自分の音が聴こえるようになれば、楽器は早く上達します。
それが、実際は思いのほか難しいです。これに一生を費やしているような気がします。
人は大体自分の体の内側を取ってくる音と、外界から聴こえる音の2種類聴いています。
自分の声を録音してみると、全く違う人の声だと思ったことありませんか?
それは外側に響いている声だけを聴いたことが無いから、そう思ってしまうのです。
耳は聴いているけれど、脳がそれを分ける作業をしない。耳はすべての音を聴いていますが、脳が選択して聴いているので、聴こえているれど、聴いていないということがおきてくるらしいのです。
それは、意識を向けないと聞けない音があると言うことで、聴くと言うのは、非常に能動的、意識的な作業なんだと思います。
私達はみんな、録音したリ、壁に反響してくる音を聴こうとしたり、こう聴こえると言ってもらったりしないと、自分自身の音が外界にどう響いているかは、わかりようがありません。
脳は点を3個見つけると、人の目と口に見てしまうように、関係ないものをまとめたりつなげたりする名人なので、楽譜に書いてあることを一生懸命読みながら、吹いていると、実際になっていない音すらも、あたかも演奏できているようにきいてしまったりしてしまいます。
その脳の思い込みを解いたり、微妙な違いを聞き分けようと、耳を澄ませているといろんな音が意識に入ってきて、どんどんその聞き分けの幅が繊細になってきます。で、そこまでの聞き分けが日常生活必要ではなく、なんで、こんなことにばっかりこだわっているのかと、自問してみます。
「おまえなんか、きっっしょいんじゃ!優しい言葉なんか、嫌いなんじゃ!」
ある子は、私が関るようになってからことあるごとにずっと言い続けています。
この子にはガンと怒鳴って叱り付けられるか、そうでないの二つの違いしかありません。怒鳴らないでルールを守ってもらおうと思ったら、さまざまな説得の言葉や、方法を五万と考えなくてはなりません。
これが、人が、人と共存するために必要な交流、コミュニケーションの始まりだと思います。
優しい言葉は、繊細で、幅広く、多様性がある。
音楽は、その言葉にさえならない心の奥底の想いのようなものを人と共有する時間だとすれば、もっと繊細にならざるを得ない。そんな音楽だからこそ、多くの人が一音にこだわって作り上げていくのだと思います。