
デュポンという大企業が実名で登場するのはアメリカ映画では常識とはいえ、徹底した敵役なのでやはり驚く。
敵役といっても、会社の人間が悪役として姿を現す場面はごく少ない。下っ端も経営陣も一応描かれるが、たとえば憎々しい顔をさらして悪役キャラクターとしてドラマ上の感情を担うように機能させるのは意識的に避けている。
テフロンの毒性はデュポン内部の調査ですでにわかっていたのを隠蔽していたわけでその良心の欠落に呆れると共に、外部からでは長年にわたってデュポンが蓄積したデータ=証拠を手に入れるのは不可能で(何しろほとんど自社社員をモルモットにした人体実験に等しいやり方で集めたものすらある)、もっぱら情報公開請求によって敵からデータを分捕ってくるほかないのが皮肉であり、一種ねじれたリアリティを出している。
一見負けて史上最高額のペナルティを課されても、実はデュポンほどの大企業なら数日で稼げてしまう程度の金額でしかない。
第三者による検証には膨大な時間と手間暇、費用が必要で、負けたかのように見えたデュポンが改めて争う姿勢を見せたら体力勝負では相手にならず、資本それ自体のシステム=論理としての非情さが経営者や企業の体質を問えば済む通常の社会悪の描写のレベルを超えている。
正直、毎度のことながら邦題の「巨大企業が恐れた男」というのは甚だしいミスリード。企業は恐れなどしない。傲慢ですらない。単に感情とは無縁にシステムが淡々と機能するだけだ。
汚染された土地や水で健康被害を受ける人たちはデュポンの内外の至るところにおり、そしてはっきり顔のある存在して描かれるのは彼らだけだ。
だから後半は社会正義の一応の実現によるカタルシスや、その逆の敗北感や、陰謀の恐怖といったものに触れつつ、一種逃げ水のように結論を先送りしながら幕を閉じる。
全編、知的で端正で終始静かな緊張感と沈んだ戦慄をもって展開する。画面のと音の質も高い。
マーク・ラファロは2014年にも同じデュポン絡みの「フォックスキャッチャー」に出ていたが、どういう因縁か。
マーク・ラファロとアン・ハサウェイの子供たちが順次生まれて大きくなっていくのを点描というより背景としていつの間にかの時の経過として描写していくのが上手い。
ティム・ロビンスが髪の毛が真っ白になりながら相変わらずおそろしくノッポのまま出てくる。