(不便さ)を甘受することも大切じゃないだろうかというのである。それは70年代初期のことで、まだカラーテレビやクーラーも普及してなかった。「電気」と言えば「電灯」を思い浮かべる時代だった。電気機械としては、掃除機とか洗濯機白黒テレビなどが中心だった。掃除は「ほうきとちりとり」で出来るし、テレビもガマンすればいい。

 もう現代の状況はそんなレベルじゃない。パソコンで事務するんじゃなくて、そろばんと電卓で計算すればいいとは言えない。(ちなみに「電卓」を正式に言えば「電子卓上計算機」だと知らない人も今ではいるかもしれない。)もちろん時間が掛かるけれども、計算そのものは電卓でも出来る。だけど、計算結果のデータを紙の上だけに留めることはできない。日本だけ、ある会社だけ、世界のシステムから切断してしまうことは不可能だ。そもそも「パソコン」や「スマホ」は、「電機」じゃなくて「IT」だと思われている。冷蔵庫や電子レンジと違って、単なる便利器具じゃなく「情報技術」なのである。

 何で電気がそのような「汎用性」(はんようせい=さまざまな用途や場面で用いることができ、有用であること)があるのか。それは「貯蔵」できるからだ。水車は水が流れ続ける。蒸気機関車は石炭をくべ続ける。家庭にある多くの「電機」(電気機械)は、テレビや冷蔵庫のようにコンセントにつなぎっぱなしである。その段階では皆が「電気は便利な道具」だとしか思ってなかった。でも早くから「乾電池」があって、「懐中電灯」とか電池式の「トラジスタラジオ」なんかは身近なものだった。

 だからリクツの上では、電話だってテレビだって、あるいは掃除機だって、持ち運べるはずなのは判っていた。でもバッテリー技術が「持ち運べる」レベルじゃなかった。1980年代後半にはすでに「携帯電話」が存在した。修学旅行や遠足などの時に、旅行会社が「携帯電話を用意します」と言っていた。でもそれはものすごく大きくて重いもので、大きさは紙の広辞苑の半分ぐらい、重さは広辞苑と同じぐらいあった気がする。生徒は持ってないんだから、生徒は公衆電話から掛けるのである。主な使い道は、学校にいる管理職への報告だった。そんな時代から数年すると、グッと軽くなり、さらにメールや写真機能が加わり、多くの人が持つ物となった。ベースにあるものは「バッテリー技術の発展」だろう。
(倒れた送電塔)
 電気に限らないが、商品生産物は「生産」と「消費」の場所が違う。電気も遠くで作って、都会に運ぶ。それはおかしいと言う人もいるが、どんな工場だって離れた場所で作って、都会の店に運んでくる。経済合理性から、それはやむを得ないことだ。しかし、普通の多くの商品では「生産」と「流通」は別の会社が担っている。本だったら、出版社と印刷所と書店は全部別。生産と流通を同じ企業が行うのは、宅配新聞と電気、ガス、水道ぐらいだろう。(まあ小さな会社では、自分で作って自分で運んで自分で売るところもあるが。)このように「電気」は、「発電」と「送電」が必要である。そして「蓄電」も可能だ。

 原発事故によって、発電方法をめぐる議論は盛んになった。それも大切だけど、「送電」と「蓄電」の重要性を忘れてはいけない。バッテリー技術の方は放っておいてもどんどん進歩していきそうだ。だが「送電」の方はどうだろうか。非常に鮮度を必要とする生鮮食品(「関サバ」とか)を除けば、普通は流通過程で価値は減らない。でも電気の場合、「送電」の過程で電気がすごくに減ってしまう。「電気抵抗」があるからだが、もし「常温超伝導」が実現すれば、世界は大きく変わる。それは今は無理だが、というか原理的に完全には不可能じゃないかと思うが、相当程度進歩する可能性があるらしい。電柱の地中化も含め、節電や再生可能エネルギーも大事だけど、国を挙げて「送電革命」を目指すべきだ。
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